5 まっかなじょうばふく
『ねえ、ここは王様のお城じゃないの?』
今日もアリス・ソワレが聞いてくる。公爵さまの館はたしかにバカみたいに広い。
五階建てだし、いっぱいついてる塔はもっと高いし。部屋はたぶん百個以上。
女将さんの館の何十倍あるんだろう? 庭園だって広大だ。表だけでなく裏にも果てしなく緑の芝生と果樹園と水路が伸びてる。
きっと僕らは天国への階段を登ってる最中だったんだ。
そしてついに行き着いたんじゃないだろうか。
公爵様に引き取られてすぐ、僕らは「お父様」に引き合わせられた。
その人は公爵さまの叔父で、前の公爵さまの弟。正妻はだいぶ前に亡くして、こどももいない。それで「かつての愛人とその娘」を探してたらしい。
「アリス。アリスというのか。なんとかわいらしい」
僕らは抱きしめられて、おいおい泣かれた。
お屋敷にはこの「お父様」と、公爵さまとその弟妹たちが、主人一家として住んでた。公爵さまのご両親は、数年前に流行り病で亡くなったらしい。代替わりしてまだ間もないらしくて、公爵夫人とよばれる人はまだいない。
朝昼晩に白パンとお肉たっぷりのスープ。ゆで卵や、パイや、香草焼きのお魚や、いろんな動物の丸焼き。お茶の時間には甘いお菓子にりんご……
どうしよう、出されたものを全部食べられない。
『残していいのよ、アリス・マチネ。お肉は足もとにいる犬にあげればいいわ』
お父さまや公爵さまはそうしてるけど、僕らもしていいんだろうか。
向かいに座るご令嬢は、あっという間にごちそうを平らげてる。
公爵の妹、マーガレット。十一歳。
もっちりした頬にたくましい肩。熊を連想させる体形だけど、その身をくるんでるのは繊細なレースがたっぷりついた絹のドレス。
毎日こんなに食べてたら、そりゃあこんなに大きくなるよね。
公爵の弟、リチャードも同じだ。十歳で、こっちも相当大きな熊の体型。
すらっとしてる公爵さまとは似ても似つかない。
令息はもうひとりいる。公爵さまと一番年が近い弟、十五歳のエドワード。
『マチネ、右を見て』
アリス・ソワレは彼に夢中。食卓に座れば、彼を見ろと僕に催促する。
長いテーブルの一番左に僕らは座ってるから、右を見れば公爵家のみんなが全部見えるんだけど。アリス・ソワレが見たいのはその中のひとりだけ。
公爵さまに似てて、ぜんぜん太ってないエドワード。
金髪碧眼、絵に描いたようなきらきらの貴族の御曹司。
『ねえ夢みたい。あたし、あの人といとこ同士なのよ』
アリス・ソワレの中では、あのくれないのひかりはすっかり母さんの形見になってしまってる。ほんとに自分のものだったってことにしたようだ。
たしかに僕らにはあれを持つ権利があるかもしれない。
僕らがいろんなものを売ったお金で、おかみさんはあれを買った。
だからたぶん百分の一ぐらいは、あれは僕らのものだ。
でもおかみさんにあの口紅を売りつけた人は、いったいどこから手に入れたんだろう?
「父と子と、聖霊の御名によって――」
食事が終わると礼拝が始まる。
公爵様の御殿には、公爵家専用の礼拝堂があって、専任の神父さまがいる。
教会がまるごとひとつおうちに入ってるなんてすごいけど、それで僕らはここにいられる。
ごつごつした石組みの、ひんやりしたここは、小さな聖域。
罪人が保護される特殊な場所だ。
だから礼拝が終わっても、僕らはなるべくここにいなくちゃいけない。
「アリス、えらいね」
午前中、白ひげよぼよぼの神父さまに聖書の読み方をならってると。アリス・ソワレが喜ぶ奴がかならず寄ってくる。
金髪のエドワード。
『ごきげんよう金髪の王子さま!』
はちみつのように甘ったるい声が、僕の中に広がる。
「ごめん、じゃましないでくれる?」
「ああすまない。でも午後からの乗馬に誘いたくて。ついでに狐狩りをしようと思うんだけど」
アリス・ソワレが歓喜の声をあげる。
うんざりして、嫌だと断りかけたら。
「君のために乗馬服をしつらえさせた。きっと似合うよ」
乗馬服? それってたしか。
「スカートじゃ、ない?」
「そうだね。はじめは窮屈かもしれないけれど」
「ズボンなの?」
「うん」
それなら話は別だ。
『やだ、きつきつ』
アリス・ソワレは文句を言ったけど、案の定、僕には快適そのもの。
白いぴちりとしたズボンに、スエードの真っ赤な上着。これなら全然嫌じゃない。
それにしてもぴったりだ。
目視でサイズを割り出したのかな。そこがちょっと気になるけれど、すばらしい。
馬に乗るのは楽しかった。何度も落ちかけたけど、あこがれの騎兵にでもなった気分。
でも狐はかわいそうだったな。
わざわざ森で捕獲したのを果樹園にはなして、数十頭ものビーグル犬で追い詰めたんだ。
『ああ、狐がかわいそう』
アリス・ソワレが見るな見るなと泣き声をあげた。
犬に囲まれて、ついには寄ってたかって噛まれて。そうして狐は死んでしまった。
「毛皮をはいで襟巻を作らせるよ」
でもエドワードはにこにこ。一緒についてきたリチャードもマーガレットも狐が死んだのを見て笑ってる。
貴族ってこんなことをおもしろがるんだ……。
晩ごはんに狐の肉が出されやしないか、僕らは戦々恐々だった。
あんな殺され方をしたものがお皿の上に乗ってくるなんて、ちょっと食欲がわかない。
びくびくする僕らにエドワードがどうしたのと優しく聞いてきて。ぽつぽつ理由を話したら、とたんに食卓は笑いの渦に包まれた。
「ばかねアリス」
ずんぐりマーガレットが鼻を鳴らす。
「ゲームでとった鳩やウサギは食べるけど。狐は毛皮をとるだけよ」
「ほんとばかだなアリス」
リチャードが真似してくつくつ笑う。
でも、エドワードの笑いは、人をばかにするようなもんじゃなかった。
「わからないのは仕方ないよ。宮廷に上がるまでに、ゆっくり覚えればいいんだ」
『ありがとうエドワード!』
宮廷。
そのひとことでアリス・ソワレは大はしゃぎ。
笑われたことなんてすこんと忘れてしまった。
甘ったるい声が金髪王子を賛美する。
『あんたってとっても素敵。ハンサムだし優しいし乗馬はうまいし……ねえあたし、ほんとに宮廷にいけるの?』
「宮廷ってあの」
「マーガレットは十二歳になったら、王妃様の女官になる。君もそのとき一緒にって、兄さんも叔父さんも思ってるよ」
「そうだアリス。それまであと半年、みっちり作法を覚えるのだ」
「お父さま」がいかめしくうなずいた。
うそだろ? 僕らが王妃様の女官に? 本当に?
『すてき! やったわマチネ! ねえあたしたち、ほんものの王子さまに会えるのよ?』
――うるさい!
女官にでもなったら、毎日ドレスを着なくちゃいけない。
そんなのいやだ!
はらいせのように、僕は乗馬服を脱がなかった。
気に入ったからと日がな一日着倒すことにした。
ドレスが好きなアリス・ソワレは大ブーイング。
晩餐にはちゃんとおめかししないといけないんだとか言ってくる。
僕はソワレやメイドたちの言葉を受け付けないで、「ご令嬢のわがまま」を押し通した。
三日ぐらいそうしてたら。公爵さまが僕らを書斎に呼びつけた。
「メイドたちがメイド頭に叱られて困っている。晩餐にはドレスを着なさい。それから……」
『あら! それは……』
銀の貝が僕らの前に差し出された。
中にくれないのひかりを秘めた、あの貝だ。
「君が住んでいた館を調べさせた。女主人がそれを自分のものにしていたよ。君のものだからと説得したが、抵抗したので金貨を渡した。よくぞ……あの女のもとで耐えたな」
哀れみと同情。そしてほんの少し尊敬のいりまじったまなざしが僕らを射る。
呆然として部屋に戻って、貝を握りしめて。
そこで僕はハッと我に返った。
公爵さまにお礼をいっただろうか。うろたえて変な受け答えをしなかっただろうか。
どきどきしすぎて覚えてない。
『大丈夫よマチネ』
ころころと、アリス・ソワレの笑い声が聞こえた。
『あたしがちゃんと、代わりに言ってあげたわ』
――なんだって?
『あなた呆然としてたから。あたし、ありがとうございますって、涙ぐんでみせたわよ?』
――待て。そんなのうそだ。
体は僕が支配してる。アリス・ソワレにそんなことができるはずない。
『うそじゃないわ。あたし動かせたわよ』
――うそだ。うそだ!
『ぼんやりしてるのが悪いのよ。そんなに騒ぐんだったらちゃんとしてよね。でも忘れてるようだから言っておくけど――』
アリス・ソワレは目を細めて、僕の唇に白い人差し指を当ててきた。
真っ赤な瞳で、僕を二つに裂きながら。
『忘れないで? これはあたしの体なの』