6 きつねのえりまき
それから数日、僕は一睡もできなかった。
アリス・ソワレは傲慢だ。弱くて自分ではなにもできないくせに、この体を貸してやってるようなことを言うなんて。
眠ってるあいだに勝手なことはされたくなかった。
エドワードの部屋にいって、二人でいちゃつくとか。
考えるだけでぞっとするけど、ありえないことじゃない。
金髪王子は僕らにべったり。今日も今日とて礼拝堂に入り浸って、僕らの勉強を眺めてる。
『エドワードと話したいわ』
「だめだ。あいつは信用できない」
『どうして? とっても優しいじゃない』
根比べは僕の負け。
疲れ切ってうっかり寝てしまったとたん、アリス・ソワレは望みをかなえた。
ハッと気づけば僕らはエドワードと一緒に果樹園を歩いてて。危うく、抱き寄せられてキスされるところだった。
すんでのところで相手を押して、腕から脱出すると。くすくす笑いが降ってきた。
「反応がかわいいな」
『何で邪魔するのよ!』
アリス・ソワレは大激怒。でもこいつはほんとに信用できない。
きらきら光る白い歯も。小首を傾げて目を細める仕草も。なにからなにまで気に入らない。
「残念だな。僕はこれから、大陸に派遣される使節のお供をしないといけない。その前に君と……」
僕らと? お断りだ!
それから数日、エドワードが御殿を出ていくまで、僕は一睡もせずにがんばった。
アリス・ソワレはぎゃんぎゃん騒いだけど、がんとして手綱を握ったまま。ほんの少しも外へ出してやらなかった。
「アリス、襟巻ができたよ。キスはだめでもこれだけは受け取ってほしいな」
出立の日、エドワードは僕らの首に狐の毛皮を巻いていった。
「かわいそうな籠の鳥。海の向こうから、君の幸運を祈ってる」
金髪王子がいなくなって、アリス・ソワレは意気消沈。
ホッとして僕が盛大に眠ってる間に、エドワードの部屋にこっそり入ったようだけど。本人がいなけりゃ何も起こらないから安心だ。あいつのハンカチを盗んだことぐらいは、大目に見てやろう。
宮廷へ上がるまでの半年は、長かった。長い冬そのもの。
聖堂で半日勉強するのはとても退屈だった。マーガレットと一緒に刺繍をならうのはもっと退屈だった。糸を紡いだりリボンを編むのも、気が狂いそうになるぐらいつまらない。
だから可能な限り、僕は乗馬服を着て馬に乗った。
狐の襟巻を巻いてれば、どんなに雪が降ってたって寒くない。
アリス・ソワレは、エドワードのハンカチを握らせてればおとなしくなる。
イニシャルの刺繍のところに口づけてやれば、それで満足げなため息をつく。
おかげで僕は思う存分、騎兵になった気分を楽しめた。
帝都にどか雪が積もった日、僕らはまっかな馬車に乗せられて、裁判所に運ばれた。
公爵さまの名前は、フレデリック・ハワード・オブ……
なんだか覚えられないぐらい長たらしくて、由緒のあるもの。
お家はかなり古くて、新興の貴族たちとは犬猿の仲だそうだ。
中でも、僕らを死刑にしようとした警視さんのボスとは一番、仲が悪いらしい。
公爵さまはこの人をぎゃふんといわせるべく、僕らを保護した。そうしていろいろ手をつくして、ついに勝負の時を迎えたというわけだ。
僕らの出番はほんの数分。大勢のきらびやかな人たちがじいっとこっちを見てる中で、偉い人がいくつか質問してきたことに、いいえって答えただけ。
「君は、身売りをしようとしたのかね?」
「いいえ」
「マッチ箱にくちづけの跡をつけたそうだが。これは自分からそうしたのかね?」
「いいえ」
「君は、男かね?」
「は……」
『マチネ!!』
「……いいえ」
僕の証言で、冤罪を糾弾した公爵家は大勝利。
警視総監は「実は公爵令嬢だった娘」を誤認逮捕したもんだから、面目丸つぶれ。
その任を解かれて、領地も取り上げられそうな雲行きになった。
『ふふ、あたしのおかげね。あのとき怒鳴らなかったら、あんたそのまま、はいって言ってたでしょ』
アリス・ソワレは鼻高々。これは自分の手柄だと言ってゆずらなかった。
「よくやったアリス。君はこれで晴れて自由の身だ」
「神よ、感謝します。我が娘よ、心置きなく、宮廷へ上がる準備をするといい」
公爵さまもお父さまも、大喜び。
これで午前中いっぱい礼拝堂にいる必要も、御殿の敷地の中にいる必要もついになくなって。
僕らは堂々と外へ出られるようになった。
さっそくふわふわクッションに満ちた馬車に数日乗って行きついたところは、田舎にある、公爵さまの広大な領地。
春が来るまで僕らは、帝都よりあったかい地でぬくぬく過ごした。
都にあるお屋敷よりさらに倍ぐらい広い御殿で、作法の稽古をしながら。
一歩足を引いて礼をとる仕草。
膝だけちょっと折る仕草。
最敬礼の仕草。
フォークとナイフの使い方。
手袋やハンカチ、扇子の扱い方……
――うんざりだ! どうして乗馬は午前中しかやっちゃいけないんだ。
一日中馬に乗りたい!
『あら、あたしは他の稽古もとっても楽しいわ』
アリス・ソワレは上機嫌。婦女子の仕草なんて、女々しくてかっこ悪いって言ったら、ころころ笑ってきた。
『ばかねマチネ。あたしたちは女の子なの』
――一緒にするなよ。僕は違う。
『早く乗馬服を脱ぎなさいよ。家庭教師に怒られるわよ』
いやだ、脱ぎたくない。脱ぎたくない。脱ぎたくない……
長い冬が明けて、五月の女王の祭りが過ぎたころ。
僕らは帝都に戻って、ついに宮廷にあがった。
王宮へ向かう馬車の中で、向かいに座ってるマーガレットはそわそわ。
桃色のリボンがびっしりついたドレスが、てらてらまぶしく光ってる。これですらっとした体だったら、どきりとさせられたかもしれないけど。うん、似合わないってわけじゃない。
アリス・ソワレはうきうき。
瞳のいろと同じ、まっかなドレスには、リボンもレースもたっぷりだからだ。
田舎にいた間じゅう、二人はどんなドレスで王様にお会いするか、吟味に吟味を重ねてた。
興味ない僕はそのときだけソワレを表に出してやったけど、ドレスの形にだけは口をだした。
肩が出すぎるのはだめだって。
「はじめまして、公爵家の姫たち。これからよろしく頼みますよ」
王様と王妃様への謁見を卒なくこなした僕らは、王妃様の取り巻きの中に入れられた。
やることは、王妃様と一緒に手仕事をしたり、遊んだり。毎日お昼の前から晩餐になるまでずっとだ。お気に入りになると、晩餐にも呼ばれる。
体に似合わず刺繍がうまいマーガレットは、たちまち王妃様の目を引いた。
不器用な僕らは苦笑されたけど、他のことで興味をもってもらえた。
「あなたが、灰の代わりに罪を被せられたシンデレラね。都でも宮廷でもすごい噂ですよ」
「はい、おかげさまでこうして幸せになりました」
「お母様の形見をつけてきたのね。素敵だわ」
僕らの唇を見て王妃さまはうっとり。
そう、アリス・ソワレは騒いだんだ。唇にくれないのひかりを塗っていけって。
『あたしもマーガレットも、近いうちに晩餐に呼ばれるかも!』
アリス・ソワレは大興奮。でも、僕はこの王妃様に大いに失望した。
「あの、王妃様は何時に乗馬をなさるんですか?」
「わたくし、外へ出るのはあんまり好きではないのよ」
おっしゃる通り、王妃様はまったく乗馬をなさらなかった。日がな一日、手芸ばかり。
せっかく、乗馬服を新調したのに。乗馬なら誰にも負けないのに。
せめて、王宮にどんな馬がいるか見てみたい……。
『ちょっとマチネ、どこへ行くの? 王妃様の部屋はあっちよ』
「ちょっと迷ったことにする」
僕は、メイドに王妃様の命令を伝えるお使いをするついでに、厩に足を運んだ。
すごい。すごい。
真っ白い馬がいっぱいいる。式典用かな。
葦毛のも栗毛のもすごくきれいだ。ずいぶん丁寧に手入れされてる。
目を輝かせて窓から馬たちを眺めてると。
「いいからとっとと厨房へ戻れ! おまえの話なんざ、だれも取り入っちゃくれねえよ」
馬丁のおじさんが怒鳴って、厩の外にどんと女の子をひとり押し出した。
白いエプロンをつけた、まかない女の格好をした子だ。
「待って下さい、王様に取り次いでください!」
「うるさい。わしはあんたをここの厨房にいれるだけで精一杯だ。あとはもっと身分の高い人に頼むんだな」
女の子が、バシリと閉められた厩の戸に力なくすがる。
『マチネ、早く戻りましょ』
アリス・ソワレが急かしてきた。
たぶんその言葉に従えばよかったんだろう。
でも僕は、その女の子の姿に吸い寄せられた。
色白で。黒い髪で。アリス・ソワレのようにまっかな瞳に。
「どうしたの?」
だから、声をかけてしまった。
かけなければよかったのに――
「何か困ってるの?」
「ああ、お嬢さま」
僕らが着ている上等のまっかなドレスをしげしげと見つめて、その子は必死に願ってきた。
合わせた手の指をぎっちりと組んで、両膝を折って。
まるで神様に願うかのように。
「どうかお助け下さい。私、お母様の形見を取り戻したいんです。盗まれてしまった、大事なものを」
どんな形見?
そう聞くまでもなく。女の子の言葉が僕らを刺した。
「銀の貝に入っている、紅蓮花の口紅を」