トハンにて、その外縁 「彼女は足がはやい」
昨日あらすじを変更しました。
「トハンの楔が死んだ」
そう言ったのは老年間際の男。髪は半ば白くなり、眼鏡をかけたその奥には柔和かつ鋭い眼光。深い赤と焦げ茶色に満月の刺繍されたケープを纏い、石造りの椅子に深く、だが油断ならない雰囲気で身を預けている。そんな態度が気にくわなかったのかそれともその内容が釈然としなかったのか、周りを囲む同じ格好の者達は彼を不必要に罵り、説明を求めた。それに男はなおも泰然とした態度でゆったりと話す。耳あたりの良い声は、低くは無いものの年齢相応の深みを持って落ち着いていた。
「そのままの意味さ。但し死に方は“捕縛”だけどね。ある意味上手くいったよ、きちんと死んだ。」
「あれを捕らえた? んなものものしい。」
「あぁ全くだ。パヴァーサ! 奴に与えたのは何位階だった?」
「星の方は第九位階ですな。捕えたのが冒険者だとすれば、岩級以上の実力かと。」
「いいや鋼級にも匹敵するだろうよ、捕らえるのと殺すのでは訳が違う。それに確か彼、隠れてシコシコ狙い撃つみたいな戦術だったろう。そんなの地味に厄介だと思うし」
「ふむ。確かに」
「あんなしみったれた村の盗賊退治を鋼級がか? 一体全体どういうこった」
「そのままの意味でしょう。期待の新鋭なのですよ、それはきっと。」
パヴァーサと呼ばれた学者風の男は、それをした人物の実力自体は鋼であろうとラッケンに記されるような階級は低いのだと予測する。鋼級はエリートである。王都から離れ何日も掛けて仕事をするのなら、盗賊退治よりも割のいい危険かつ過酷な依頼は山のようにある。わざわざ僻地から「ギルド本部」まで上がってくる依頼は、つまり王都の恵まれた環境で鎬を削る屈強な冒険者でしか解決出来ないとされた、難易度の高いものだ。その分報酬や魔物の素材や希少鉱石などの二次報酬、追加報酬の割も良い。
なのでトハンの楔である盗賊、それを捕らえた者はわざわざ盗賊退治を安く請け合うスキモノか、パヴァーサの言う通りずば抜けた期待の新鋭か、若しくは――
「若しくは、本当に鋼級以上且つ僕らの事を知っている奴、か」
「あぁ、あり得なくはないですなぁ。ここ数年は派手に活動しておりましたから。どこから知ったのかは謎ですが。」
「楔の彼は全員殺してた筈だしねぇ。それでも取り逃がした者が星魔術を知っていて、見られたとかかな? 可能性は低いが、まああり得る」
「では枢機卿猊下、『原型炉』が危険では?」
老年間際の男、枢機卿の側に控えていた少年が声を発する。ローブから覗く肌は白亜を思わせ、衣服の色と相まって目を引く。身長は低く、それに対して声は少し低め。ハスキーに響く喉の震えが、性別を超えて穢したいと思わせる。そんな少年だ。
その少年の危惧した事を、巨躯かつ頭の出来はあまり芳しくなさそうな口調の荒い男が否定する。
「あれが鋼級程度に負けるってか? 馬鹿言うなよ」
「は、しかし。」
「そう、しかし。問題は。」
「件の奴らに、幻石級以上の実力が備わっていた場合でしょう。」
トーンの変わらない声で少年が言えば、ぐ、と喉に何か詰まらせたような表情でグェロは黙り込む。それにくすくすと笑いつつ、枢機卿は少年に冗談を投げる。半分ほどは本気そうだが。
「そうとも。ふ、あいつと席を交換するかいミルキィ? あいつより頭も良く、従順で強い。なんだそっちの方が良いじゃないか、なあパヴァーサ」
「ええ賛成です。如何せんグェロはなんと言うか、その、馬鹿ですから」
「……へぇへぇ。馬鹿なのは分かってるからさっさと命令だけくれや。」
巨漢グェロはポリポリと頭の後ろをかき、バツの悪そうにそう言った。その時だけは、周りの者にはこの大男が酷く小さく見えたものであった。
話は重要事項へと移っていく。
「そいつが『原型炉』を破壊しないとも限らない。だが肝心の日はすぐそこだ、ならば手立てはある」
「どういう事だよ?」
「もう、『炉』はほぼ役目を終えたのさ。そしてパヴァーサがいいモノを開発してくれた」
「あぁ、なる程そういう事でしたか。……グェロ、そして皆様がた。私は万が一の時の為を思って『原型炉』に依らない魔力補填の手段を研究して参りました。そしてつい先日、それが完成致しまして。名を……えぇと、決めてませんでしたね。まぁ仮に『液状晶』とでもしましょう。詳しい説明は省きますが、魔法陣の核にこれを触れさせる事で原型炉の半日分ほどに値する魔力を補填出来ます。」
「たった半日……ってもかなりすげぇんだよな? で、それをどうすんだ? フツーに持ってくのか?」
「その通り。原型炉の破損、機能停止、暴走、裏切り。これらの自体を解決出来る手段の一つを、我等がパヴァーサは造り上げた。そしてそれは、完成直後にして必要とされている。」
「ありがたい事です、研究者冥利に尽きる」
深く腰を折り胸に手を当て、わざとらしいような一礼をするパヴァ―サ。枢機卿と同じくらいの外見年齢の彼だが、寧ろその為だろうか、そんな古めかしく舞台演技の様な動作も素晴らしく似合っていた。
「うんうん。でだね。ミルキィにまで来てもらったのはグェロの言ったそれなんだが、誰か長距離の移動に長けた者を知らないかい? せっかくの研究成果を持っていくにも、急がなければトハンは遠いからね。」
「あぁ、それで」
「……なんかあんのか? そいつ」
「彼は色んな人の所に行ってるからね、顔が広いのさ。」
「……け、なんだってオスガキなんざ。……あ、そうだ。あいつ。えーっと、名前がわかんねぇ、あのあれだよ、穴!」
「うん?」
「……アテリチュアの事ですかね、彼女は……確かに。」
ミルキィは彼の要領を得ない言葉でも思い当たるところがあったようで、一人の名を挙げた。その表情はすこし憂いていて、嫌なことでも思い出してしまったかのような顔をローブに隠しつつ声を出す。声に感情のあまり現れない彼のことだから、その様子の機微には誰も気付かなかったようだ。
「知っているのかい? グェロよりかは君に聞いたほうが良さそうだね」
「ええ、彼女は慰安婦です。回復と浮遊の類の魔術しか使えないのですが、その二つが飛び抜けていまして。足としては優秀です、なんせ飛んで行ける」
「なる程、それで知り合いだったのか。信用には?」
「値しますよ、彼女は壊れている。」
「あぁ可哀想に。」さして興味もなさげに言う。「じゃあ、その娘にしようか。ミルキィ、伝言役を頼めるかい?」
「かしこまりました。ですが彼女は、確か今出ています。夜頃には戻ると思いますが、間に合うでしょうか?」
「問題無い。しかしそこまで把握しているとは驚きだよ。君は中々に優秀だ、昇進も間近だね」
「いえ、勿体無きお言葉、感謝の極み。」
ミルキィはパヴァーサと同じように、だがきっちりとした一礼を枢機卿に向ける。そこに忠誠があるかどうかまでは、誰にも感じ取れないような形式的な礼だ。体躯より一回り大きいローブに腕まで覆われ、深い赤茶色の幽霊のように見える。そんなミルキィを見て朗らかに枢機卿は声をかけ、そして部屋にいる同じ格好のものに声を大きくして伝える。
「はは、励めよ。さぁ諸君! 話は分かったね。明日の明朝にはアテリチュア君に出発してもらう。慎重に慎重を重ねて、別働隊にもすぐ発ってもらおう。“遷民”が失敗すればこれは一大事だ。楔を殺した者がもしあそこの彼らを殺し、人形を殺し、原型炉を殺したとしても、それだけは成功させなくちゃあいけない。」
「ぶっ殺すにも情報が足りねえよなあ。」
「そんなものは幾らでも手に入りましょう。村に入ったもの、出たもの、その人物の特徴、名前、冒険者としての記録。全て造作も無く手に入る」
「そう、だからこそ今必要なのは戦闘の準備じゃあない。イバロッサ!」
「御前に。」
するりと現れる細身の男イバロッサ。ローブのフードから少し漏れる程度にパーマがかった黒髪が伸びている。イバロッサは枢機卿の前に跪き、お手本のような最敬礼をしてみせた。それに枢機卿は問う。
「死ねるか」
「無論。」
――そして秘密の集会は終わりを告げ、皆その大部屋を出る。深い赤と焦げ茶色がぞろぞろと溢れ出し、まるで流血。
ミルキィはこつこつと石造りの遺跡のような意匠の廊下を歩き、大きく割れた罅の上をすら空中散歩の如く悠々と進む。ここは瓦礫の塔。神の作りし叡智の塔。壁にも床にも致命的な亀裂が走り、その隙間からは果てないこの世の絶景が見える。その広大で雄大な景色を見る度にミルキィは、そんな美しき祝福を齎すこの塔に連れてこられた日の事を思いだすのだった。
「……力、か」
その呟く声には珍しく、感情が乗せられていた。
夜。
瓦礫の塔中層部にある研究施設。その片隅に位置する小さな部屋の、小さなドア。ミルキィはそれをランタンで照らし、ドアをゴンゴンと鳴らす。
「はぁい……あれ、ミルキィさん。どうしたんです?」
中から出てきたのは違和感を感じさせる等身の女性。十代後半から二十台前半と言った顔立ちの、痩せぎすで、顔は小さく、髪は細く、目以外の何もかもが色を失ったかの様な人物。青と灰色を混ぜて濁らせたような瞳はハイライトが無く、まるで人形のようであった。
「任務です。トハンという村まで急ぎ運んで頂きたいものが。詳細はこちらをお読み下さい」
「……運ぶ? 私が?」
「えぇ。貴女の足ならば一日と掛からないでしょう、要はそれだけ火急と言う事です」
それを聞いた時彼女は、なんだかとても面白い物でも見たような顔と声をしてわらった。くつくつと、けらけらと、子供の様に道化師の様に、或いはピエロを見た子供の様に。
「足が、速い……ふふ、くすくすくす」
「……アテリチュア?」
「ふくく、あぁおかしい。いえね、私、足の速さなら誰にも負けませんよ。えぇ、負ける訳がないですから。任せてください、きっちり、任務を果たしてきます」
「……貴女は、その……」
「止めて下さいねミルキィさん。同情も蔑みも、何もいりません。私の望んだ形ですから」
にこ、と笑うその顔はとても明るく疲れていた。黒い長手袋に覆われた両手で任務詳細の書かれた紙を受け取り、ふわりと浮かせて机の上に置き、重石もとすんと乗せる。見もせずにそれをする技術は確かに跳びぬけて優秀だと、それだけで思わせるに十分だ。
ミルキィの方をずっと見つつ、アテリチュアはふと思いついたような顔をする。
「ねぇミルキィさん」
「なんです?」
「今日もどなたかに?」
「いえ、貴女にこれを伝えなければいけなかったので、お断りして来ましたよ」
「ねぇ、じゃあ、私が買ってもいいですか?」
「どうしてまた?」
「ほら、私はこれだけですから。どうしようもないんですよ、不安になる」
「これだけ、なんてことは無いでしょう。現に任務をこうして」
「でも私は今、実際に不安です。存在意義なんです。私の穴を埋めてください、ね。」
「……ふ、上手い事言ったつもりですか? あと、僕は女性相手は初めてですよ」
虚ろも虚ろ、眼球すら失ったような瞳でからめとる様に見つめられ、溜息を吐いてミルキィは久しぶりな気がする心からの笑みを零した。穢れて壊れた彼女をこんなにも綺麗だと思ってしまうのは、惚れた弱みだろうか。赤くなる頬と期待に高鳴る胸をいつものようにフードに隠して、当たり障りのない、しかし本音で接する。それはミルキィの、最上級の信頼を寄せる相手にしかしないコミュニケーションだった。
「えっ、そうなんですか? ふふ、ごめんなさい。私みたいなのが初めてで」
「いえ、この塔の中で言うのなら、貴女は一番好きなひとだ」
震わせず声に出せた自分を褒めてやりたいとミルキィは思う。でもそれも当たり前かもしれない、彼女は誰にも応えない。だから、ただの戯言としてしか意味を持たないこの言葉を紡ぐのに緊張するなんてことが、おかしいのだろう。
「嬉しい事を言ってくれますね。でも、あぁ、ごめんなさい。本当にごめんなさいね、『優しくリードしてあげる』だなんて、私は言うことが出来ない」
「お互い難儀しますね」
「好きにしていいですから、何をしても私、構いませんから、まぁやりたいようにやってみて下さい。」
「そうさせて頂きますよ、お代は結構です」
「ありがとう。これは徹夜ですかねぇ、向こうで寝る事にしましょう」
小さなドアを潜る時、アテリチュアは少し頭を下げて、ミルキィはそのまま通る。身長差は十五センチ程だろうか。これはミルキィが酷く小さいのではなく。そして彼女が大きい訳でもない。
アテリチュアとミルキィは冷たいシャワーを浴び、これまた小さく窮屈なベッドに二人寝転がる。
二つの義手と二つの義足を棚に置いて、アテリチュアは、小さく小さく、腕の中にあっても消えてしまいそうに小さくなった。身長差はさらに広がって五、六十センチ程か。さっきには彼女の頭が上にあったのに、今では。ミルキィはぎしりとアテリチュアに覆い被さり、両の腕を支柱にして彼女を見下ろす。アテリチュアはミルキィをくすぐったいような視線で弄い、その肢体を視姦する。普通は男女が逆ではなかろうかと思ったのだが、アテリチュアは「では貴方も存分に見やると良いですよ」とほほ笑み、それにミルキィはどうしようもなく負けた気がしたのだった。
「やぁ、こんな体でもきちんと反応してくれるんですね」
「今更でしょう。それに……」
「……それに?」
惚れているのだから当たり前だと、いなされると分かっている言葉を口に出せるほどミルキィは大人ではなかった。だから、少し誤魔化すように本音を言う。
「……もう、良いですか。なんだか余裕がない」
「怖じ気付かないのは流石と言うか、慣れてますね」
「怖じ気付かないのは性分です。彼らにどうされたからじゃあない」
「男らしくて良いですよ。それに結構筋肉もあるんですね、喉仏も素敵です」
アテリチュアは無い筈の腕でミルキィに触れる。浮遊魔術の応用だった。羽でなぞられるよりも強く、舌で舐められるよりも優しく、ミルキィの頤や脇腹や鼠径部なんかのひときわ敏感な部分を楽しそうに見えない力で愛撫する。擽ったさと気持ちよさの狭間でミルキィは、何故だかされるがままにされてしまった。それが嬉しくてもっとして欲しかったから、とも違うような、何故だかとしか言い表せない感覚を覚える。
「……っ、それ、どうやってるんです」
「ふふ、素敵でしょう。案外不便は無いものですよ。あぁ可愛い顔です、彼らが買うのも分かりますね、これは歪ませてみたくなる。ここも、ここも、あんな男たちに拓かれてしまって、淡く撫でるたびに肩がぴくぴくと――」
「ちょっと、黙ってくれますか」
「――……すみません。しゃべり過ぎました。……ね、私の事もお願いします」
「勿論。やり返させて頂きますからね」
にやりと感情を露わにするミルキィを見て、アテリチュアはああ、そういう所は年相応に子供ですね、とは言わなかった。
ミルキィは未知への困惑を垣間見せつつも躊躇わず、まず首筋に指を這わせ、そして少しずつ鎖骨、腋、胸とゆっくりゆっくり溶け合うように顔を沈めて、舐め、撫でて行く。
「く、ふ……あ、そこ、そこ弱いんです……あッ、くぁ……」
「ここですか? ねぇ、気持ち良いですか」
「上手ですねっ……ぁ、んふ、センス、ですかね……、っはぁ……」
「声、押さえないでくださいよ。お願いです、聞かせてください」
ミルキィは頭を柔らかい彼女の肌に沈めて、その赤くなった顔を見せずにねだる。それをすら分かっているアテリチュアは、可愛いですねぇと、久しぶりに自分を抱く異性に好意的な印象を持った。そしてそれから口にした言葉には、彼女もまたミルキィと同じく信頼ゆえの本音を乗せた。
「あんまりっ、抑えているつもりも無いですが、その……こんな風にされたの、初めてかも知れない、ので……ちょっと私もッ、戸惑ってるんですよ……」
それを言った瞬間に優しかった指の感覚が食い込むほどに強烈になる。乳房を荒く揉みしだかれて、この可愛らしい少年にアテリチュアは雄を感じるのだった。やっぱり男ですねと嬉しそうに言えば、ミルキィは当たり前だろうと言わんばかりに片腕でアテリチュアの小さな体を抱き、もう片方の手で皮膚の薄い場所ばかり責め立てる。
「あっ、はぁっ……ひッ! くぅ……ん……強気ですね、っは、嫌いじゃないです、よ……」
「……さっき言っていた、こんな風って、どんな風です?」
腰から鼠径部を撫でる手は止めずに、上目遣いで聞いて来る。そんな子犬のような狼のような仕草もミルキィにはやたら似合っていた。アテリチュアは魔術でミルキィの頭を抱き、頬を撫でつつ言う。
「……おっかなびっくり、私を気遣って、でも堪らなく求めて……まるで、恋人。みたいな。ふふふふ、馬鹿な事を言いましたね、すみません」
ぎゅう、と胸が締め付けられる。こんなことを、真っ直ぐ目を見て言わないで欲しいと、ミルキィは内心叫びたくなった。
ミルキィは確かに、男のものとは全く違う、それも好きな女性のそれを前にしていつものように事務的に男娼としての仕事をこなすことを止めていた。それは「代金は要らない」と言った時からそうしようと思っていたことだった。
貪りたい、掻き抱きたいのに、その方法が分からない。だから必死に良いところを探して、撫でて、舐めて、愛して、こんなにも壊れた彼女でも、それ以上壊さないように気遣って、彼女を知ろうとした。
「……馬鹿、ですね。本当に」
「あら、言ってくれる。ふふ」
恋人の様に? 違う。自分も彼女も、恋をするには手も身体も汚れて穢れ過ぎた。だからこれは互いの心を満たす自慰行為だ。そのやりかたが、まるで恋人のそれに近かっただけで。そしてこれが心の穴を埋めるための慰め合いだと言うのなら、彼女をどうしてやるのが一番なんだろう。
――と、自慰だと言いつつアテリチュアを悦ばせようと考えてしまう矛盾に、ミルキィは乾いた笑いを漏らす。
「ねぇ、アテリチュア」
「……ッ何です? ん、ぁ。……喋るなら手、止めて下さいよ、もう。イジワルですね」
「そこ、触れても良いですか」
ミルキィは左腕の断面、肩からすぐそこを眺めて言う。とても、綺麗な断面だった。彼女自身の回復魔術という希少な魔導技術によって、最初からそうだったかのような腕。白く滑らかで、薄く肉の色が透けるそこ。酷く、官能的であった。
「……凄く、すごぉく敏感なんです、優しくね」
「はい」
す、と手を伸ばして愛おし気に撫で、口付けをする。もう片方の手は先程とは打って変わって、限りなく淡くなぞるように胸や腕や顔を這い、アテリチュアの歪な形を確かめているようだった。
「……はッ、あ…………んふ、ぁ…………ッあ。……なんで、ですかね、ぁくっ……いつもより……」
「久しぶりだからじゃないですか、アテリチュア。すごく可愛いですよ」
「ん、ふふ、嬉しッ……ぅあ、んんッ……は、ねぇ、ミルキィ。」
今度はアテリチュアが名を呼ぶ。さん付けを止めたその響きが、ミルキィには焼けるように熱く脳に響く。そんなぐらつく風邪を引いたような熱を更に煽る言葉を、アテリチュアは投げかけてきた。
「なんですか」
「キス、しましょうか」
「……いいんですか?」
「良いですよ。もう、これっきりですから。ね、ミルキィ、そうなんでしょう?」
「……バレてましたか、敵いませんね」
「あんな任務、普通私なんかに回らないですよ」
そう、彼女は気付いていた。彼女には気付かれていた。
ミルキィは彼女をこの塔から逃がす為に、枢機卿に「彼女は信用できる」と嘘を言い、単独で行動できる任務に指名をしてやったのだ。グェロが彼女の事を言い出した時点で咄嗟に思いついた出来損ないの逃亡作戦だが、幸い自分は、皮肉にもアテリチュアと違って信用されている。功績や普段の態度なんかがそれに一役買って、無事彼女は任務を帯び、明日の明朝に一人でここを出て、自由の身になる。彼女の足ならばどこにでも行ける。此処にはもう、帰ってこない。
だから、彼女が自分を買うと言ってくれた時、実は跳び上がる程嬉しかった。もう、二度と会えないかもしれないから。そして更に彼女は、誰にもさせなかったキスをしようと言ってくれた。やはりこれもミルキィにとって、歓喜であった。例えそれが好きになったからでも何でもない、「せっかくだから」という心境で差し出された唇だとしても、歓喜であった。
つまりミルキィは、他人と比べて少しお気に入りだからという理由で自分が選ばれたのだとしても、口付け以外のもので散々穢された末にファーストキスを迎えるその唇でも、良かった。
自分達は、恋をするには汚れて、穢れ過ぎているから。今更きれいなものを望む程我儘でも、身の程知らずでも無かった。
「明日の朝には、さようならですね」
「もう今日ですよ。」
「あぁ、本当だ」
時刻は0時12分。未だ朝までたっぷり時間がある。
「キスなら……少しは、してやれますかね」
「えぇ、キスだけは私、初めてなんですよ」
額同士をくっつけ合い、くす、と笑ってアテリチュアは目を閉じる。その顔は眠る様で、しかし少しだけ差し出された唇は、彼女の体のなかでも数少ない、薄紅色をしていた。
「……ん」
重ね、食む。
「ん……っく、ふ……」
舌を絡め、体液を交換し。
「……はぁッ……ぅん…………ちゅく……ぷは……」
見つめ合って、わらいあう。
「好きでした、とても」
「好きでした、少しだけ」
夜が更ける暁、アテリチュアが「液状晶」を背負って塔を飛び立つ。朱色に溶けて消えて行くその姿を見て、ミルキィはかり、と口の中を噛んだ。永遠に成就しない恋と永遠に訪れない失恋を抱え、これは虚無感だろうか、喪失感だろうか。昨夜、彼女の見せた笑顔と唇の感触を思い出し、ミルキィは久しぶりに、
「好き、でした。さようなら……アテリチュア」
少しだけ、泣いた。




