覚悟
「ダメかもなぁ……」
ミュアレイト・リンゲンブルーメのその呟きは、母の判断を憂いてのものだった。なにがダメなのかと言うと、先程、トーゴと離れたくないが為に事の顛末を洗いざらい曝け出し、自分がいかにトーゴを好きかを力説した。その甲斐あって盗賊退治の依頼としてトハンへトーゴと出向くことは許可された。それは良いのだが、最終的な目標、つまり瓦礫の塔にて、嘗て――自分は今でもそう思っているが――の友人、ミルキィ・ズヴィオーズィに会い、三年前の話を聞き出すという事は、流石に許してもらえないだろうと思っていた。
瓦礫の塔を拠点とする虹の石英は、有り体に言えば悍ましい危険集団だ。彼らの纏う独特のケープと人の心を持たぬ所業は今や、王国内で知らぬ者を見つける事は難しい。信仰対象は瓦礫の塔を作ったと言われる星の力、それをを司る「呼ばれぬ神」。
小国に匹敵するだとか、人では無いものが混じっているだとか、子供は生きたまま贄にされるだとか、その噂は絶えず蔓延り、好き勝手に脚色され、だがそのどれも否定出来る者はいない。深い赤と焦げ茶に教団のシンボル「満たされた月」があしらわれたケープは恐怖の対象とされ、悪いことをしたら攫いに来る、なんて子供騙しの風説が真実になってしまったのも、七年前からだ。
そんな連中が跋扈する場所に、流石に出向かせてはもらえないだろう。しかし自分は、このずっと胸に閊える大岩のような疑惑を取り除かねば、きっと一生後悔するのだ。ならば、だからこそ、今はダメでも、きっと母を説得できるまでに強くなって見せようと決意する。
しかし、部屋を出ていろとは言われて取り敢えず母の研究室来たものの、適当な実験器具なんかを弄り倒して暇を潰しているのもそろそろ飽きた。ごちゃごちゃとした設備や素材に興味を引かれない事も無いのだが、熱を入れてトーゴへの愛を口にしてしまった為に今はのぼせたように頭がうまく回らないのだ。そろそろ話も終わっただろうか、ノックでもしに行ってみよう。
「お話まだー?」
「あぁ、入りなさい」
母の熱の籠った声がうっすら聞こえていた。つまりなにやらまた魔物の研究についてを長ったらしく語っていたようだったが、あっさりと中断されたところを見ると勘違いだったかと思う。誰かに強く止められでもしなければ、ああなった母は止まらない。ノック程度では勿論だ。
部屋に入ると、少し元気のない二人の表情があった。自分がそんな顔をさせてしまったのだと思うと、やはり申し訳無い。何を話し合っていたのか気になるが、聞ける雰囲気でもなさそうだ。
「ミュー、これからトーゴ殿と行動を共にするのなら、条件がある。一つ、前々から言おうと思っていたが、いい機会だ。煙草を辞めなさい。薬なら少し強いものをやるから、それっきりだ。二つ、身の丈に合わない事はしない事。いいか、これは絶対だ。……お前まで失ったら、私は今度こそ」
「そんなことしないよ」
「……ミュー」
「お父さんの事もミルキィの事も、もうはっきりさせて終わらせたいの。それはあたしの為だけど、だからこそ、お母さんを一人になんてしないよ。安心してなんて言えないけど、信じて欲しい。あたし、何と言われようと強くなって瓦礫の塔に行くから」
「何も、言いはしないさ」
「え?」
「お前を支えてやれず、自分の事で頭が一杯になってしまった時から、私はお前を、諫めさえすれど、止める権利などありはしないのだよ。お前が死なずにいてくれたら、そして幸せになってくれさえすれば、私は満足なんだ。だから言っただろう、『行ってこい』と。私の娘を、私は信じよう」
「……ありがとう、お母さん」
瓦礫の塔に行くことを許されない、それは杞憂と言うのは浅はかだろうが、結局、何も問題は無かったようだ。
つまりは母も自分と同じく、三年前のあの日に大切なものを置いてきてしまったのだ。それは愛情であって、二人にとって無くてはならないものだった。多少形は違えども、それを突然失うという気持ちを分かり合っているからこそ、カレンドゥラは娘を送り出すのだ。かつてミューが言ったように、それは理に適っておらずともそれしかないと思える、「納得できる生き方」の形なのだろう。そして、少し歪んだ、その分強い母娘の絆でもあった。
「じゃあ、ようやく正式にパーティー成立ってところだな」
「うん。宜しくねおにーさん」
親の許可というなんだか郷愁を彷彿させるものを貰い、ミューとトーゴは晴れてパーティーとなった。ミューはこれから一緒に居られるとあって心底嬉しそうであり、それをカレンドゥラは少し寂し気に見つめていた。
「ところでミュー。煙草、良いのか?」
「あっ、うーん……あのね、お母さん。あたしが煙草を辞めない理由なんだけど……」
ミューが煙草を吸い続けている理由を効いたカレンドゥラは、一瞬悩むがすぐにダメだときっぱり言い放った。やはりそれはミューの我儘であり、本気で冒険者としてトーゴに付き添うつもりなのならば、デメリットとなるそれは一切辞めるべきだと、研究者としても母親としてもカレンドゥラは言い切ったのだった。幸いと言っていいのか、依存を完全に断ち切る薬品は幾つかあるそうで、辞められないという言い訳は通用しない。目的を達成するまで辞めないと決めた煙草も、実は結構好きだったりするのだ。落ち込むミューにトーゴは提案を持ちかける。
「この葉巻、分かってるだろうが薬草が巻いてあってな。これなら……」
「ごめん、それあんまり美味しくない……」
あっさりと断られてしまった。確かに清涼感溢れるこれは子供の舌には合わないだろう。それを言えば本物の煙草などもっと合わないだろうが。
「そうか……でもお前、たまに吸ってただろう?」
「あれはおにーさんの吸いかけだったから」
「……君は娘に何をさせているんだね?」
「誤解だ。その謎の器具を置いてくれ」
カレンドゥラにあらぬ誤解をかけられ、拷問器具なのか研究道具なのか良くわからない、金属の歪なペンチじみたものを机に置かせるのに暫しトーゴは苦心した。ミューは結局渋々煙草を辞めることを約束したが、流石に娘の決めたせっかくの覚悟を無碍にしてしまうのは少々頂けないと思ったのだろう、カレンドゥラは月に一本だけ、吸うことを許してくれた。
「良かったな」
「あんまり良くない……口寂しいよ。キスして」
「……飴でも舐めてれば良いんじゃないか?」
「甘いのキライ。」
「ん、そうか」
「グンジョー殿、また少しお話が」
「いや、これも事情が」
「安心したまえ、真面目な話だ」
それはそれでまた気負うのだが、また名状し難き何かを携えて幽鬼の如く迫られるよりはマシであろう。ミューを奥のソファに移動させ、少し声を潜めて語る。
「ミューの好意は、はっきり言って異常だ。そうだな、言うならば」
「依存、だな」
「あぁ。ただそれでも私は、あのマントを抱いて眠るミューを見て思ったんだ。きっとこれをくれた相手ならば、とね。まさか恋人としてなどとは、思っていなかったが……あの子はあんなことがあったからこそ、信用できる者とそうでない者と言うのに敏感だ。友人を失い、親を失い、もう人と関わる事など出来ないのではないかと考えていたが。ミューはきっと、決死の覚悟で協力を頼んだのだろう。その相手が君で良かったよ。」
「……それは」
「……君には愛する者はいるかい」
「居るが……」
「……残念だが、ならば遠慮なく振ってくれ。ただし時期は考えてくれたまえよ、今は流石にな」
「あぁ、その……色々と善処する。」
カレンドゥラは、自分の信じるミューの信頼する相手という者に、出来れば番って欲しかったのであろうが、それはトーゴの恋人がいると知って取り消されたようであった。
因みに年の差を気にしないのには訳があった。カレンドゥラの種族であるエルフを含む長命種は、同じく長命であるものを見抜く術に長けている。時を同じくして寄り添い、より多くの子を、ただ一人の相手と成せるようにという、長命種には共通の貞淑な文化故である。これがミューの「信用できるものを見抜く術」に通じている訳だが、それを以て、カレンドゥラはトーゴがかなりの長命となっている事を看破していた。
そのトーゴはと言うと、今は振らないでおけも何も、既にミューはトーゴに恋人がいる事を知っているし、その当の本人はミューを囲う事を許容しているとあって、カレンドゥラの頼みに曖昧に受け答える事しか出来なかった。その結果が「色々と善処する」である。なんとも情けない話だ。
もう外はすっかり暗くなっていた。時計を見ればまだ五時過ぎだったが、季節は冬を色濃く孕む秋の終わりである。青鈍に染められた空が、雲を散らして寒々しい。研究所内は大規模魔法陣が地中に埋められていて、それにより快適な空調環境となっている。それ故に温度差の激しい屋外へ出るのが億劫なのだ。しかしあまり長い時間邪魔していては迷惑だろう。そろそろ帰ると言い、カレンドゥラと二言三言言葉を交わして別れる。
ミューは研究所の門まで、この寒い中ついてきた。緑のカーゴキュロットにTシャツだったが、その上にパーカーを羽織っている。昼間はそれでよかったものの、今はあまり寒さはしのげていないようで、しきりに腕をさすっている。
「寒いだろう、早く戻れ」
「じゃあ、ぎゅって」
「ほい。風邪ひくなよ、明後日出発だ」
「適当!」
「……全く」
しゃがみこみ、適当に抱き寄せ背中を優しく叩いてやっただけでは満足しないらしい。仕方なしにミューを抱き上げ、肩に頬を乗せさせてやる程度に密着した。首に回された手は冷たく、足はかたかたと震え、鳥肌も立っていた。早く部屋に戻らねば本当に風邪をひいてしまうだろう。そう思ってミューを下ろし、「まだ足りない」と言わんばかりのミューに、マントを脱いで渡す。剣を背負っているので、そのホルダーベルトの隙間から引き抜くようにしたのだが、膝下まであるマントはやはり大きく、一息には脱げなかった。ミューは畳んだそれを両手で抱える。
「……いいの?」
「体を壊される方が迷惑だ、今度は返せよ。」
「古い方返すのじゃ、ダメ?」
「どっちでもいいが、何でだ?」
「おにーさんの匂い、薄れちゃって」
「……ほら、もう戻れ」
「……はぁい」
マントを抱きかかえて、ミューは走って研究所内に戻る。立ち止まると、光を零す建物入口で手を振ってきた。それに手を振り返せば、少女は灯りの中に溶け込むように研究所へと姿を消した。
マントを脱いだので、流石に寒い。葉巻でも吸うかと思ったが、ミューがそれを我慢することになったのを思い出す。なんとなく自分だけと言うのも悪い気がして、仕方無いと独り言ちる。それは白い靄となり、夜を透かして暗い色がついた。香りの無い紫煙にトーゴは笑う。暫くはこっちだな、と。
「おぉトーゴ、お帰り……というのもおかしいか、お疲れ様じゃの」
ロベインの工房近くの小屋は、ティマエラとトーゴの事を慮ってロベインが貸してくれたものだ。やはり木製の丸太組の小屋は、迷宮での生活を思い出させる。三十四年以上すれ違っていた、あの生活。それを思うと、今ここにいる相手の、なんて距離の近い事か。
まだティマエラは女性らしさを前面に出した、ふりふりとした服を身に着けたままだ。オレンジ色の釣り下げランプがそれを照らし、マナー悪くテーブルに浅く腰掛けて、俯き気味に耳にかかった髪を書き上げる仕草が、堪らなく愛おしく思える。
「お帰りだなんて言われると、家が欲しくなるな」
「そんなもんかの? ところでマントはどうした?」
「ミューに貸してる」
「罪作りじゃの」
「何とでも言え」
テーブルに支えとして置かれているティマエラの右手をとり、引く。一瞬倒れそうになるが、トーゴが抱き寄せてそれをさせない。ただ抱き寄せるだけで、何もしなかった。キスもせず、撫でる事もせず、ただ相手の存在を確かめる様に少し強く抱かれる。手持無沙汰になったティマエラは戯れに全身の力を抜いてみたりトーゴの頬をつついてみたりしたものの、ほぼ反応は無かった。やがてその拘束は解かれ、いつの間にかバレッタを外され髪を下ろしたティマエラはまた、テーブルに腰掛ける。長い脚を遊ばせて、ブーツが椅子の足にぶつかりゴンゴンと音を立てる。トーゴはその音色が少し心地よくて、隣に座って瞑目し、耳を澄ました。
「で、どうした?」
「いや、少しな」
「……ミューはどうなった?」
「カレンドゥラと話してな、同行の許可は得た。あと、話して無いこともあるんだ、聞いてくれるか?」
「うむ。」
ヴァンズとトーゴが戦う事になる前日、ミューがどんな行動を起こしたかは、まだティマエラには話していなかった。本人以外ではティスタとカレンドゥラのみが知っている。ミューについて、これからどう接していけばいいかを、恋人としても同じ女性としても、ティマエラに聞いてみたかったのだ。その為に何があったか、先ほどのミューのように機械的につらつらと語っていく。
肉を食らった、食らわれたという話を聞いている間もティマエラはずっと穏やかで、茶を淹れ、トーゴの荷物を片付けてくれながらもしっかりと耳を傾けていた。
話し終えたトーゴは、少し乾いた唇と喉を、熱い紅茶で潤す。
「……これ美味いな」
「ミューには、少し助言をしといてやろうかの」
「何を言うつもりだ?」
「それは秘密じゃの。ただミューは、頭の良い娘じゃ。あの年齢の子供が『恋に恋する』事など珍しくもないが、そこを分かっとらん訳では無い。だから、その恋心と依存心の齟齬をうまくかみ合わせてやれば良いのじゃろ? いつかあやつは自分の本当の気持ちに気付けるじゃろう。その時にまだ好きだと言ってくれるのであれば、お主はきちんと考えないとならんの。」
「齟齬か……噛み合うったって、それは結局依存から抜け出すって事じゃないのか?」
まるで煙草のようだと思う。口寂しいから吸う煙草を、「美味い」だなんて言って。依存から一度抜け出せば、ひとたび熱は冷めるだろう。残るのは吸い殻かやるせなさか。あぁ、恋だなんて言ってバカみたいだと、きっとそう思うだろうに。
「恋愛と依存は別じゃがの、同時に抱けるものじゃとわしらは知っておろう?」
はっとする。確かに自分達はたがいに根深い依存心を抱え、尚且つ愛し合っている。恋と依存はイコールではないが、完全に分別されるものでも無いのだ。
それでもやはり出会ってからの期間が短いという事実が、ティマエラの言うような結末を阻む気がするが。しかしそれはこれから変わって行くものであり、今は誰にも何とも言えないのだ。目から鱗が落ちた気分だった。
そしてティマエラは、ぽつりと言う。
「それに、大切な人に先立たれる悲しみも知っておる。……ダメじゃの、どうもわしは寂しがり屋じゃ」
「……一人にはさせないさ」
ミューがカレンドゥラにそう言ったように、覚悟を以てそう伝える。
ミューと自分を重ね、その辛さを自分のように感じているティマエラ。悪徳に蝕まれた自分までも、どうにも受け入れてくれてしまう、優しすぎると言える女。それが目の前にいて、通じ合えているという歓喜が、耽溺性の快楽物質となり脳髄と胸中を満たして行く。
また、女を抱き寄せる。心の芯から温もりを感じるようにして、トーゴは背中を丸めてティマエラを包み込んだ。そのせいで相手は少しばかり弓なりの姿勢になるが、彼女もまた、トーゴの抱える闇を照らしかき消すように、いや、その闇に共に浸かるように、腕を回してきた。
これは甘えで、依存で、愛だ。分かっているから、悩ましい。
上半身だけを離しじっと見つめ合い、腰から下は密着させて、温もりとは到底言えない本能的な熱を、心悸に合わせて交換する。その光景は濃艶であった。
「まだ、だな。先に飯を食おう」
しかしそこで思い出したのは時刻と夕食の事だ。今にも口付けようとしていた気持ちのやり場を失ったティマエラは、たった今頭に浮かんだように、それを悟らせずにトーゴを誘った。
「そうだ。トーゴ、ほれ。」
下ろされた髪を纏めて後ろへ流し、頭を傾けて首筋を差し出す。それの意味するところは一つだ。なんて気が利く女だと言えばいいのか、なんて蠱惑的な女だと呆れればいいのか。トーゴの内で三大欲求のうち二つ――つまり、食欲と性欲――がぶつかり合い、一方が理性を少しずつ 鋳熔かす。それは彼女が鍛冶師だからだろうか。首筋から目を離せば、色情に躊躇いなく身を投じたティマエラが、秋波を送っている。敢え無く衝動に陥落したトーゴは、言い訳がましくこう言った。
「……我慢させる気、無いだろう、お前」
「んふふ。ほれ、ミューと味を比べてみとくれ」
「……頂きます」
「……っく、ぁ」
それは、ミューのものより少し甘ったるく、喉を焦がした。
この次から「トハンにて」が開始します。
ミュー編、十話前後で終わるかな? と言った感覚で書いております、よろしくお願いします。




