トハンにて、その4 「愛の化物」
「その翌日に私は捨てられるように館を出ました。家も金も用意されてあり、主の最後の実験を見届ける事なく。それが、五年前です」
「二年前に依頼を発注したのは、何が起こったか調べたいから。」
「その通りです」
館を出て三年が過ぎあの小さな家で暮らしているうち、主がどうなったのかがどうしても気になったニゴーは館を探査するという依頼を発注した。
だが、それだと不明な点がある。トーゴは葉巻を取り出しつつ尋ねた。
「なぜ事前に説明しなかったのですか? 襲われる事になると分かっていたんでしょう。それどころか貴方は嘘まで吐いた。」
「出来なかったのです」
「何?」
「人造人間達は護衛兵となった、と言いましたよね。彼らは意志がない。だから、命令を下す必要がある」
「その命令が貴方にも下っていたと?」
「そう。私に下されているのは、『館の外では主に関する事を口外しない事』です。つまりこの屋根の下で無ければ私は嘘しか話せない。少なくともこの館と主についてはね。しかし肝心のここに来て、説明する間もなく襲われてしまった……」
「……そういう事か」
タイミングを損ねたとはそういう事だった。この館で何が起こっているかの一切を、仄めかす事すら出来ずにここへと連れてくるのが精一杯。それだけでニゴーは、大分仕事を終えた気分になったと言う。
「説明だけして一旦帰るつもりでした。探査には探査の、戦闘には戦闘の前準備があるでしょう。どうします、帰りますか?」
「いえ、問題無いでしょう。山道の巡回からそのまま来たので」
「分かりました。あと少し怪我が回復したら……」
「もう一つ質問を。」
「何でしょう?」
「主の名は?」
「ケイゾウ・カツラギです」
やはりだ。話を聞いているときに妙だとは思ったのだ。
この世界の言語は日本語ではない。だから、「二番目」「二号」「ナンバー2」等を表す単語は発声時にこの世界独自のものに置き換えられる。しかしニゴーは「成功作二号」だった。発音がそのまま“NIGOU”だ。もしやとは思ったがこの館の主も日本人で間違いないらしい。
トハンでの副依頼。内容が内容なだけに簡単に終わる事は無いと思っていたが、予想以上に面倒かも知れない。
報酬八万二千ケインズじゃ足りないだろうと思いつつも、いまいち味のしない葉巻を握りつぶし、立ち上がった。歩み寄るのは階段の上、魔術を使おうとしていた三体の人形ども。の、落ちた頭。その顔に貼り付けられた皮膚の継ぎ目に爪をかけ、ひと呼吸。そして、思い切り剥がす。
ビリイィ、ブチブチ。布を引き裂くような気軽な音が、最低な感触を伴ってトーゴの背筋を這いずる。
「……何を?」
階下、離れてはいるが静かな館故にニゴーの困惑した声がよく聴き取れた。距離があっても問題無く会話する。
「この魔法陣です。少し見覚えがあっ……て……」
先ほどこの個体が使おうとしていた魔術、その際顔に浮かんだ魔法陣。その形が何故か、やけに印象に残るものだった。皮膚の裏側に焼き付けられたその形は――
「おにーさん……これ……」
「……星か」
――星魔術の、魔法陣だった。
魔法陣の刻印。ニゴーはそれを知っていた。
皮膚ないしはその裏側に焼き付けられた魔法陣に魔力啓蒙回路――魔力を流す為の溝の様なもの。特殊な鉱石の刃物で彫って造られる――を繋がれ、体内にある魔力をほぼ損なわずに術式へと利用できる方法。人体の消耗が激しすぎるとして禁じられ、おとぎ話にもなった古の魔術である。
人は体内の魔力を使用する際に、幾分かの無駄を出してしまう。
魔力は体内を循環し、掌に集まり放たれ、大気または杖などの媒介を伝って流れ、宙に浮かぶ魔法陣へ。間に魔石などを挟むことはあるが、凡そこの順に魔力は流れて行く。この幾つかのプロセスを辿る内に、魔力が霧散してしまうのだ。
しかし、体内から魔法陣。この手順だけで魔術を発動させるのならば、大幅に無駄を省くことが出来る。この無駄の内多くは、大気または媒介を伝って魔力が流れる、という段階で出るものだ。それをしないだけで魔力消費効率は三倍にもなる。
しかしデメリットが勿論ある。
魔術は発動する際「呼ばれぬ神」の力に作用する。その世界を形造る神の力、エネルギーを動かす行程は、大小様々な次元の揺らぎを生み出す波紋となる。つまり魔術とは、下手をすれば世界の理を壊す「魔」の術だ。そして魔術によってエネルギーを不自然に動かされた世界は次元の揺らぎを取り繕おうとして、揺らいだ場所へとエネルギーを流動させる。流れ動いたエネルギーは魔法陣を通じてその場所へ注がれる。これは一つの自然の摂理である。
その魔法陣を介して溢れ出す厖大かつ純粋な力、世界のエネルギーはすぐに薄まり霧散する。しかしそうなる前に、生物へ到達してしまえばどうなるか。一口には言えないが、様々な悪影響が出るだろう。何度も繰り返せば、言うまでもないが死に至る。
そんなデメリットをものともしない人形に禁術を与えるとは。なるほど合理的で素晴らしい。
その発想には顔を顰めるが。
因みに。
そんな危険なエネルギーが溢れる魔法陣ならば、それを相手に密着させて魔術を発動させれば大ダメージなのではと思われるが、それは不可能だ。
なぜだか魔法陣は生物の体表と、まるで極の同じ磁石の様に反発しあう。それを無理やり接触させるのが刻印――入れ墨や焼き印だ。故に禁術。物理法則、世界の意思、自然の理を無視した所業だ。おとぎ話でも、この禁術を行使したものは惨めな最期を迎えるのだ。
二百年と少し前、魔法陣から溢れる莫大なエネルギーとその悪影響が発見されたときには大騒ぎとなったが、学者以外の者達の動揺は直ぐに収まった。万有引力の法則の発見のようなものだと言うことだ。禁術さえ使用しなければ危険性は皆無なのだと、それは今も昔もただあるべくしてあった法則なのだと皆が安心し、その存在を忘れていた。
それを目の前にして、二人の反応は真逆であった。
「酷いことするもんだな」
「いいねぇ、ワクワクする」
「……お前も大概狂科学者だな?」
「お母さんの娘だからね」
ミューは忘れられた古魔導の禁術に、知的好奇心を擽られて堪らないらしい。
思うにミュアレイト・リンゲンブルーメの恐ろしい所は、その逞しさであろう。なる程確かに、向けられた殺意にはとことん弱い。それこそパニックを起こして動けなくなるくらいには。しかしそれだけだ。彼女はそれ以外の全くが、脆弱などとは言えなかった。惨たらしい死体を前にして冷静であり、悍ましい禁術を前にして湧き立ち、恋をすればこんな所までついてくる。まともであれば、巨大カルトに囚われた友人に会いに行くだなどとは言い出すまい。きっと誰かを殺す事すら、納得すれば成し遂げるのだろう。
それは魔物に関する学問を人生をかけて追い求める母親と合わせ鏡のようであり、普段見せる年齢より幾分か幼い様相は一切排した凛々しき姿であった。こういう所にトーゴは、反対に自身の弱さを見る訳で、手に残る肉を断ち切る感触などに狼狽する自分が酷く情けなく思えるのだ。
「かっこいいなぁ、お前」
「おにーさんが言っても嫌味だよ? ふふ」
そして、剥ぎ取られた人革と落ちた頭部を前にしてからからと笑う少女が、トーゴにはとてもじゃないが――
「魔に生きてるな。」
「魔性って言いたい?」
「あぁ、ぴったりじゃないか」
――あどけないだなどと、思えなかった。
まるで出会った頃の様に、「泥まみれ共」で紫煙を交わした時の様に、ミューは、ミュアレイト・リンゲンブルーメは、凄艶に微笑んだ。
それはまるで夢魔の様で、男の情痴を煽るにはまだ早熟なその肢体でも、ともすれば籠絡されてしまうのではという底知れぬ深淵を覗くような不安感を抱かせる。ミューの枯れ色をした、少し隈に彩られた瞳が深い闇を湛えて、それすらもトーゴの心を惑わす媚毒となり得た。
(……今は、付け込まれてる場合じゃ無い)
更にミューはトーゴが人を斬って傷心なのを分かって、そうやっていた。まさに魔性、コケティッシュ。少しずつ魅了の手法を開発しているのが見て取れる、感じて取れる。トーゴを心の隙間に受け容れたミューは、トーゴの心の隙間に入り込む方法を着実に確実に探り当てて来るのだった。
少し遅めのハッピーハロウィーン。お菓子は要らない、悪戯させろ!
そんなイメージを振り払って、トーゴは考えなければいけない事を改めて整理する。
そう言えばこれで頭目が死んだ理由も判ったのだった。
恐らく件の二人組が頭目を返り討ちにした際に何らかの方法、ありきたりな所では毒なんかで仮死状態にさせ、魂魄魔術で魂を抜き取り、もう一度植え付けた。これは素晴らしく卓越した技術あっての事なのだが、今は置いておく。
こうして頭は、疑似人造人間とも言える存在になった。五感や自我は問題無く機能し、魂魄魔術による生命維持が途絶えない限りほぼ死ぬ事は無い。これだけ聞くと素晴らしき不死の技術にも思えるが、頭や心臓を潰されれば普通に死ぬし、老衰や重病で動けなくなっても死ねないと言うのは拷問に等しい。
禁術によってじわじわと体が崩壊していた頭目は、遂に捕らえられ魔術阻害のロープを巻かれ、魂魄魔術の生命維持が機能しなくなり自動的に死に至る。つまり、怪しい二人組は恐らく最初から使い捨てるつもりで頭目に星の禁術を与えたのだ。目的は相変わらず謎だが、全くもって不愉快な話だった。
二人は階段を降り、一階奥へ続く暗い廊下を見つめる。四足歩行の人形が進んでいった場所だ。ニゴーが回復を伝え、二メートルほどザリチュに先行させてゆっくりと進む。十一本の足でぞろぞろと歩行する様は苦手なものなら鳥肌を立てそうだ。明かりの確保の為にミューが橙色の魔力光を放っており、しかしそれが逆に薄暗くて不気味ではある。ザリチュもまた薄く照らされ、悪魔という名に相応しく闇に浮かんでいた。
すっかり歩けるようになったニゴーに、トーゴはまだ質問がある。
「死体はどうやって調達を?」
「分かりません。安置所から取り出してきたり、生きているものを殺したり様々でした」
「何故主には蘇生じみた真似をするだけの力が?」
「分かりません。才能か、執念の努力故か……何とも言えません」
「星魔術について思い当たる事は」
「ありません。……申し訳無い」
「いえ、何となくは察していました」
これ以上何も分からない。分かっているのは三つ。
この館では人体実験が行われ、人造人間が生まれた。
この館の主は星魔術についての技術を持っている、或いは確立している。
この館の主は日本人である。
盗賊の頭目に刻まれた星魔術と人形に刻まれた星魔術が関連するものなのかは分からないが、恐らく繋がりが無いとは言わないだろう。ミューが言うには唯でさえ珍しい魔術を、この小さな範囲で、それも「魔法陣が身に刻まれる」と言った形で二度も見かけるなんて。
それが偶然だと、有り得なくはない。だが可能性は低い。
何らかの意思が介入していると考えるのが妥当だ。だとしたらそれはこの館の主か、ミューの最終目的地であり、ミルキィの囚われた瓦礫の塔に住む宗教団体か。それらが何をしでかそうとしているのかまでは、トーゴには一切判断がつかなかったが。
「後手に回っている……が、手掛かりを掴めそうだな」
「やったね。少しでも情報が欲しいもん」
「……それも、主が生きていれば、ですがね」
「あぁ……そうですね。まぁ出来るだけ詳しく館を探ってみますが」
そう、最後の実験を終え、主は満足か絶望か諦観か虚無に駆られ命を絶った。その可能性は大いにある。唯でさえ高齢であった主が自然死していてもおかしくは無かった。そうだとしてもトーゴ達はこの館をひっくり返して隅々までを調べ尽くすつもりではあるが、正直なところ死んでいるだろうと予想していた。なんせ館の外は荒れ果て、中は埃と蜘蛛の巣だらけ。これで人が住んでいると言われても俄には、というものだ。
ザリチュが六本の腕をばらりと薙ぎ払った。どかんと大きな音がし、同時にその横の部屋から土埃がぶわりと出てくる。どうやら襲い掛かって来た人形を撃退した様だ。部屋の中に吹き飛ばされた彼らはその巻き上がる埃を以て存在主張をする。
「そだ。おにーさん、ちょっと守って」
「ん? あぁ。何するんだ?」
「見てて」
ミューは目を瞑り、杖を前に出し集中を始める。ざわりと魔力が蠢く。館の中からでも、屋外の気配が変わるのが分かった。そして窓の割れる音が連続して聞こえ始め、ミューは目を開く。
「マーテル・ハーブテイク」
第十一位階の植物操作魔術。既にミューの実力は確実に砂級を超えているだろう。ティスタのお陰だ。
術名を口にした瞬間、緑の魔力が杖から幾条もの光線となって放たれた。それは蔦の形を成し、館を侵食する。外では館を覆っていた本物の蔦が蠢動し、それが窓を割って屋内にまで入って来ていた。
「……五、六……十二……十六……」
何かを数えるミュー。その瞳はキョロキョロと忙しなく、しかし目の前の空間を見てはいなかった。サレンの千里眼に通ずるその様子から、トーゴは何をしているのか察する。魔力で出来たものと本物の蔦を通して館内の光景を読み取り、潜んでいる人形の数を数えているのだ。
「二十四……八。全部で二十八体だよ、おにーさん。次はあそこの部屋に三体」
「流石。ありがとう」
「えへへへ」
ミューを撫でつつ褒めつつ、敵に備え剣を構える。ザリチュがいれば安心だが、不意打ちも警戒せねばなるまいと思って五感は常に尖りきっている。
ミューの指した部屋の前にザリチュが到達する。また腕がばらりと流れる様に伸び、扉ごと中の人形が破壊された。あの攻撃方法は見ているぶんには面白いが、威力が半端では無い。ほぼ不可視の速度で六つの武器が襲い来るのだ、相対すれば絶望である。まぁ、まずその気持ち悪い見た目からして敵対したくないだろうが。もし何も知らない自分がこんな暗い館でザリチュのような化物に出会ったら、間違いなく逃げ出す。悲鳴も上げるかもしれない。
そんな事を考えていると、ごばんと天井を突き破り、二階から三人の人形が降ってきた。ミューに瓦礫が当たらないよう適当に砕き、弾いて飛ばす。人形達は空中で無茶苦茶に拳を振り下ろしてバランスなどあったものでは無い。それでは着地もままならないだろうに、と思いつつ震洋で受け止める。重い。ヴァンズには遠く及ばないが、これは並の成人の体ならば一瞬で粉々だ。警戒していなかったとは言え、トーゴの肩を砕いただけある。
一体はニゴーへと襲い掛かったが、ザリチュが凄まじい跳躍をして撃退した。しかしその際人形の拳が頭に掠ったようで、たたらを踏んで倒れてしまう。それをした個体を引きつけてミューに生死の確認をさせれば、やはりそこは頑丈な人造人間、ただの脳震盪だそうだ。
しかしトーゴがホッとしたのも束の間、空気が急変する。
「ぎあ゛あ゛あ゛あ゛お゛お゛!!!」
「ん゛ん゛ん゛い゛い゛い゛い゛!!」
「ぶお゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛!!!」
「なっ、叫ぶのか!」
唐突に、人形達の皮膚の下にある口から篭った声が捻り出される。文字通りこの世のものでは無い声がもう最悪のハーモニーとなって、軋む館を更に揺らす。
「……やかましい」
震洋をかち上げ、館の壁と崩れてきた瓦礫ごと人形を粉砕する。頭、胸、腹を切り裂き、やり過ぎだと一目でわかる巨大な斬撃は留まらず広い部屋の二つをデブリに変え、なおも彼らは生きていた。いや、死に続けていた。
「ぎっ、」「い゛ぃぃ……」「ゴヒュウーッ、」
「…………ッ」
惨めな声をあげる人形たち。頭だけ、喉だけで。
屠殺された豚のような、焼かれた芋虫のような、潰された、人間のような声を。
予想だにしなかったそれに心を揺らされ、左に握る震洋から、その柄から、手から腕から、「斬った」という思考が這い上がってくるのを感じた。
一生離れないのではと思う、死の感触。殺しの感触。指先から脳天から、自分を冷たく黒いモノが染めていく様な気配がする。死に飲まれる、三十四年前の繰り返し。これは人じゃ無いと何度言い聞かせても、これは人だったと言う事実が頭を過る、過る、過って過ぎって痛みすら覚える。
撒き散らされた臓物が、重く酸っぱい臭いを放つ。その一片も残さず、トーゴはそれらを灰にした。ケセロ平原で【緋為】を放った時のような表情で。
「……【烙乏】」
人形が火に包まれる。近くにいるだけで熱波が肌を焼き焦がす程の高熱を凝縮した、消えることの無い地獄の業火。しかしそれは、トーゴにとっては失敗だった。肉の焼ける臭いが鼻につく。鼻孔を埋め尽くした人脂の香りとベタつきが、皮肉にもまさに地獄の如き不快感だ。かたかたと震える手で葉巻を取り出す。ティマエラの作った黒いナイフでヘッドを落とそうとすれば、指を切った。そして同時に火傷もした。
「……今更だろう、クソ……」
「おにーさん。」
「……ミュー」
「ぐちゃぐちゃになってるおにーさん、可愛い……」
「……そりゃどうも」
またこれだ。こちらの方寸が戦慄く隙を狙って蠱惑誘惑。淫楽と欲望をこれでもかと煽り、しかしその方法は脱衣や身体接触では無く言葉だけだと言うのだから恐ろしい少女である。これを少女と呼ぶことが正しいのか甚だ疑問だが。
下手な大人顔負けの官能的な空気を纏い、花の顔を色に歪ませ、腰を艶やかにくねらせて。自慰行為を彷彿とさせる仕草で自らの肩を掻き抱き、ハロウィーンのどんな菓子よりも甘い声で、恋愛に誘う。
「殺しちゃったね?」
と、楽しそうに言うものだから恐ろしい。
「今度は、あたしが支えるよ。だから、殺す事だって躊躇わなくて良いんだよ。」
「……はッ……お前、最高だよ」
なんてことを言うのか、この少女は。そしてんな事を口にするその表情を「綺麗だ」と思ってしまう辺り、やはり正気ではないのだ。自分も彼女も、三十四年のあの日、三年前のあの日から、何かが決定的に欠けている。それをを取り零したままでここまでやって来た。
彼女の場合、それは愛だとかぬくもりだとか。じゃあ自分はなんだ?
「おにーさんは神様でしょう? それも悪徳の神様。嫌いな物は殺して壊して、眩しい光に耐えられない魔王様。ケセロ平原で言ってたよね、心も身体も強くなるって、弱いのが悔しいって。でもおにーさん、別に弱くないじゃない。ねぇ、何をそんなに怖がってるの? あたしの大好きなおにーさん、人殺しの悪徳の神。恐怖も悲鳴も血溜まりも、貴方が創り出したものでしょう?」
今度は自分がトーゴを支える番だと、先程ミューはそう言った。その方法まで同じようにとは一言も言わなかったが。トーゴのように寄り添うでもなく、優しく言葉を掛けるでもなく、トーゴの胸臆の奥の奥を抉って飽き足らずに削り取り、その心の破片を喰らって居場所を作ろうとしている。辛いのなら私が食べてあげるよと咲いながら。
男の襟懐に潜り込み、その愛と肉を糧として巣食う悪魔。それが、トーゴのミューに下した評価である。
無論、褒め言葉だった。
そんな悪魔なミューの投げかけた疑問に、トーゴは答える。
「『殺す』ってコトをやるのは人間だけだ、ミュー。だから俺は人間なんだ。後にも先にも、それ以外になりはしない。なってたまるかよ。誰を殺そうが何をしようが心だけは飲まれちゃいけないんだ。……だけど、いつか。いつか世界を憎む神の悪徳に堕ちれば、その意思が俺を支配すれば、憎む事しか出来なくなるんじゃないか、壊す事しか出来なくなるんじゃないか、……俺はまた誰も愛せず、愛されなくなるんじゃないか。それが怖い。何より怖い。」
「んー……おにーさんは、なんで人間でいたいの? おにーさんはおにーさんだよ、自分のままでいることを為せる強いひとだよ。それにあたし、おにーさんが例え何であっても大好きでいるよ。ねぇおにーさん、何がそんなに怖いのか、本当に自分で分かってるの?」
トーゴの本来持つ心の有り様。自分のままで居られる強さ。ミューに言われて、トーゴはそれとは何だと考える。深く深く思案の海に沈み揺蕩い、そして一つだけ、気付くことがあった。
「…………俺は……」
三十四年のあの日、母娘を救ったあの日の事。
トーゴが時を止めたのは、彼女達を助ける為ではなく。終始一貫徹頭徹尾、完膚無きまでに冷徹に、『自分が死ねるから』。それだけの理由だ。それは、「悪辣」と呼ぶものでは無いだろうか。
「……はは、そうか」
今更だ、本当に今更な話だった。あの交差点で咄嗟に時を止め、考えていたのは「いざ死ぬのは怖い」、それだけだ。母娘の生命をどうしてやりたいだなんて、そんな事を少しでも想ったか?
自分もあの日あの時あの場所で、決定的に、愛とぬくもりを置いてきた。泣くなと頭を撫でてやったあの少女を見て自分が笑ったのは何故だ? あぁきっと、羨ましかったからだ。劣等感を感じてしまったからだ。愛とぬくもりを体現する母娘が、妬ましかったからだ。それは自分を嘲る笑みだった。
自分の為に他人を救って、その代わりに大切なものを失って、死んで殺して。ティマエラと出会ってそれを取り戻したことに気付くまで、少しだけ時間がかかった。「俺は俺だ」。そうはっきりと断言するのに必要なパズルのピースは、ティマエラが拾い上げ、ミューが嵌めて、トーゴは郡上塔梧となる。
「現人神」郡上塔梧は、優しかったけれど歪んでしまった、悪辣を掲げる一ツの意思だ。
「悪徳の神」トーゴ・グンジョーは、歪んでいるけれど優しい、悪徳に抗う一ツの意志だ。
だが、人間じゃ、無い。
「……そうだな、ありがとうミュー。そんなことにも気付かなかった。俺はずっと、今も、殺してしまった斬ってしまったと苦悩して。その度に唸りを上げて心を喰らう悪徳が、人でなくなっていく感覚が恐ろしかった。だけどさ。」
「だけど?」
「俺は、元から人じゃあ無かったな。」
「そうだね。」
自分は転生を繰り返し、心を擦り減らして彷徨い続ける、神と言う名の亡霊だ。愛とぬくもりを落っことして来て、それを見つければ縋ってしまう弱い弱い神だ。自分は、最初から人じゃあ無い。そこに至るまで、何年掛かったのだろう。吹っ切れたような快哉とした表情で、遂にトーゴはトーゴとしてそこにあった。
「なんで俺は人でありたいのかって、結局は自分の為だった。知らない感情や欲望に飲まれて、今まであった俺を失いたくないから、ってさ。
だがそれは、ティマエラを殺すのに邪魔だな。」
「……そう、だね」
今度こそティマエラを真っ当に愛する為に、トーゴはティマエラを殺す方法を探る。他の誰でもない、トーゴが殺すために。それに、人の身も心も要らないだろう。結果トーゴという人ではない何かが産まれたとしても、それは彼が彼女を愛した証拠だ。ならば恐れることなど無い。何も無いのだ。
悪徳の種は芽吹き、トーゴはそれを鉢に移し。
悪辣の心は根付き、トーゴはそれを御して振るう。
そうすれば、きっとそうすれば、正しく悪徳の神として、ひとを愛する魂のかけらとして、そこにはトーゴがいるはずだから。
「だから、俺は人でなしでいい。化物で、悪徳でいい。例え醜く歪んだ心と身体になっても、それは愛で形どられた醜さだ。ならば、いい。
本当にありがとうな、ミュー。お前のお陰でやっと気付けた。」
紅掛鼠の瞳が揺らめくように輝いて、微笑むその表情は何故だか飲み込まれそうに恐ろしく、愛の為だと口にして人外となる宣言をするトーゴが、余りにも大きく、遠く、力強く研ぎ澄まされていて。ミューには、トーゴのその巨大なティマエラへの愛が、覚悟と生き方を見つけた男としての精悍で見違えるような顔つきが、ここにあるのに無いような、絶遠の、夢幻の風景に見えた。
だって、どんな化物になってでも愛してやりたいと、そんな凄まじい愛の言葉、無いではないか。人の身であっては絶対に紡げないだろう、純愛の、盲愛の、狂愛の、告白。それをしてしまう男がそこにいると、自分の腕の届くすぐそこにいると、信じられなかった。
「……ほんと妬けるなぁ。おねーさんにさ」
あっという間に涙の溜まってしまった目と顔を伏せて隠し、少しばかりの文句をつけてやる。ティマエラがずるい、今はその気持ちでいっぱいだった。自分に溺れさせるつもりでかけた言葉が、自分にナイフを突き立てる。そしてこの背筋も凍る愛の生き物、純情の化物となったトーゴに一層惚れこんでしまったと言うのが、ミューにとって尚たちが悪かった。恋に胸がじくじく痛む。
「ごめんな、こんな話。だがきっとまだ俺は、誰かの全てを奪い断ち殺すって事に、慣れない。それでも、それでも誰かを想えるから、誰かが想ってくれるから、辛くないのさ。なぁ、ミュー。」
その想ってくれる誰かにはティマエラだけじゃない、勿論お前も入っているのだと、これから何かを殺し何かに成る為にお前の心が必要だと、トーゴは遠回しに、分かりづらく伝える。それでもミューには受け取ってもらえたようで、頬を掻き、顔を見上げつつトーゴにまた寄り添うのだった。少し泣き腫らしたような、そんな表情で。
「優しいね。」
「そんな事ない。」
「ある。あー、早くあたしも想われる側に入りたいなぁ」
「片足踏み入れてる、もう少しだ」
「ほんとぉ? じゃあ頑張る」
ミューはまた「大好き」といつものように朗らかに笑い、トーゴの持つ葉巻に手ずから火を点けてやる。その葉巻を吸う姿がなんだかいつもよりやけに似合っていて、ミューはつい見惚れてしまった。そしてこんな場所で頬を染めて、こんな状況にあって恋愛を全うするミューの可愛らしいその相貌を見て、トーゴは「逞しい」では無くやはり「恐ろしい」と評価を改めた。
嘗て世界を燃やし尽くした破壊の神を目覚めさせ、その自覚無く笑う少女。ここはお化け屋敷。一番の目玉は彼女かも知れない。




