8 つめたいばらのはな
長すぎる名前の公爵家は、とてもこわい家だった。
何百年も続いてきたのは偶然や運じゃない。
生き延びるために容赦なく敵を倒してきたから、何代も続いてるんだろう。
まようことなく。ためらうことなく。ぬかりなく。
そしてもちろん、自分で手を汚すという下手くそなことは決してしない。
「好きなのを選ぶといいよ」
侍女や侍従。まかない女に雑役夫。園丁に馬丁。
王宮のいたるところに、公爵さまの息のかかった人たちがいた。
名前なんていちいち覚えられないぐらいたくさん。困ったことに目印はない。
「覚えないとだめだ。ふふ、たったの五十人さ」
すすめられたのは雑役夫と園丁。彼らは自分の配下を数人持ってるらしい。
獲物と同じ職場の人は避けろといわれた。とくにまかない女はこの手の仕事には向いてないという。
「仕事柄すぐに毒を入れられるから、一番疑われやすい。まかない女は情報を集めるときだけ使うのがいいよ。さあ、この銀の指輪を、選んだやつに渡して命じるといい」
金髪王子は、僕らにばらの花の形をした指輪をひとつくれた。
白き薔薇よとこしえに――
そうラテン語で刻まれてた。読めたのは、聖書を読む勉強をしたからだ。
やってほしいことを言って、子飼いの連中に白く冷たいばらを渡す。
僕らがするのは、ただそれだけ。
「心配いらない。君の手は白いままさ、かわいいアリス」
ばらを真紅に染めるのは、僕らじゃない。
まことのルビーを砕くのは。
僕らじゃない。
僕らじゃない。
何度も頭の中で唱えた。
アリス・ソワレがはやくそれを渡せと急かすから。
――待って。だれに渡すか考えさせて。
『だれだっていいわ。あたしのものを奪うやつは許さない』
――いいや、君のじゃない。
『あたしのよ!』
言葉に反してアリス・ソワレの声は震えてる。
今までこそっと何かをくすねたことはあった。何も考えないで。ごめんなさいとも思わないで。
でもさすがにこんなだいそれたことをするとなると、僕もソワレも怖気づいてしまう。
しっかりしろ。
もしまことのルビーが王様に訴えたら。お父さまと対面したら。
僕らはきっと縛り首。もちろん、公爵さまも金髪王子も助けてはくれないだろう。
自分の身とお家を守るために、きっとあっさり僕らを見捨てるだろう。
僕はアリス・ソワレを守りたい。
その望みをかなえてやりたい。
『お姫様になって王子さまと幸せに、末永くくらしました』
そんな未来を与えなきゃいけない。だってくれぐれもと頼まれたんだ。母さんに。
ああでも、王子ってのは、あの金髪王子じゃだめだ。
本物の王子か、もっといい人を探さないと……
『マチネ、あの人がそうでしょ。早く渡して!』
王妃さまの後ろについて歩いて、噴水吹き出す庭園を横切ってたら。
アリス・ソワレがあちこち伸びてるばらを切ってる園丁を指差した。
半透明のまっしろい手が指す先を、僕はみつめた。
「レディー・アリス、あの園丁からばらの花を一輪もらってきてちょうだい」
そのとき。天のお告げがおりたかのように、王妃さまが命じた。
『マチネ! 行くのよ!』
アリス・ソワレの声が高ぶる。僕らは小走りにその園丁に近づいた。
守らなきゃ。
守らなきゃ。
アリス・ソワレの未来を、絶対に。
「園丁のハリス?」
「はい、お嬢様。さようでございます」
「ばらの花を一輪ちょうだい。それから、厨房の娘をひとり……消して。名前は――」
声がふるえた。でもしっかり音にした。
つめたいばらの指輪を園丁の手の中に押し込んで。
僕は、言った。あの女の子の名前を。
「名前は、ルビー・アボット」
その日の晩、僕らはなかなか寝つけなかった。
たぶん、明日かあさってには、まことのルビーはこの世からいなくなるんだろう。
アリス・ソワレはわざと明るい声を出した。これでいいんだと思い込むために。
『よかったマチネ。これでめでたしめでたしね』
――そうだね。
『あの子ずっさり刺されるのかしら。それとも毒を飲まされるのかしら』
――刺されないといいな。
『そうね。あれは痛いもの』
――うん、痛かった。ああごめん……傷、残るよね。
『大丈夫よ、あれぐらい。あんたのに比べたら』
――うん。
僕らの会話は金髪王子の来訪で途切れた。
「一緒にショコラを食べようと思って。明日は宮廷へ行くのはお休みだろ?」
夜更かししてもいいよねと、エドワードは白い歯をきらりとさせる。
「ところで、だれにするか決めたのかな」
「は、はい。園丁のハリスに……」
「ああ、あいつか。あれなら早くて確実だ。外へお使いに出させて、盗賊にでも襲われたように見せかける。手下たちに、ナイフで滅多刺しにさせるんだ」
「ナイフで……」
「うん。偽装が上手い奴なんだ」
ショコラの味はあんまり覚えてない。
にがくてにがくて、あやうく吐き出すところだった。毒じゃないかと一瞬疑った。
「あふ……あ……!」
おやすみのキスだといわれて、僕らは強引に金髪王子にくちびるを奪われた。
いやだ。
いやだ!
『はなして!』
アリス・ソワレの悲鳴が聞こえた。
気づけば手足の感覚が全然なくて。僕は深い谷の中に叩き込まれてた。
それでも体は動いてる。
白いネグリジェが激しくなびく。
『アリス・ソワレ!』
――だめよ! だめ!
僕らは走ってた。すごい勢いで走ってた。
手にしっかと、くれないのひかりが入った銀の貝を握りしめて。
でも動かしてるのは僕じゃない。
――ナイフはだめ! 痛いもの!
『まて! なにするつもりだ! もどれ!』
アリス・ソワレは半狂乱。ぼろぼろこぼれる涙を拭いながら、ひたすら走った。
まよわず一路、王宮へ。
まだ間に合う。きっとまだ。お使いに出されるのは、きっと明日の午前中――
僕らはそう思ったけれど。夜が更けても王宮はまだ眠ってなかった。王さまがお気に入りのお客人と小さな舞踏会を開いてて。厨房はまだまだフル回転。
「まあお嬢様、なんて格好で」
僕らの絹のネグリジェを見て、まかない女たちはびっくり。
ああでもどこをさがしても、まことのルビーはどこにもいない。
「ルビー・アボット? 陛下が秘蔵の醸造酒を召し上がりたいと思し召しましたんで、ついさっき、森の向こうの倉庫へ取りに行かせましたけど」
――いいえまだ間に合う。きっとまだ。
『助けるつもり?! でもそうしたら、君はお姫様になれない!』
――だまってマチネ!
アリス・ソワレは厩へまっしぐら。ルビーのために小さな馬車が出されてて、厩の扉は開いてた。だからあっという間に白馬にひらりとまたがって、夜の森へと向かわせた。
――ナイフはだめ。ナイフはだめ!
まっくらざわざわなくらやみの森に、ぽつんと馬車の明かりが見えてくる。
ホタルのような淡いきいろのかがやきが近づくと。アリス・ソワレは悲鳴をあげた。
馬車にはもう、「盗賊たち」が群がってた。
ひとり、ふたり、三人。
「やめてー!」
きいろいかがやきが、ぎらっとする怖ろしいものを映しだす。
『やめろソワレ! それ以上近づいたら……』
守らないと。アリス・ソワレを守らないと。
ああでも、体が動かない。少しも動かせない。
『ちくしょう! ばか! この恩知らず!』
僕は声をかぎりに叫んだけど。
「おねがい! ころさないで!!」
アリス・ソワレは飛び込んだ。白い刃の下にいる人めがけて。
銀の貝を、その人の胸に押し付けるようにして。
まことのルビーの上にかぶさった白いネグリジェに、ぱっと真紅のしぶきが散った。
大丈夫よ。
あんたは痛くないわ、アリス・マチネ。
だから泣かないで。
母さんもあんたも、こんなふうにやられたわ。森のなかで盗賊たちに。
あれはほんとに、盗賊だったのかしら?
あたしたち、小さすぎて覚えてないわ。
でもあんたはあたしを守ってくれた。
こんなふうにあたしをかばって、白いぎらぎらでいっぱい刺されたの。
守られてばかりじゃ悪いから、今度はあたしが受けるわ。
だってあんた、あんなひどいのはもうごめんでしょ?
少しかすっただけで死ぬほど痛かったんだから、
あんたったら、どんなに重くて苦しくてつらかったか……
だからあたし必死だったの。
あんたのために幸せにならなきゃってがんばったわ。
生きるためになんでもしようって誓ったわ。
でもこれはだめよ。
あたしのせいで、だれかがあんたみたいになるなんて。
むりよ。できない。
ああ、約束したのに。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。
どうか許して。
王子様には会えなかったけど、すてきなドレスは着れたわ。
それで許して。お願い許して。
『おにいちゃん! おにいちゃん! いやあ! 死なないで!!』
『生きてアリス……ぜったい、お姫様になるんだよ』