傷痕
「……それがどうかしたか?」
何を思ってミューはこんな事を口にしたのだろう。俺に恋人がいたらどうだというのか。まさかミューが俺の事を好き? あり得ない。まだ出会って三日そこらだ。年の差もある。
それに知っている、ミューが自分を見る表情に恋慕の類が浮かんでいない事。浮かんでいるのはいつも、心細さと不安だけだ。ミューにとって、トーゴに抱き締められる時の、あの束の間の心の安寧が何より大切なものになっているのは、その心細さが紛れる為だ。
「こんなに好きなのに……ひどーい」
だからトーゴはわかる、これは嘘だ。いつの間にかミューは今にも泣き出しそうな表情になっている。しかも、笑顔のまま。あぁ、やはりこの目に浮かぶのは、深い依存だけだ。
「おにーさんが特訓見てくれるって言ったのにぃ……ちょっと寂しかったなー」
「……すまん、気が回らなかった。」
「あたし、お父さんが死んでからずっと寂しかったんだよ? もっと傍にいてくれないと、ダメになっちゃうよ、えへへ」
「ミュー、お前」
「だからっ、ずっと近くにいてよっ! あたしがダメになっちゃっても良いの!?」
豹変するミュー。いつもの少しやる気なさげにしている目を見開き、ともすれば涙が溢れそうになっている表情。一体何が、ここまでミューを追い詰めたのか。それはトーゴであり、虹の石英である。原因は一つでは無く、探ったところで詮無き事だった。
「そんな事ない。」
「っ、おにーさん、あたし」
「何処にも行かないさ、大丈夫」
「……分かんないじゃん」
「何?」
「分かんないじゃんっ、そんなの!!」
トーゴは、そう叫ぶミューを見て思う。どこかティマエラと似ている、と。
ここの短期間でここまでミューがトーゴに依存してしまった理由は二つある。
一つはミューがずっと心細さに耐えてきた事。それをトーゴが決壊させてしまったのが理由だ。
母親カレンドゥラは、夫の死の悲しみを振り払うように研究に一層没頭した。ミューもそれで良いと思っていたし、自分の事は気にせずそうするよう母親に伝えた。勿論、ミューは無理をしていた。それを気取らせない様、時間をかけて立ち回った。母親に「やはり無理をしているのでは」と思われない為に。
そこにトーゴと出会い、何があったかを、そして目的を打ち明ける。出会って間もない内からそうした理由は、顔が母と職員に割れている事と、トーゴがかのカニス・ルプスと繋がりがあると知って、ある程度信頼しての事だった。
ミューの目的に、トーゴは快く協力を申し出てくれた。それはとても嬉しかった。つい、頬にキスしてしまう程に。
それからは早かった。なんだかんだ言いながらシガーキスを受け容れてくれるトーゴ。サンドイッチを美味いと褒めてくれるトーゴ。抱きしめてくれるトーゴ。父親のようなトーゴ。
今まで一人で抱いてきた覚悟を、共に背負ってくれる存在。そんなトーゴに、更には命まで救われた。殺されると思った死の間際、あの光景が、フラッシュバックする。実はミューは、父親の死体も見ている。それはミルキィの家族のものより綺麗な形だったが、余程恐ろしかった。
だがそれを払い除け、抱き締め、安心させてくれたトーゴ。それが余りに嬉しくて、そして嘗ての父親の温もりを感じさせてくれた。またその温もりを感じたくて、またこうさせて、と頼む。「迷惑じゃない?」と聞けば、「全然」と答えてくれた。
そしてミューは、気付けばもうトーゴ無しでは居られなくなっていた。少しくらい甘えても良いよね、と、その心の重荷をトーゴに預けていく。少しずつ、着実に。その時に、ミューの心は決壊した。もう収まらない。元よりそれは子供一人で抱えられるものではなかったのだ。「頼っていい」と言われたのなら、それは仕方の無いことだった。一度他人に預けた重荷を背負うのは、もう無理だ。その重さと辛さを、心細さを知っているから。
そしてもう一つは、今日話した内容だ。その内容にミューは二重でショックを受けた。
トーゴが自分と同じく心細さを抱えていた事、自らの心の弱さと戦っていた事。自身とトーゴの共通点を見つけ、とても嬉しくなった。あんなに強くて自分を守ってくれるトーゴが、同じくらいに弱かったんだと思った。今やトーゴを信頼し切って体を寄せているミューだが、この時同時に、信頼を超えた共感を覚えたのだ。
だが、トーゴには恋人がいる。その人に酷いことをしてしまった、とも聞いた。それは、衝撃だった。
焦燥が沸き上がる。自分はもう、トーゴ無しじゃ生きていけない。辛いことがあったら、一人ではいられない。でもトーゴには、その人がいる。その人が寄り添ってくれる。
やだよ、見捨てないで。ずっと一緒にいて。
虹の石英を打倒した所で、この辛い記憶が消える訳じゃない。納得できる結果なんか、手に入らない可能性の方が高い。そうなった時にトーゴがいなくなれば。いや、今でもトーゴが居なくなってしまえば、自分はもう立ち直れない。でもトーゴにとって自分は、決して必要な存在と言う訳じゃない。
嫌だ、行かないで。あたしを必要として。捨てられない確信を持たせてよ、安心させてよ。あたしは、唯でさえこんなにも心細い。
もしかしたらあたしは何処かで切り捨てられるかもしれない。今でもこんなに迷惑をかけているのに、もしかしたら。そうなったらどうやって生きて行けばいいのだろう? 多分、死んだように生きるか、死ぬかしか無い。
ならば。
「ミュー、俺はお前を――」
「動かないでね」
「何……を」
ミューはトーゴを無視し、その血の色をした眼球に、手に持つ煙草を近付ける。眼球を、焼こうとしている。トーゴは咄嗟にその手を止めた。
「おいミュー、落ち着け」
「落ち着いてるよぉ。」
「ミュ、ミューちゃん……? どうしたの?」
「うるさい」
「えっ……」
「ティスタ、すまん。あとで説明する」
「おにーさん、恋人ってこの人?」
「違う、別人だ」
「なぁんだ、つまんない。……じゃあさおにーさん、あたしのものになってよ」
やはりティスタを恋人だと勘違いし、シガーキスやらを見せつけるように行動していたのは思い違いでは無かったようだ。見せつけて何になる、と言われればそれは本人にしかわからないだろうが、口ぶりからして、「渡してなるものか」とでも思っていたのだろう。自分勝手なようで、そうするしかない心の現れだ。
「そんな事せずとも、そばに居てやる。」
「ダメ、安心させて。どこにも行かないって確証なんか無いじゃん。だからあたしのものになってよ。お願い。」
「なら、もう俺はお前を抱き締めない。それでも良いのか」
「えっ、ダメ! そんなのダメだよ! ぎゅーしてくれなきゃ殺しちゃう! そしたらあたしも死んじゃうよ!」
「じゃあ、本当は何をしたいのか話せ」
「……」
「でないと俺はもう、お前に協力出来ないかもしれ――」
「えっ、や、やだ! やだぁ! 話すから、話すから見捨てないで! お願い!お願いだよおにーさん! おにーさん、おにーさん! いやあぁぁ!」
「おいっ、ミュー!?」
「ミューちゃん!? どうしたの!?」
いやいやと首を振り、頭を抱えて蹲るミュー。完全に恐慌状態だ。トーゴは失念していた。屈強な男でさえ罹りうる|心的外傷後ストレス障害《PTSD》。それをこんな子供が一身に抱え続けてきた事、そしてその苦しさ。それを忘れていた。また自分の事だけに目を向けて、ミューの事など考えていなかった。ただ「逞しい」だなんて評価を下していた。それじゃあ、余りにも救いが無い。
「ミュー」
いつもより少し低い、落ち着いた声色。ミューがぴたりと動きを止め、トーゴを見つめる。その目はもう遠くを見ていない、不安と依存心ばかりが渦巻く瞳で、目の前のトーゴに縋るような目をしていた。その年齢よりなお幼いような表情は、恐らく三年前から変わらないのだろう。
「大丈夫だ、何処にも行かない。だがお前が安心出来ないなら、俺は眼だろうが何だろうが焼いてやる」
「おにーさん……」
「教えてくれ、どうして欲しい? どうすれば安心させてやれる?」
「……おにーさんに、あたしのものって証が欲しい。あたしにも同じものが欲しい」
「なら、眼、焼くか?」
「……んーん。……動かないでね」
「……あぁ……」
「ミューちゃ……! わ、わー!」
ミューが、トーゴの首筋に口を付ける。その光景にティスタは慌てたような、はしゃぐ様な声を上げるが、それはキスなどという甘いものでは、やはり無い。
ミューは口付けもそこそこにトーゴの首筋の肉に齧り付き、抉り取る。小さな口では多くは千切り取れなかったが、血がこぽこぽと溢れ出た。トーゴの肉を可愛らしくもぐもぐと咀嚼し、嚥下する。そして口の中を潤すように、溢れ出た血を飲む。零れないよう傷口を覆って、静かに、静かに。それは様相は違えども、奇しくもトーゴとティマエラのようだった。
血が出なくなるまで飲んでいたいとも思ったが、やって欲しい事もある。だからここまでにしておこう。ミューは、少し服をはだける。一瞬何をするのかと身構えたトーゴだったが、ミューの次の行動は少し予想外だった。
ミューはトーゴの頭を引き寄せ、自分の首筋に当てる。つまり「同じようにしろ」と言う事だ。
トーゴは躊躇う。自分が傷つくならまだしも、この、不健康な程――実際不健康だが――白く綺麗な肌に、それで無くとも子供に傷を付ける行為を、誰が許されるのか、と。そして理由はもう一つだ。
紛れもなく、自身の心は背徳感を覚えていた。
「本当に良いのか」
「うん」
「ナイフで削ぎ取るのじゃダメか」
「ダメ」
「……じゃあ、我慢しろよ」
少女特有の少し甘ったるい香りと煙草の香りが混じり、何とも不思議な感覚だ。微かに爽やかな、柑橘系の果物に通ずる匂いもする。
滑らかな肌にトーゴは鋭い犬歯を突き立て、位置を調節する。一息に噛み切れるように、なるべく痛くないように、小さい範囲だけ。それでなくとも細い首だ。片手で握れば折れてしまいそうな首。どうやっても、トーゴの口の大きさでは、欠片だけ噛み千切るということが出来そうもない。少し、歯を立てる。
「……あはっ……くすぐったい」
「いふお」
こくりとミューが頷く。またトーゴの肩に両手を乗せ、それをぎゅうと握っている。やはり怖いのだろう。カレンドゥラに、何と言われるだろうか。すぅ、と息を吸い込み、一気に噛み千切る。思った外、固い。
「い゛ぃ……! ったぃ……!」
「食えば良いのか?」
「うん。良く味わってね……いたた……っ」
頭を撫でつつ、親指程のミューの肉を食らう。甘い。それと血が、ティマエラのものより苦い。煙草のせいだろうか? 少し固い肉はあまり美味しくはない。だがそれは凄まじくトーゴを昂ぶらせる物だった。トーゴは今度ティマエラにやってもらおうと思う。
傷薬を取り出しつつ、傷口に口を付ける。服が汚れないうちに、血を飲まねば。
「えっちな感じでお願いー」
巫山戯てはいるが、おどけてでもいなければ痛くて耐えられないのだろう。眉間にしわを寄せ、涙があふれている。ただし、笑顔のままだが。トーゴも感じる首筋の疼痛は、怪我をあまり経験しない子供、それも中高生あたりの齢であれば号泣する痛みだ。頭にまで響く痛みの脈動。トーゴは体内の魔力を操り痛みを遮断できるが、敢えてしない。それがミューにしてやれる事の一つだと思ったから。
血を飲みつつ、右腕でずっとミューを抱き締めていた。その間左の手はミューが齧っていて、肉こそ食い千切られ無かったもののいくつもの根深い歯型が付いた。指も多分、幾つか折れている。気を紛らわせる為というより、やはり「証を残す為」なのだろう。
少しずつ漏れ出る血を口腔内に貯め、一気に飲み下す。
「美味い」
「ほんとぉ? えへへ、やったね」
消毒した患部に傷薬を染み込ませたガーゼをあてがい、包帯で固定する。首に包帯を巻かれたその姿は、とても痛々しくてあまり見ていたく無いようなものだ。普通ならば。
トーゴはその姿に少しの悦楽を感じた。意味合いは少し違えども、少女を穢すと言う行為に酷く興奮を覚えていた。そんな自分が嫌になるが、そこも受け入れられるよう強くなると決めている。背徳衝動は多分、ずっと消えないだろうから。
「ミュー、大丈夫か?」
「貧血っぽくもないし、大丈夫かな。あ、おにーさん」
「ん?」
「血がついてる」
「あ、おい……」
拒もうと思えば拒めた。だが拒めばミューの精神状態がどうなるか、今一わからず不安だ。だから、そのままされるがままにされておく。
ミューの顔が近付いてくる。その目はずっとこちらを見据えていて、閉じようともしない。トーゴの口の端に付いた血をぺろりと舐めとる。その一切を舐め取った後も、ずっとそれは続いた。その舌が、唇の中心へと移動して来る。ミューに「ませてるな」と言ったのは、いつだったか。あぁ、「泥まみれ共」で初めてミューと紫煙を交わした時だ。
顔を赤くして両手で覆い、チラチラと指の隙間からこっちを見るティスタに、済まないと目線で謝る。するとミューがこっちを見ろとばかりに下唇に噛みついてきた。これも確か、トーゴがティマエラにやった事だった。今はミューがトーゴ側だが。
数度、小さな舌が閉じられた口の中に侵入しようと蠢き、諦める。
血が付いてるから舐めたと言うのならば、ミューなんか口の周りにべたべたと血塗れだ。まさかこれを舐めろと言われるのではと、流石にトーゴは戦慄する。その行為で無く、ミューの深い闇に。
「口開けてよ」
「そういうのは好きな奴とやれ」
「そんなの今更だし、好きだよ? 言ったじゃん」
トーゴは嘆息する。そうか、ミューは気づいていない。ミュー自身、トーゴを好きだと思い込んでいるのだ。そこにある気持ちが恋心などとは呼べない、醜い傷の舐め合いだと、依存心だと気づいていない。少ない人生経験では、仕方ないのかもしれない。「この人がいなければダメ」という感情を、前向きで都合のいいものへと結びつける。前世ではヤンデレなんて言われていたが、実際には空恐ろしいものだと思う。
「虹の石英は、絶対に潰す。お前も絶対見捨てない。だから止めとけ」
「……ほんと?」
「あぁ。」
「じゃあ、我慢する」
「ん。取り敢えず病院……てあるのか? 行こう。ティスタ、案内してくれるか?」
「……えっ、あっ、そ、それならですね!」
ティスタに案内される。行先は西区の宿、「キュアケッロ」。イツキ達の止まっている宿屋だ。何をしに行くかと言えば、聖職者シャウア・アンズレヴに傷を癒してもらいに行く。彼女はごく珍しい「活性魔術」の使い手だ。生命の細胞を活性化し、小さな植物や動物の成長の促進、傷痕のシミなんかを消すことが出来る。子供の頃に習得したはいいものの、あまりに使い道がないのでずっと発動させていないと、この間の昼食の時に聞かせてもらったらしい。
なぜ施療院――病人や怪我人の滞在する場所のある施設。治療などはあまり行わず介護を主な目的とし建てられている、様々な種類がある建物――に向かわなかったのかというと、トーゴがミューに塗った傷薬。
それはトーゴが特に気にせずギルドにて買ったものだが、割と高級なものだったようで、この傷くらいなら治癒は出来るという。勿論時間はかかるが。現にもう血が止まっているらしく、後に響くような怪我となる心配は要らないらしい。だが、痕が残る可能性がある。そこでシャウアだ。彼女の活性魔術は小さな傷跡を消せる。もしくは残らないようにしてくれるのだ。そこまで気をまわし、ティスタはキュアケッロまでの道のりを案内してくれた。
傷薬のおかげで特に急ぐこともないので、歩きつつティスタに事情を説明する。ミューの過去や目的についても、ミューに確認を取って一つ一つ語った。ミューとトーゴのアブノーマルな光景に加え、ミューの悲しい過去を明かされ目をチカチカさせていたティスタだったが、トーゴの懇切丁寧な説明によりなんとか落ち着いて貰えた。
水魔術で顔の血を洗ったミューは、今はトーゴの右腕の前腕部に座っている。「泥まみれ共」から帰った時のようにだ。ミューも落ち着いたようですっかりしおらしくなり、トーゴの首に手をまわし抱き着いてしまっていた。顔を肩に埋め、何をしても離れそうにない。なので仕方なしに、ギリギリ仲のいい親子に見えなくもない体裁を維持しようと、努めて冷静に街を歩く。それでもやはり視線が刺さった。髪の色も肌の色も目の色も違うのだからそれはそうであるし、まず片手で少女を持ち上げる男は中々いないだろう。だがミューがここがいいと言って譲らなかった。
因みにトーゴはミューに齧られ、更にはミューの煙草の灰が落ち火傷までした、ボロボロになった左手をポケットに入れて隠している。せっかく落ち着いたミューがこれを見て負担に思ってしまうといけないし、神の力を内包した体ならばこのくらい数日で治る。ヴァンズとの手合わせには間に合いそうにないが、何とかして見せよう。
ミューがもそりと動く。殺される恐怖と、自分に見捨てられる「かも知れない」恐怖に怯える、この少女。どうしたものかと頭を抱えたくなる。迷宮から出てまだ三日目だ。だというのにティマエラといいミューといい、異常な関係になった異性が二人、それも一人は年端も行かぬ少女である。
だがミューの過去を知り、協力すると言ってしまった以上ここで投げだすわけには行かないだろう。それをすれば後味が悪すぎるし、まずそんな事をするほどの畜生ではない。長い神生だ、人助けくらいどうと言う事はない。それに、とっくに情は移ってしまった。
「ごめんね、おにーさん」
肩越しに聞こえる消え入りそうな声を聴けば、なおの事見捨てることなど出来そうもない。




