2 くちづけのはこ
青白いガス燈がぼぼっとついた。石畳の通りがぼんやり明るくなる。
朝から降った雪のおかげであたりはまっしろ。
日暮れの通りを行き交う馬車の車輪が、ぎゅるぎゅる強引にわだちの跡を作ってる。
「本日最後のひと箱です。たったの三ペンス」
くれないのひかりをつけた口を隠して館を出て。僕らは朝からずっと、燃えないマッチを売り歩いた。
熊いじめのおじさんが、見物客のために広場で炭の缶を燃やしてた。僕らはさりげなくそこにいりびたって、雪降る一日を乗り切った。
くやしいことに、アリス・ソワレの狙いは大当たり。
たくさんの人がふりむいて、僕らの口元を見つめてきた。
まっしろと灰いろが沈み込む街で、僕らの唇は、かっと燃えるルビーだと思われたらしい。
燃えないマッチはぽつぽつ売れて、残るはたったひと箱だ。
「そこの君」
最後の客は、黒いシルクハットの紳士。さくりさくり雪にステッキを刺しながら近づいてきた。
「マッチをもらおう。三ペンスでいいのかな」
「はい。ありがとうございます、だんなさま」
「では、倍出すから、箱に口づけの跡をつけてくれるかね?」
『それじゃお値段は一シリングよ』
アリス・ソワレが笑いながら、そうしろと僕をせかす。
『十倍にしたっていいぐらい。だってお姫様のキスだもの』
アリス・ソワレはばかだ。すっかり自分は、どこかの国の王女のつもりでいる。
でも余分にもらったお金を僕らのものにするのは悪くない。むこうの屋台で焼きソーセージを一本買えるもの。
僕は最後のマッチ箱にそっと口づけて紳士に渡した。
「ああ、よい香りだね。実に甘い」
四倍の値段にしたのに、紳士は怒らなかった。燃えるようなひかりがついた箱を見つめてうっとりしてる。
「フランベルジュ・デ・ルージュ。異国の紅蓮花の香りだ。どうしてこんな高価なものをつけてるのかな」
『お母さんの形見だって言って』
囁くアリス・ソワレの指示通りにすると、紳士は僕らの腕をそっと掴んできた。
「そうか。では、私と一緒に来てくれるかね」
紳士は相当お金持ちみたいで、自分の馬車を大通りに停めていた。黒塗りで二頭立て。
ぎゅるぎゅる、ぎゅるぎゅる。
まっしろな雪道を、馬車はすごい速さで進んでいく。
『ああ、王子さま。きっと王子さまだわ』
アリス・ソワレは狂喜した。まるでお城の舞踏会へ行くかのように。
この口紅は、貴族にしか持てないもの。おかみさんはそう言ってた。
だから形見だってうそをつくことは、もとは貴族だったというのと同じ。
もしかしてどこかのお姫様かと思わせられれば、しめたもの。
『やったわアリス・マチネ。あたしたち、きっとこれからお城に連れていかれるのよ』
悔しいけれどみとめざるをえない。
アリス・ソワレの大勝利。
最後のマッチのひと箱で、王子さまを呼び寄せた?
いいや。
そうは問屋がおろさない。
この世はそんなに甘くない。
『ちょっとここはなんなの?』
魔女の高笑いはほんのつかのま。馬車にのせられ連れてこられたところは、お城のように大きいけれどまっくらな建物。入り口も部屋も鉄格子だらけ。
「あのこれは、一体どういう――」
たちまち青ざめる僕らに、紳士がマッチ箱を指し示す。くれないのひかりきらめく、甘い香りがする箱を。
「真っ赤な唇で客引きしている少年がいるとの通報があってね。知っているだろうが、この国では男が男を買うことは禁止されている。だから――」
紳士は王子さまじゃなくて、都の秩序を守る人だったらしい。
僕らが男娼じゃないかと疑って確かめたんだろう。
まあむりもない。僕らはつんつるてんのズボンをはいてるから。
『あたしは男の子じゃないわ!』
アリス・ソワレが怒りの悲鳴をあげた。
お姫さまはただ、王子さまに拾われたかっただけ。
狼どもに自分を与えようだなんて、ぜんぜん考えもしてなかった。
『あたしは女の子よ! マチネ、ズボンを脱いで見せてやって!』
頭のなかで魔女が叫ぶ。
いやだ、肌を見せるなんて。だって僕は――
『早く!』
「いやだ……」
『いやがってる場合じゃないわよ!』
「警視さん。僕は、男です」
『マチネ!!』
「でも、売りたかったのはマッチだけです」
そう言ったけれど、口づけの跡を箱につけたことは、悪いように取られてしまって。
僕らは鉄格子の中におしこまれて、鍵をがっちゃん、かけられた。
閉じ込められたとたんに、アリス・ソワレは泣き出した。
『母さん! 母さんたすけて! マチネのせいでひどいことになっちゃった!』
困った時ばかり母さんを呼ぶのはずるいと思う。
僕はアリス・ソワレを責めたかったのに。
賢い魔女はよく知ってるんだ。母さんをもちだすと、僕が黙ってしまうことを。
僕がアリス・ソワレをぶったのは一度きり。
まだよちよち歩きだったころ、こいつは、僕が大事にしてた船の模型を踏んでこわした。
とても頭にきたから、頭をばしり。そしたら母さんは、とても悲しげに僕の頭を撫でたんだ。
『どうかやさしくしてあげて、お兄ちゃん。この子は何もしらないの。まだ自分の体もろくに動かせないのよ』
ろくに歩けないどころか、今は自分の体すらない。
哀れでかわいそうなアリス・ソワレ。
君のせいだっていう言葉を呑み込んで、僕は子守唄を歌ってやった。
その歌を聴かせれば、アリス・ソワレは借りてきた猫のようにおとなしくなる。
かつて母さんが毎晩、僕らの枕元で歌ってくれた歌だから。
ごらんなさい
ましろのかがやきがあたりをきらめかしているでしょう
まことのまばゆさがあたりを焼いているでしょう
心配しないでおねむりなさい
まひるの光があなたを照らします
漆黒の炭のようなあなたを照らします……
おやすみ。おやすみ。かわいそうでかわいい妹。
この体は、僕のだよ。