トハンにて、その1 「人であること」
トハン編、スタートです。
「次が最後だ。そろそろ、疲れてしまったね。」
もう日もすっかり落ちているというのに、灯りも点けずに窓の外を眺める男。二つの月はその窓からでは見えず、ただ疎らな星のみを浮かべる夜空に、何かを見出しているようだった。
背筋は曲がっていて、髪も余すところなく白い。もう老年の薄汚れた白衣を身に纏った小さな男が、内容に反して誰に話しかけるでも無いように呟く。窓外に見るのはもしかしたら空の上、天国とでも言うのかと思わせる。
その部屋にはもう一人、一回りほど年下と思われる男が真っ直ぐに背を伸ばし後ろに手を組んで立っていた。服装は麻のシャツにだぼついたズボン、それにベストを羽織っている、所謂平民服だ。しかしその佇まいはぴしりと糸で釣られたように張り詰めていて、服装こそ違えどもまるで良くできた従者のようだ。
そんな二人が暗い部屋に並び、なお暗い声色で言葉を交わし合う。振り返った白衣の老人は、窓から漏れる微かな星の光に照らされ、柔和な笑みを浮かべていた。平民服の男はそれを真っ直ぐと見つめて、言う。
「……では、私達はどうなるのでしょう」
「君ならば好きなように生きていけるさ。今だから言うが、君だけは、そうあるようにと願ったんだ。」
「何故、私だけ」
「それが分からない君じゃないだろう。でも、そうだね。全て終わったら、あれを開けてみなさい……やぁ、もうこんな時間だ。今の内に聞いておくよ。」
「……何でしょう?」
「死にたいと思ったことはあるかい?」
その問いに、男は答えなかった。
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トハンはアッデン東を馬車で二日行った所にある、小さな村だ。山羊のミルクを特産品とする一般的な農村。土地面積はそこそこ広いが、そのほとんどを牧場と畑が占めており、人口は四百人程とやや少ない。近くの丘から村を一望すれば、オレンジの屋根と黄色くなってしまった漆喰の壁を持つ家が、まちまちと並ぶ。その中心には村のサイズに比例した小さな教会があり、信仰対象は豊穣の力と、それを司った「呼ばれぬ神」である。それはありふれたものだった。
夕方頃になり、トーゴの乗った馬車が到着する。トーゴ達は村に立ち入り、その長閑な風景にしばし浸りつつ村を散策した。村の家々を囲うように寥郭たる牧場が広がり、時折山羊の鳴き声が聞こえてくる。他の家畜もいるようだが、鳴き声では判断が付かない。
そして目に入ったのは、人型の獣だ。首輪をつけられ、馬車馬代わりに荷車を引いたり、大きな荷物を運んだり、掃除をさせられたりしている。どれも自立して動いているようで、理性を感じさせた。
「ミュー、あれなんだ?」
「え? あ、獣人奴隷だよ。知らない?」
「あぁ、教えてくれるか?」
「うん」
彼らは獣人。耳と尻尾だけを生やしている獣の亜人とは違い、全身は毛で覆われ、顔や手足の形も人とは違い動物のものを持つ。あまりに人とかけ離れた姿は恐れられ、差別と、その末の迫害を強いられた。そして彼らは魔力を持たない。大きな獣としての膂力はあれど、その力は彼らを迫害する、魔力を持った者達へは届かなかった。
抵抗も及ばずやがて奴隷の身分にまで落とされた彼らは、まずウェアや人類を恨んだ。しかしそれも遠い過去の話で、今は「そういうもの」として価値観が根付いてしまったらしい。
王都では奴隷はほぼいない。奴隷がいると寧ろ失業者が増える程に人が溢れ、そしてまず獣人を汚らわしい物だとして避ける者すらいる為である。なのでトーゴはここで初めて獣人を目にすることとなった。そんな王都とは逆に農村や小規模の街では、無くてはならない労働力としてその自治体のものと言う名目で纏めて買い上げる。その為個人が好き勝手に痛めつけたりなどと言う悲惨な事態は、幸い殆ど無い。仮に死なせたりでもしてしまった場合、その賠償金は安くない。
トーゴは奴隷だなんて、と思うがそれも仕方のない事だろう、何せ文化が違うのだ。それでなくとも差別と言うのは肌の色の違いだけで起こるものである。あれだけ見た目が違ってしまえば、それもまた道理と言えてしまうかもしれない。
役場に着いた。トーゴは依頼書とティマエラに加工してもらったラッケンを首元から取り出し、依頼受注の旨を伝える。盗賊がいるのは村の南東にある小さな山で、一つしかない山道を通る者相手に悪事を働いているらしい。
盗賊退治の依頼は、達成条件が大きく分けて二つある。一つ目は追い払う事だ。それが完全でない場合や追い払ったと嘘をついて不当に報酬を得た場合、違約金や罰金が科される。また盗賊がその地に戻って来ない為にも、一定期間の監視、周囲の巡回が必要となる。二つ目は対象の壊滅。生死は問わないらしく、後から依頼者かその代理が達成確認、つまり捕らえた盗賊、もしくは死体の有無の確認に出向く。その警護も依頼の内に入る。そこで依頼者に何かあった場合は罰金を兼ねて報酬取り消しとなる為、壊滅させるのであれば、きちんとやり遂げなければならない。つまり対象を一人残らず無力化、単純な方法では殺害すると言う事だ。捕らえるのと殺すのでは、簡単なのは殺す方である。
盗賊団の名前を聞き出せば、それが有名な盗賊集団であった場合は報酬が上乗せされるので、捕らえて名前を聞き出してから殺すという手段が稀に取られる。しかしそれにはかなりの技量や労力を要求される為、最も多く取られている達成方法は追い払う事だった。
「いやぁ助かりました、まさかこんなに対応が早いとは」
「ギルドの優れた依頼管理あってこそですよ。それに事はこれからです。」
トーゴ達は早速明日の早朝に村から南東を通る零細商人の馬車が出るらしいので、それに護衛で付き添いつつ討伐に向かうことになった。
あまり長い間盗賊の類をのさばらせておくと、「ここは仕事に都合のいい場所だ」として認識されてしまい、一度追い払っても機を見て戻ってきてしまうことがある。なので迅速に対応し、ここでは好きにさせないと言う事をアピールするのだ。その為にギルドは非正規武装集団の討伐依頼は積極的に掲示板に貼り出している。報酬の割もいいので、腕に自信のある者達の主な稼ぎとなっていた。
副依頼に関しては、二年前とは言え確かにそれを発注した者がいるらしい。その者は丁度村を出ていて、数日経てば帰ってくるそうだ。それから詳しく話を聞き、どう行動するかを決めよう。
「宿に案内しますよ、ちっぽけなものですが……」
「いえ、助かります」
案内されたのは宿というより小さなロッジだった。左右非対称になった三角屋根と赤い木の板の壁。それが四つ並び、一つのロッジには四人ほど泊まれる。確かにこんな小さな村に団体で泊まりに来るものはいない。来るとしたら冒険者パーティーか行商人だろう。それならばこのロッジで事足りる。
部屋に入り一旦荷物を置く。トーゴはほぼ疲労は無いが、二日間の馬車旅で体をぎしぎし言わせ、しきりにお風呂に入りたいと言っていたミューを清めてやる。風呂やシャワーなど無いこの村でどうやってそうしたかと言うと、ロッジの裏手にてトーゴが空中に浮く温水の球を作り、そこに同じく浮遊させたミューを投げ込んだ。後ろを向いていたので一切肌は見ていない。日もすっかり落ちているので誰かに見られることも無いだろう。さっぱりしたミューはついでに服も洗い、動きやすい服装へと着替えた。寝巻は持ってきていない。
ロッジに戻ったところでミューがベッドに飛び込もうとしたが、それを空中で抱えて受け止める。南京虫に噛まれたりでもしたら大変だ。ミューの珠のような肌をそんな事で損ねる訳にはいかない。トーゴは寝るときは厚布を敷くから、それ以外ではあまり触らないようにしろと注意した。ならばミューのいる所は一つである。トーゴの膝の上だ。トーゴは木製の温かみのある、とは言えない程度に老朽化した木のソファーに座り、上にミューが乗っているので少し尻が痛い。
取り敢えずそこをどいて貰おうと、その方法を思案して思い立つ。時刻は七時半、そろそろ腹が減ってくる頃だ。
「ミュー、飯を……」
トントン。言いかけた時、それはノックの音により遮られた。
「ん?」
トーゴは訝しむ。誰が何の用か、あまり心当たりが無い。明日に関しては打ち合わせるような事はもう無いし、だとしたら付き添う護衛相手の顔合わせか。自分を護衛する者と一旦顔を合わせておきたいと思うのも、分からないでも無い。そう思い扉を開け、だがしかし、その予想は外れた。
「夜分に失礼します。トーカァと申します」
そこにいたのは二足歩行の獣だった。巨大な猫科の何か、そう言った容姿の女性。トーゴに近い身長で、黄朽ち葉の毛に斑模様。彪の獣人だ。滑らかな声とエプロンを付けたその服装で女性と分かっただけでトーゴには到底雄雌の判断など付かなかったし、まず雄だと思われる程に見た目の威圧感が凄まじい。
トーカァと名乗った彼女は奴隷として、この村にいる間トーゴ達の身の回りの世話を仰せつかったらしい。彼女はこの村にいる七十人程の奴隷の中でもトップに近い位置におり、客人が村に訪れた時には毎回彼女がこのようにもてなしているそうだ。
このように、というのは彼女の作った夕飯である。
特産品である山羊のミルクで作ったシチューはほかほかと温かく、ジャガイモと人参と穀物、そしてパプリカのような輝きの赤い野菜が入っていた。形は小さなキュウリ。ヤケロという、甘い果物のような味を持つ野菜らしい。なるほど確かに甘酸っぱい。それはトマトに似ていた。そして主食は少し固めのライパンにチキンペースト、サーモン、トマト、葉菜類を好きにトッピング出来る形の、小洒落た夕食となった。食後にはホットミルクとコーヒーが出てくる。山羊のホットミルクはミューのものだ。
「毎日こんなものを?」
「満足には程遠いでしょうが、どうかご容赦を」
「ううん、とっても美味しかったよ。えーと、『ご馳走様』?」
「あぁ、『ご馳走様』」
「ふふ、ご馳走だなんて。励みになります」
恐ろしい見た目の彼女だが、実際にはとても婉麗であった。細やかな心配りやたおやかな振る舞いは、その外見と相まって癖になりそうな魅力だった。それは単純に物珍しいものを見る様な感情だったが、この人をもしかしたら好く人、若しくは娶る人は居ないのだろうか、そうまで思わせる立ち振る舞いだった。
それを何と無しに聞いてみた所、そういう者も居ない事もないが、まずその相手にとっても茨の道であるし、そんな奇特な人と出会える程ここは出会いのある場所では無いらしい。獣人を人が娶るのはこの世界において前例が無い訳ではないが、同性婚よりも遥かに珍しく、奴隷であった頃以上に、特に結婚相手の方が異常者として迫害に晒されるのだと言う。獣人と人が結婚した場合、獣人に奴隷としての扱いは無くなる。しかし実際は双方が奴隷のように虐げられるのだ。
「憧れはします。ただそれはどうやっても叶わないもので、幸せと言うには余りに過酷ですから」
「……やはり、貴女は人だ」
「えぇ、獣混じりですが」
自嘲でも何でもなく、そう言った。ただそれでも、彼女は少し悲し気だった。何の罪もなく差別を強いられる立場の獣人と呼ばれる者は、しかし極々当たり前に人の心を持っている。トーカァもまた女性として、幸せな家庭と言うものにあこがれを抱いている。しかしそれは叶わず。そして目の前には、それを当たり前のように行う者がいるのだ。自分を買った村の人々は普通に恋をし、婚姻を結び、子を成している。一体どんな気持ちで、それを眺めているのだろう。あるいは何の痛痒すら感じないのだろうか。
奴隷として捕らえられた、若しくは育てられた獣人は、ほぼ子を成すことは許されない。ではどうやって繁殖するのか、方法は二つ。人類の支配下に置かれ牢獄と化した獣人の集落にて、わざわざ許可を貰って獣人同士で子を成すか、奴隷商の下で無理矢理子を作らされるか。前者は、生まれた子は五割ほどの確率で奴隷として取り上げられ、親の元を離れて育てられる。後者は人為選択により「より良い」とされた個体同士が、機械的に子を作らされる。無論後者の方が「有用」であり、高級だ。
そかしそんなことは関係なく、どちらも獣人達にとっては耐え難い苦痛だろう。産んだ子を愛してやる間もなく連れて行かれるのが嫌で、もう十年以上、愛し合って生まれる子など殆ど居ないのだそうだ。
トーカァの仄暗い表情を見たミューは、アッデンを出発する直前、ティマエラに言われた言葉を思い出す。
二日前、午前八時。見送りに来たティマエラが、少し話があるとミューを呼んだ。トーゴは既に馬車の荷台に乗り込んでいて、荷台の堅い木の板に布を引いて座っている。見やればトーゴのすぐ右に、一際ぶ厚く布が敷かれている。ミューのものだろう、些細なその気配りがとても嬉しい。早く隣に行きたいと思っていたのに、何用だろうか。
少し口を尖らせてティマエラの近くによると、あの明るい女もこんな顔を出来たのか、と言う程真面目な表情をしていて、少し驚いてしまった。
「ミュー。冒険者として依頼をこなしていくうちに、いつかきっと、恐ろしい目に遭うじゃろう。」
いきなりだった。そんな事は言われずとも分かっている。今彼女の言った恐ろしい目とは、魔物や魔獣なんかより、人同士の命のやり取りのことだ。それをわかって、自分はトーゴに付いていくのだ。それに、まさかケチをつける気か。と、そんな邪推は無駄となった。
「だが、トーゴは必ず守ってくれる。お主を見捨てたりなどせん。じゃからの、それに甘えても良い。余計なものは全てトーゴに預けて、お主はまず、自分の事を考えるのじゃ。自分は何故トーゴに付いて行くのか。損得や目的の為では無く、自身の気持ちについて見つめ直せ」
「……好きだから、だけど」
「それは結構。だが、本当にそれだけかの?」
ミューは何故こんな事を言われているのか分からなかった。好きでいても良いと言われたのは「たかがこんな小娘」と言われたようで腹が立つし、本当にそれだけかと言われれば、本当にそれだけなのだ。自分にはトーゴが居なければダメで、トーゴの傍に居ると安心して、心地よくて、いつまでも離れたくなくなる。これを恋と呼ばずして何と呼ぶのか。
まさか依存などと言う暗い感情を自分が抱いているとは、ミューは到底思っていない。それに気づかせるきっかけをほんの少し、ティマエラは与えてやったのだった。それは即効性では無いが、確実に効果を期待できるもの。何故自分がトーゴを好きか、それを意識させる言葉だ。盲いた愛を抱えたままにトーゴに寄り添えば、どこかで破綻の時が訪れる。ティマエラは、それを危惧していた。
ミューは思う。冒険者として依頼をこなす内に、人の命が懸かっている事柄に多く関わる事になろう。今回は尚更だ、何故ならその人の命を、奪う側に回るかも知れないのだ。もし盗賊が商人達を殺したら、それを止める為に殺さねばならなくなったら。その時ミューは、きっと敢え無く、果て無く恐怖する。だがそれでも、トーゴは自分を守ってくれる。辛い気持ちを預けさせてくれる。ティマエラもトーゴも、それに甘えていいと言ってくれた。
だから、この女の言う通りだ。考えねばなるまい。何故そんな辛い目にあってまで付き添うのか。何故自分はトーゴを好きなのか。
いつまでも人に甘えてはいられない、だからそれが許される内に。
――トーカァも嘗ては好きな人が居たのだろうか。その時どんな気持ちで日々を過ごしていたのだろうか。それは到底想像できない。言ってしまえば、奴隷の気持ちなんて分からない。分かるのはこの恋の痛みだけだ。これを無理やり引き裂かれるだなんて、絶対に耐えられないと思う。
「好きな人と居られるって、幸せなんだね」
トーゴの方をちらりと見て、零すように言う。それを見たトーゴは、少しだけ、困ったように笑った。そんな顔しないでよ、とミューは舌の上で文句を転がす。
「そうですね。少し羨ましいです」
「トーカァさんは好きな人、居ないの?」
「もう、諦めてしまいましたから」
「……ごめんね」
「いえ、こちらこそ。こんな暗い話を長々と、申し訳ありません」
「それこそこっちが謝る事でしょう、辛い話をさせてしまって」
「そんなこと。こんなにお喋りしたのは、久しぶりですから」
テーブル席に三人で座り、ゆったりと語り合っていた。奴隷が同じ席につくだなんて、とトーカァは驚いていたが、トーゴはいわば自分は世間知らずで、一人で立たせておくのも気分が落ち着かないと言えばおずおずと席についてくれた。獣人奴隷のもてなしなどお断りだとトーカァを突っぱねる者も居る中、トーゴ達のような温かみのある接し方をするような者は珍しいそうだ。だから少し、語り過ぎてしまったと言う。
テーブルに置かれたランプに蛾がとまっている。トーカァはそれを素早く、だが傷つけないよう、肉球のある手で器用につかみ取り窓から放した。一瞬冷気が流れ込んできて、足先が冷える。
「毛皮がちょっと羨ましい……」
「あら、ならばこちらへ参りますか? うふふ」
膝の上をぽんぽんと叩き、温めてやろうかと意思表示をするトーカァ。ミューは躊躇せずそこに飛び乗った。もふもふとしたあまり長くはない毛が、体温もあってとても暖かい。丸まって膝を抱え込み、体全体でその快適な空間を感じる。
獣人にここまで抵抗無く接するのだから、冗談のつもりだったトーカァは面食らっていた。しかしそれは紛れもなく嬉しいものだ。トーカァがその大きな手でミューを撫でると、ミューの方が猫のような鳴き声を上げるのだから、それが面白くてつい撫で繰り回す。
コーヒーを飲みつつ談笑していると、ミューが何かを思い立ったようにトーゴにもう寝ろと言った。トーゴが何故と聞けば、女同士で喋りたい事もあるのだとか。ミューが後から行くから布団を温めておけと言い、予想はしていたがやはり同じベッドで寝るのかと思いつつトーゴは寝室に向かった。リビングに残ったのは二人だけだ。トーカァの膝の上でゴロゴロと鳴き声を上げそうな仕草をしつつ、ミューは聞いてみたいことがあった。
「ねぇ」
「どうされました?」
「好きってなんだろ?」
「さぁ、なんでしょう。」
「えー、分かんない?」
「人それぞれですから。ただ、もしそんな人が居たのなら、私は支えてあげたいと思います」
「支える、か。ふむふむ」
援護魔術なら得意だ。支える事に関しては、ことトーゴの周りの女性達の中では一番適しているとも言える。ミューは少し勝ち誇ったような気分でいた。
勿論それは的外れなのだが、本人は気づいていない。
「支えると言うのは難しい事です。相手の為にと言うものも、それこそ人それぞれなのですから。だから何故そうしてあげたいのか、それをはっきりさせねば、いずれ自らもあやふやになってしまう」
「……そうなったら、ただの都合のいい人だね。まるで……なんだろ」
ミューには、それを表す言葉が思いつかない。恋とは何とも哲学的だと思う。
「ミュアレイト様には好きな方が?」
「うん、おにーさん」
「あら、年の差ですね。若いって素敵です」
「えへへ」
暫し毛皮をふわふわと楽しみつつガールズトーク、と言うよりは仲の良い母娘の様な語らいをしていれば、あっという間に時間は過ぎていった。ホットミルクはが冷め、おかわりを淹れてもらう。ふぅふぅとそれを冷ましていると外でも風が吹いて、がたりと窓が揺れる。夜色に染まった窓へ、そしてその向こうへと目を向け、そしてもう灯りのつく家も少なくなってきている事に気付いた。明日の朝は早い、これを飲み終えたらもう寝ようか、とミューは思う。トーゴの体温で温まったベッドで二人で眠るのだと思えば、この毛皮から離れるのもあまり惜しくない。
そして遂にトーカァが可愛らしいあくびをしたところで、山羊のホットミルクはマグカップの底にぽつぽつと残るだけとなった。丁度いいと言えば良いタイミングで、歯を磨き、トイレなんかも済ませ、リビングに戻ってくればトーカァがコップを洗い終えていた。それに礼を言い、ミューもまた一つあくびをする。
「トーカァは何処で寝るの?」
「部屋がありますので、そこで。」
「そっか、じゃあもう寝るね」
「はい、おやすみなさいませ」
トーカァがロッジ奥の部屋の鍵を開け、小さなドアを器用に潜り入っていった。それを見届け、トーゴのいる寝室に入る。ノックは敢えてしない。もう寝ているかも知れないから。しかし、トーゴはまだ体を起こしていた。
「ん、終わったか」
「あ、起きてたの」
「あぁ、今灯りを消す」
トーゴは小さなベッド脇にあるランプをつけ、本を読んでいた。「創世記」。ミューには全く面白さが分からない。トーゴとて面白くて読んでいる訳では無いが、カトレア宅で手に取ったアンラ・マンユとスプンタ・マンユの名があった本が、どうしても記憶に残っていたのだ。古書店にて買ったのだが、その際にもこんなものを? と言う目で見られたのは仕方ないかも知れない。
ランプを消せばもう真っ暗だ。今日は星の光も月の明かりも弱く、あまり届かない。ミューが感じるのはトーゴの温もりと、鼓動と、吐息。
「おにーさん、明日は頑張ろ……んにゃ、頑張るね」
「頑張れ。頼りにしてるよ」
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ」
頼りにしてる。その言葉がとても嬉しくて胸が鳴り、やっぱりこれは恋だよね? なんて考えつつ、少しずつ意識が微睡んでいく。マントに包まるより断然こっちの方がいいなぁと、口に出したか出して無いかすら分からない夢と現実の狭間が、何とも安楽としている。そしてトーゴが微笑んだような気配を最後に、ミューは意識を手放した。




