1 くれないのひかり
その声はいつだって、ハチミツのように甘ったるい。
『みすぼらしい娘が実は……ていうのがあるじゃない? ほんとはお姫さまだったっていうおとぎ話が』
アリス・ソワレは夢見る目つきでうっとり話す。
『あたしたちもきっとそんななのよ。伯爵さまとか公爵さまとか王子様さまに拾われて。くったりするまで愛されて。そしてひょんなことから発覚するの。あたしたちは、たいそうなお国の王様の娘だったって』
父親を知らないって、妄想するにはとても便利だ。見も知らぬ人はアリス・ソワレにかかると、伝説の英雄や砂漠の首長や王さまになる。
『ねえだから、あれを唇に塗って? 王子様に拾われるように』
僕の口元にすっと当てられる、白いひとさし指。
――そんなことしたくない。
アリス・ソワレにいいたいことは、考えるだけでいい。
この子は空気のように透明で、ほかの人には決して見えない。
でも、僕にははっきり見える。
がりがりにやせてて、手足は針金みたいで、髪はまっくろ。
じいっとみつめてきて、まっかな瞳の中に僕をとじこめる。
『きっと似合うわ』
――そんなことない。
左と右に分けられて放り込まれる僕は、いつもなさけない顔をしてる。
もしゃもしゃ髪も。でかいばかりの瞳も。輝くルビーの中にみすぼらしく沈んでる。
『嘘だと思うならたしかめてごらんなさい、アリス・マチネ。塗ってみて、鏡を見て、それでもおかしいと思ったら拭き取ればいいのよ』
でもあたしは知ってるの。
アリス・ソワレはくすくす笑う。白いひとさし指を、花びらのような自分の唇に当てながら。
あんた、あれをつけたいと思ってたでしょ。
心のなかでこっそり、あのくれないいろに恋してる。
――ばかいうな!
つけたがってるのはアリス・ソワレだ。いじわるでわがままな魔女。
ためいきをついて。重たい腕を伸ばして。僕はおかみさんの化粧台に手をのばす。
無視したら、アリス・ソワレはかっかと燃えて泣き叫ぶからだ。
『この世界はどうなってるの。あたしがどこにもいない!』
わめいて暴れて大さわぎ。
頭が痛くなるのは嫌だから、僕は銀色の貝を手に取る。
ぴったりあわさった貝のふたを開ければ、くれないいろが目を焼いてくる。
これはとてもめずらしい舶来の品。おかみさんがいつもそう自慢してる。
金貨を何十枚も払ったんだとか。王妃さまが愛用してるので有名だとか。
きれいな花を煮詰めて作られた、艶やかなひかり。
くらっとするほど、甘い匂いが鼻をつく。
「こんなこわいものつけられない」
空に輝く真紅の星。そんなすてきなひかりなら、身につけたいけど。
このくれないは、僕らを護ってはくれないだろう。
「これは僕らの血だ、アリス・ソワレ」
おかみさんは館に引き取ったこどもたちに、物を売らせてる。
古くてカチカチの靴磨き用クリーム。しおれた花束。それから、二本に一本は火がつかないマッチ。僕らは一日中通りに立って、そんなものを人に売りつける。真っ赤にかじかんだ手にはあはあ息を吐いて、あたためながら。
そうして稼いだ僕らの血と息と涙の結晶は、おかみさんのものになる。
僕らがもらえるのは、硬いパンと一杯のスープだけ。
それでも、僕らにとってはごちそうだ。どこにも身寄りのない子にとっては。
『お願い。あたしはかわいそうなあの子になりたくないの』
アリス・ソワレは口が上手い。僕が迷うとすぐに、納得させる言いわけを思いつく。
『マッチを抱えて、こごえたくないわ』
おかみさんはきのうの朝からおかんむり。館のこどもがひとり、逃げたからだ。
その子は路地裏でかちかちに凍って、天の高みへ昇っていった。
手さげかごには、マッチがいっぱい。粗悪品だから全然売れなかった。それでおかみさんにぶたれると思って、館に帰れなかったらしい。
夜は寒いのに。とっても冷えるのに。コートがないんじゃ、こごえるのは当然だ。
『唇が赤かったらよかったのよ。そうしてたらきっと目を引いて、だれか買ってくれたはず。もしかしたら王子さまがあの子ごと買っていったかも。だってあの子の髪は、金いろだったんですもの』
びゅうびゅう、留め金のとれた窓から冷たい風が吹き込んでくる。
一緒に入ってきたのは白い雪。
――しかたないな。
甘い香りを放つひかりを小指ですくう。
べつに僕はこごえたってかまわないけど、アリス・ソワレを殺すわけにはいかない。
だって、母さんにくれぐれもと頼まれたんだ。
『ずっと守ってあげてね』
この世で一番好きな人にそう言われたのなら。
しかもそれが天に召されるときのことばなら。
僕は、守り抜くしかない。