過去といま
幼い少女と、母親らしき女がトラックに轢かれかかっている。瞬きする間もなく、直後にこの二人は死ぬのだろう。骨身を砕かれ、臓腑をまき散らし、惨たらしく理不尽に。
体が動いたのは反射だった。ポケットに突っ込んでいた右手の指を鳴らす。
時が止まった。音もなく世界がモノトーンに包まれる。
しばし呆然とその場に立ちすくみ、やがて決心のついたように溜息を吐いた。
ゆっくりと、ドロドロと粘性を増した空気をかき分け親子のもとへ到達する。親子の体を抱え上げ歩道へとよけてやれば、きっとこれでこの二人は助かるだろう。
信号無視のトラックを持ち上げ、進行方向を正す。スマホを手にする運転手の焦った顔がむかついたので、開いた窓から腕を入れ、軽くはたいてやった。慌てて切ったハンドルによってこの後どうなるかまでは、知ったことではない。死なないようにだけはしておいてやるが。周りを見渡し人がいないことを確認する。
歩道に寄り、ふわりと少女の頭を撫でる。ふ、と不意に笑みがこぼれた。それに混じる感情は諦感か、自嘲か、あるいは自ら救った少女への普遍的な愛情なのだろうか、それは今でもわからない。
元居た位置へと歩み戻り、左手をパチンと鳴らす。世界に色彩が戻り、親子がぽかんとした顔をし、トラックは結局少し先のガードレールに衝突し、そして、その全てを見ていた少年の体が、崩れ落ちる。その体は車に轢かれたように拉げていた。満足したように目を細め、低くなっていく視界を閉ざす。
ぐしゃりと事切れた少年は、少し、わらっていた。
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『お前は理を捻じ曲げ、人の命を救ってしまった。私は死を冒涜したお前を、見過ごすわけには行かない。』
「……」
『……私はお前がうらやましいよ、素晴らしい力じゃないか。私にはないものだ、ただの神には……』
唐突に、何を言い出すのだろうか。看過できないと言っておきながら、羨ましいと言う。この神は俺と同じで人間臭い。
「ならあんたにやるよ、こんな力。そんないいもんじゃあないけどな。」
『……ならば、お前には私の力をやろう。人の欲望より生まれた悪の力、私はこれを押し付けることで宥恕としよう。』
「……悪、ね。」
自分でも聞こえるかという声量で、ぼそりと呟く。人を助けたと言うのに、悪の力とは。皮肉を含むその声音は、虚空に掻き消えた。
『さらば、地球の現人神よ。感謝する。』
現人神、郡上塔梧。その力をもって理を捻じ曲げ人を助けた結果は、人の意思にはびこる「悪」、それを司る神への転生だった。
地平線を塗りつぶす、どこまでも白い空間。そこで交わした何者かとの約束は何故だろうか、どうしようもなく寂寥感を齎した。
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天然浴場の近く、ちょっとした広間にてぼんやり葉巻を吸うトーゴの姿があった。岩に腰掛け、マントの内ポケットから二本目の葉巻を取り出す。その先端を先ほどティマエラに投げ渡されたナイフで切り落とす。黒い刀身を持つナイフ型のシガーカッターは、葉巻の切断面に火を灯しそのまま喫煙することが出来る、マッチ要らずの便利なものだ。戯れにティマエラの作った、しかし手放せない逸品である。
誰かが駆けてくる音がする。カトレアだった。少女の体には重そうな鎧を外し、今はズボンとシャツだけである。手には着替えとタオルを持っているので、やはり目当ては風呂だろうと気づく。
「風呂ならこの奥だ。脱衣所はないが、覗く事は無いから安心して入って来い」
「そう、ありがとう。私、お風呂長いのだけれど、グンジョーさんもあとから入るかしら?」
「トーゴでいい。気にせずゆっくりして来い」
了承の意を伝えるようにほほ笑むと、カトレアは道の奥へと駆け出す。
座り込んだ体の陰に隠れた、トーゴの取り外された左足には気づかずに。
薄暗い一本道を進めば、そこはまさに秘湯だった。天井に連なるツララのような鍾乳洞、浴槽の淵にはキノコのような形を成す岩がいくつも生え、椅子のようになっている。広さは10メートルほどもあろうか、湯気で奥の暗がりは隠れて見えなかった。多分、奥にティスタが一人で入ったのだろう。
どうしてこんなものが……とも思ったが、迷宮とは摩訶不思議な場所なのだ。溶岩が囲む階層を進めば、その下が氷で形どられた迷路であったこともある。そこまで極端なものは流石に少ないが、考えても仕方ない神秘というものを迷宮は体現しているのだ。なにより結局、今はこのともすれば倒れ眠ってしまいそうな疲労感を吹き飛ばしたかった。
おいてあった桶を手に取り、体へと湯をかける。少し熱めの湯が疲れを流し、汚れをこそぎ取っていく。王国設営のどの浴場もかすんでしまうような充足感を感じた。髪をタオルで纏め、浴槽へと足を延ばす。少し浅め、座れば胸の下辺りまでの深さ。のぼせることなく、存分に癒しを与えてくれる。
「アルカトレア。」
不意に声がかかる。湯につかりつつ振り向けば、濃い湯気の向こうに人影があった。トーゴである。
「あら、覗かないって言ってなかった?」
「この湯気じゃ見えん、残念なことにな。ほら、石鹸だ。」
冷やかすようなカトレアの言葉はもっともな言葉で否定された。通気孔がないんだよと軽く笑うこの男が悪徳の神だとは、カトレアにはどうしてもぴんとこなかった。
湯気の向こうから緑色の石が投げられる。パシリとそれを受け取ると、ほのかにぬめりのある石鹸だった。因みにコンディショナーの役割も果たす優れものだ。その説明をしても、カトレアには分からないだろうが。
「ありがとう、髪がべたべたなのよ」
「だろうな。ティマエラが飯を作ってるらしいが、冷めても温めてもらえるだろうからきちんと休め。」
「そんな、保存食があるのに。」
「きちんと滋養のあるもの、ついでに美味いものを食え、育ち盛りだろう。まぁ胸は育ちすぎだな。驚愕の大きさだ」
「……やっぱり見えてるじゃないの。」
「服の上からでもわかる。」
ふっと笑みをこぼし、そう言うとトーゴは湯気の向こうへと去っていった。育ち盛りって程育ち盛りな年じゃないわよ、と独り言ちる。トーゴは案外気さくな人物のようだ。
石鹸を手のうちで泡立てると、紅茶を涼やかにしたような香りがした。
「いい香り。」
翌日。
六人は、カトレア達のパーティー「霧裂き黒狼」を先頭に地上へと歩みを進めた。
カトレア達は、個人の技量はもちろんのこと、チームワークは素人目から見てもずば抜けていた。後衛にサレンとティスタを構え、魔物の気配を察知したサレンは小声で合図を出す。使い慣れた合図は独特の単語なのだろう、トーゴには聞き取れなかった。魔物の体格や息遣い、感知出来る魔力の質から魔物の正体を考察し、仲間へと伝達する。カトレア、アデンバリーの前衛二人が武器を構え、ティスタを守る形でサレンが隊列の中ほどに位置どる。現れた敵は咆哮を上げることなく、カトレア、アデンバリーの凶刃に倒れ伏していった。
しかしやはり、他と一線を画す強力な魔物も出る。そういった敵は基本避けて通るのだが、感知能力の高い魔物に見つかった場合や、一本道であった場合そうも行かない。そんな時はティスタの出番だった。サレンが司令塔となり前衛二人が魔物を翻弄する。攻撃が目的では無い事をしっかりと理解し、手玉に取る。その隙に術の構成を完了させたティスタが小さな竜巻を杖から投げつける。その1メートルほどの竜巻は、その実高密度の鎌鼬で構成されており、着弾した魔物どもはえぐり取られたように肉体を失っていた。見かけによらず恐ろしい魔法を使うティスタだった。
250階より上は見知った敵である。全員無傷のままに階層を駆け上がっていった。
しかし、そううまく行くものでもなかった。225階層まで異例――と言っても前例が少ないが――のスピードで駆け上ってきた彼らは、その階の様子がおかしいことに気づく。人や魔物の気配が無い。225階には転移陣があり、地上から自由に行き来できるのだ。かなりの手練れしか使用しないとはいえ、何人かの冒険者や、魔物の気配があってもおかしくなかった。
「おかしい……なんも、誰もいないっすよ。」
「そうね……今日が特別何かある日ってわけじゃないし……サレン、『死体』で探知してみて」
「……わかりました。」
カトレア達には、このような経験に覚えがあった。
かつてカトレア達がまだ中級冒険者だった頃、それは47階層、つまり45階層の転移陣に近い人気の狩場にて起こった。普段は戦闘の音で洞窟内が絶えず鳴動しているその階は、その日やけに静かだった。何かが、その階の全てを食らったのだ。それを起こしたのは『核』である。45から55階層に生息するアッシュミノタウロスに『核』の放った魔素が降りかかり、フロアボスが誕生した。
エッデルミノタウロス。そう名付けられた新種の魔物は、灰色の体に4本の巨大な角を持ち、拳には灼熱を纏う二足歩行の牛。60階層の転移陣へとたどり着けていない冒険者たちは、数か月47階層で立ち往生したという。
「……いました。死体の近くに……ありゃ多分オーガっすね。おっそろしくでかいっすけど。」
サレンが手にした情報を口にする。オーガのような見た目、体躯は5メートルを超している。手には岩のこん棒を持ち、何故だか表皮まで岩のようになっていると。
「新種か。フロアボスだろうな」
浅い階層を跋扈するオーガだが、220階層あたりから再度出現するようになる。赤褐色だった肌は緑がかっており、腕がひざ下まで伸びている。
サーダンオーガ。その力は浅階層のものと比べ十数倍とも言われ、オーガだと舐めてかかると痛い目を見るどころの話ではない。討伐や素材回収の依頼があれば歴戦の冒険者が数日かけて前準備をするといった程、その脅威は周知されている。
それが、フロアボスとして強化されている。メンバー全員が顔を顰めるのも仕方がないことだ。前人未踏の250階、そこを守護するアルマジロの魔物グルティールを全員が五体満足で倒せたのは、やはり数日かけて前準備し、225階層からの迅速かつ安全な、最小限の消耗で通れるルートを事前に目星をつけておいた為である。今の自分達は物資も、回復したとはいえ体力も万全ではない。どんな敵かも知れない以上、避けて通りたいが……。
「それと……奴は陣のある部屋の前、広間んとこにいるっす。」
やはり。そうなっては避けて通ることはできない。
転移陣を使って移動してきた場合、あまり人が多いと魔力循環の混線が起こってしまう事がある。その状態で連続して転移を発動すれば魔力回路の停滞が起こり、果てには陣が壊れてしまうのだ。それを避けるために、人が捌けやすいよう陣のある部屋は広くとられている、もしくは広い部屋が隣にあることがほとんどだ。オーガの大きい体を収めるには、そこしかなかったのだろう。
そこまでは一本道だ。不意打ちは不可能である。未知の敵と正面からぶつかり合う……今の彼らには少々荷が勝っている。
「なんなら俺が出ようか」
「トーゴさん……大丈夫ですか?」
ティスタが不安げに尋ねる。彼女は杖が折れていることもあり、自分の戦力としての頼りなさと、出会ったばかりのトーゴを信用することに、重ねて不安を覚えているのだろう。
「伊達に30年以上力の制御に苦心していない」
カトレアの前にトーゴが来る。まるで気負う様子もなく悠々と歩んでいくトーゴの背中を、4人は不安げに眺めていた。
やがて道が広くなり、曲がり角から顔を出せばフロアボスが見えた。
「あれだな、サレン」
「はい、そうっすね……やっぱみたことないっす」
薄灰色を混ぜた緑色の肌に、下顎から生えた長い牙。頭に毛はなく、丸太を束ねたような腕は膝の下まで四本伸びている。足は短く、太い。岩のこん棒を脇に置き、足元に転がる冒険者や魔物の死体をひたすら貪っている。表皮はもはや岩の鎧のようになっていた。225階層の冒険者たちでは、敵わなかったその敵。悍ましい体躯を揺らし、顔や腕は血にまみれている。
歩いてゆくトーゴの後ろで、少ない荷物をやりくりしなんとか戦の前準備を終わらせたカトレアが口を開く。
「それじゃあトーゴ……私たちが前に出るから、その間に」
ティスタと魔術の構成を、と言いかけたカトレアに、トーゴが口を挟む。
「いや、俺一人で出る。」
「……何を言ってるの? 前衛なしで魔術を発動させようだなんて、そんなこと無茶よ。それともここから放つの? なら私たちが引きつけていた方が……」
「魔術ってのを、一括りにしていないか。時間をかけて強力な攻撃を後方から仕掛ける、それだけが戦い方じゃあないのさ。」
ちらりとティスタのほうを眺めつつそんなことを言う。ティスタは少し興味を引かれたような表情をしてこっちを見ていた。
「何を……」
「サレン、ナイフ貸してくれ。」
「えっ、ナイフっすか? いいっすけど……」
困惑しつつサレンが肉厚の短刀を手渡す。そのナイフで、トーゴは自らの左手のひらを切り裂いた。カニス・ルプスの面々が目を見開くなか、横一文字に切り裂かれた手のひらに銀色の魔法陣が発生する。流れ出た血は空中を伝ってサレンのナイフに意思があるように纏わりつき、徐々にその形を覆っていく。刀身や柄までも血が覆い、紅蓮の短刀と化した所で、手のひらから血色の鎖が這い出てきた。脈動する鎖はやはり血で出来ており、ナイフへと繋がった。どんどんと大きくなっていくそれは、もはやナイフというよりは片手剣という大きさになっていた。
カニス・ルプスの四人はただ呆けるばかりである。
「これじゃあ少し小さいな……」
そう呟くと、トーゴは腹部の服を捲りあげる。そしておもむろに、その血の剣を腹部に突き立てていく。ぶち、という肉の千切れる音が響いたところで、カトレアがはっと我に返る。
「トーゴっ、なにしてるの!? これは、一体なに!?」
「大丈夫だ、ちょっと待っていろ。」
鍔の所まで深く、深く突き立てられた剣を、今度は思い切り引き抜いた。血が噴き出るかと思われティスタが目を伏せたが、液体音は一切しない。ティスタが次に目を開けた頃には、身の丈ほどもある赤黒い大剣が、そしてそれを携える、刀身と同じ色をした瞳のトーゴがいた。
柄の先に鎖をつないだ、禍々しく、しかし透き通るように美しい両刃の大剣。鍔から刀身にかけて、枯れ木のような、葉脈のような赤熱する模様がある。これを全て体内の血で構成しているのだとしたら、致死量の出血になるはずだが……と、あまり関係ないことに意識を向ける程度に、ティスタは少々混乱していた。
「じゃあ、行ってくる。」
タ、と小さな足音を立て、返事も待たずにトーゴは飛び出す。ぐるりとこちらを向いたオーガが、貪欲な殺意と食欲の咆哮を上げた。低く姿勢を取り地を滑るように正面から向かっていくトーゴへ、オーガは恐ろしい速度をもって二本の左腕を叩きつける。剥がれあがった岩盤や砂ぼこりが、トーゴの姿を隠してしまう。
カトレアは思わず叫びかけるが、ここでオーガの注意がこちらに向いてしまったらトーゴの戦闘に支障が出るだろうと思い、踏みとどまる。心では無事だと思いつつもトーゴの生死を一刻も早く確認したかった。しかし風のない洞窟では砂ぼこりは晴れてくれない。その時オーガの絶叫が聞こえた。
獲物を前に威圧するようなものではない、苦しんでいる。何があったのか?
少し身を乗り出したカトレアのすぐ横の岩壁に、ずどんと大きな音を立て何かが衝突する。すわ新手かとそちらを見れば、二本のオーガの腕だけがそこにあった。トーゴに切り飛ばされたのだろうか。そう思った途端ぶわりと砂ぼこりが晴れる。そこには左腕を失い、重心の寄る右によろけつつ殴り掛かるオーガと、大剣を片手で縦横に扱うトーゴがいた。
オーガは右の手にこん棒を握り、薙ぎ払うように振り回す。フロアボスとなったオーガの膂力をもって繰り出されたその打撃を、跳躍することで躱す。空中で後ろ向きにくるりと一回転し、天井に足をつけもう一度跳躍。オーガの鼻っ柱に向かって剣を突き立てた。
しかしオーガは巨体に似合わず素早く首を振ってそれを躱す。剣は頬を切り裂き、濁った血が流れ落ちる。
こん棒を振り回した勢いのまま体を回転させ、もう一度薙ぎ払うように打撃を繰り出す。ごう、と風を切る音が反響し空気が振動するほどのそれを、着地したトーゴは右手に持つ大剣であっさりと受け止めた。頭上で肘を曲げ左側の地面へと剣を突き立ててあり、左手は鎖を握ったまま脱力している。右手同士で力が拮抗し、ぎちぎちと音を立てるようだった。
しかし、鬩ぎあいすぐに終わりを告げた。トーゴが左手を岩のこん棒へと添えると、大剣の刀身が形を崩し、蜘蛛の巣のようにそれへと纏わりついた。鎖がギャリギャリと左手の傷口からあふれ出す。柄につながる部分は液体状となり、崩れた刀身を改めて形成していた。鎖の長さは変わらない。
「【楼呑】」
トーゴがそう呟けば、全てを赤で覆われたこん棒はゴシャンと低い音を立て、オーガの右手ごと砕け散った。辺りに、赤色が舞う。
砕けたこん棒と共にはじけ飛びまき散らされた血がハート型となり、空中に幾つも浮かび上がった。トーゴの手にしていた剣もが、巨大な赤黒いハート型となってオーガの眼前に浮いていた。抜き身のサレンのナイフが手に握られている。
「【梅花】」
脈動する大小幾つものハートは、その一つ一つが地を揺らすような爆発を起こす。再度、煙に覆われトーゴの姿は見えなくなる。
「……何……あれ……」
カトレアの呟きは、四人の心の代弁だった。自身を神と宣う男は煙に包まれるその刹那、光を反射しないその瞳を無機質に細めていた。