悪徳と背徳
ミューに案内され、リンムーの森から少し北西に行った平原へたどり着く。もう夕方だ。地平線が弧を描き、沈みかけの夕陽がそれを朱く塗っている。正面を見上げれば、遥か聳える塔が見えた。瓦礫の塔、凄まじい大きさの瓦礫が積み重なり、浮遊して塔を形どっている。その向こうには更に何倍も高い山脈が掠れる遠方に見て取れた。くるりと体を反転させ東を見れば、巨大な飛行船と、黄金の大樹が空に浮かんでいた。
神秘の世界。何もかもが不思議と驚異を内包する美しい世界。残酷だがありのままの姿で、今日も日が暮れてゆく世界。絵画や物語の中で見た光景。その中心に、自分が立ったような感覚を覚える。
「綺麗だな……」
「ここなら剣を思い切り振れるんじゃない?」
「あぁ、ありがとうな」
もう一本煙草を取り出し、自らのマッチで火をつけて吸うミュー。トーゴは自身の肘の位置にある頭をぽふりと撫でる。見上げてきたミューの目に、もう夕焼けの届かない遠方の夜を浮かべる空の星が、キラリと反射した。泣いているように見えて少し驚いたが、そんな事はなかった。
「あっ、しまった」
「どうした?」
「お昼ごはん作ってきたんだけど……食べるの忘れた」
「そう言えば昼食べてないな、今食おうか?」
「時間経っちゃってるよ?」
「問題無いだろう」
ミューが取り出したのはパストラミハム、チーズ、キャベツ、パプリカの彩りが美しいサンドイッチだ。小さめのフランスパンのような硬めの細長いパンに切り込みが入れられ、そこに具を挟んである。
「あたしが作ったんだよー」
「なんだ、随分張り切ってたんだな」
「うぬ、そう言う事言っちゃダメだよぉ、おにーさん」
トーゴは一つ手に取り大きく齧り付く。ザクリとパンとキャベツが弾ける音。少しスパイシーだ。塗ってあるソースは酸味の薄いマヨネーズらしきもの。現代日本の味覚に慣れた自分でも、美味しく食べられた。
「美味い。もう一ついいか?」
「えへへ、どうぞどうぞぉ」
「その年で料理が出来るとなると、モテるだろう」
おっさんじみた話題である。ざくざくもふもふとサンドイッチを頬張り、持ってきた硬い干し肉を噛み千切る。時間帯が特殊なせいで、神秘に溢れた夕焼け空の下でピクニックじみた事をするという、珍しい経験をした。すこしだけ萎れてしまったサンドイッチも、全く味が衰えている様子も無い。それは思い込みだろうか? ならば別にそれでもいい。
「学校は行ってないからモテるとかないよー。あ、卒業したって事ね、周りより四年早く」
「へぇ、それって凄いんじゃないのか」
「まぁね。あたしの自慢だよ」
「そうか、カレンドゥラの娘だもんな」
「うん。あたしの頭の出来はお母さんから受け継いだみたい。お父さんは普通の人だったけど、凄く優しかったなぁ」
「父親は、好きか」
「思い返してみれば、ね。あんまり仲は良くなかったんだ、皆もそうなんだけど。だから、後悔してる事はたくさんあるよ」
反抗期や思春期の訪れは、男子より女子の方が早い。そして父親のみならず母親とも仲違いする事が決して珍しくない時期だ。そんな折に、父親と、二度と口を聞けなくなってしまった。後悔してもしきれないだろう。
「おにーさんはおにーさんじゃなくて、お父さんみたいだよね」
「年齢的にもな、間違ってない」
「あたし、モテるかは知らないけど好きな人ならいるよ」
「へぇ、どんな奴だ?」
「お父さんみたいな人」
「……そうか」
まるでトーゴを好きなのだと言われたようで一瞬たじろぐ。それが違うのは分かっているが。
ただ思うのは、先の台詞を口にしたときのミューの表情は余りに儚く、それでいてこちらを真っ直ぐと見つめていた。恋心とはあまり結びつかない表情、そんなものを向けられるような、思えば妙な関係だと言う事だ。
「ね、火、あげる」
「ん、あぁ」
食後の一服だろう。葉巻を取り出し、今度はミューから火を貰う。独特の爽やかな薫りに混じって、昔吸っていたような煙草の匂いがする。なんだろう、名前までは思い出せない。
「もう一回、ぎゅーってして?」
「良いぞ、ほら」
また、足の間にミューが収まる。もうミューの煙草は短くなり、機能はともかくフィルターの部分にまで火が届きそうだった。それをミューはぽっと手の内で燃やし、灰を風に浮かべる。ミューがトーゴの葉巻を持ってない方の腕を抱き寄せ、それをマフラーの様に首元に巻きつける。抱きしめて欲しいらしい。
「ね、おにーさん。」
「なんだ?」
「あのね、これからもこうやって、甘えさせて? ……なんかこの景色見てるとさ、寂しくなっちゃった」
「あぁ……そうだな。幾らでも傍に居てくれていい」
「迷惑じゃない?」
「全然?」
微笑を浮かべて腕の中のミューを見下ろす。ミューもまた見上げてきていて、逆さま同士に見つめ合った。
「やっぱりいい匂い、おにーさん」
にこ、と笑って、ミューはトーゴの葉巻をさっと奪い取り吸い出した。ミューの小さな口には、少しそれは大きく不格好で、やはりその表情も存在も、儚く見えた。
カトレア宅へ戻る。ティマエラは今日一日で鍛冶仕事に必要な物や、工房近くに住む為の家財道具を買い揃えたらしい。サンドイッチを食べたので、夕食は少しで済ませた。何時もは少し多めに食べるトーゴだと言うのに、とカトレアとティマエラに心配されてしまったが、今日起こった事と、ミュアレイトという少女について詳しく語れば納得してくれた。そして話題もそちらへ移る。
「あれが瓦礫の塔か、遠くから見たときは素晴らしくこの世界の不思議というものを感じたものじゃが、そんな物騒なことになっておるとはのう……」
「ミューちゃんは本当に頭がいいのね、目的や状況判断が子供とは思えないわ。」
「あぁ、あいつは子供なんかじゃない。だが、幼い。」
「そりゃそうじゃろうのう……きちんと支えてやれよ、トーゴ。父親代わりでも恋人代わりでも、傍にいてやれ」
「いや、恋人代わりって……」
「ん? 違うのか」
「え?」「ん?」
ティマエラの冗談ではない雰囲気にカトレアと揃って間抜けな声を上げる。どういう事だ?
父親代わりと言うところには全く同意だ、あの危うい少女についていてやりたいと思う。だが恋人とは。
「あれ? トーゴも前の世界で神だったのじゃろ?」
「それがなんだって言うんだ?」
「え?」
「は?」「え?」
話が噛み合わない。
「あー、ティマエラ。一から頼む。多分前提が違う。」
「え、えーっとじゃの」
ティマエラの話はこうだ。
かつて「呼ばれぬ神」に名があった神話の時代には、自身の力を示す一つの手段として、一夫多妻の形式をとり多く女性を娶るのは珍しくない物であった。更にわずか齢十一にして婚姻を成す者も男女共に多くいたという。思えば日本にもそういった話はあった気がする。年齢の概念が希薄な神ならではである。
だからてっきり、ティマエラはトーゴがミューを父親代わりのみならず、恋人の様な立場としても支えてやるものだと思っていたという訳だ。
「いやいや、まずトーゴは良いとして、ミューちゃんにまで神様の常識を当てはめないで頂戴……」
「じゃがこの国の成人は男子が十三で女子が十五じゃろ? あとたったの二年じゃ。婚姻に至ってはもう可能じゃし」
「『年』はたったじゃない。俺も感覚が狂い始めているがお前は少しそこを学べ……」
人の世で暮らしていたトーゴと違い、ティマエラは神の感覚しか知らない。だからそれは仕方無いと言えるのだが。
「それにお前、まず俺に他の恋人が出来てもいいのか?」
「だって、不死である限りわしが一番じゃもん。ただでさえ寿命が曖昧になっとるトーゴと時を同じくしていられるのはわしと長命種くらいじゃ。」
「その長命種が相手なんだが」
「ハーフエルフの寿命は百年前後じゃ、長命ではあるが本来のそれには及ばん。それにトーゴはその調子だといずれ不老となるぞ? 神の力が増しとるのじゃろう。」
「……そうか……」
「じゃから、トーゴが女子に囲まれようとわしはあまり抵抗感は無いし、優越感にも浸れるという訳じゃ。んふふ」
「逞しいな、お前……」
カルチャーショックとはこういう事か。一夫多妻……男としては魅力的ではある言葉だが、今愛しているのはティマエラだけだ。全く、埒外が起こりすぎて心が疲弊する。
疲れたので風呂に行こうと思えば、ティマエラも一緒についてきた。結局風呂にはティマエラと一緒に入る。行為は無い、ただのんびりと二人で湯に浸かる。
「神ってのは存外にもハチャメチャだな。あんな子供と婚姻だのなんだのと……」
「すまんすまん、どうもわしはズレてるようじゃの、根っこから。今日も買い物で無駄遣いし過ぎるところじゃった」
「気を付けろよ?」
「あぁ。にしてもトーゴよ、結局のところどうなんじゃ?」
「うん?」
「ミューとかいう娘の事じゃ。どう接していくんじゃ? お主はあれじゃろ、背徳感に興奮を覚えるタイプじゃろ。子供だろうと人の女だろうと、果ては男もイケるのではないか? なに、男色も珍しい物ではない。なんせ」
「それ以上言うな、三日はまともに歩けない程腰砕けにするぞ」
「すまぬ」
不死の再生力があればそれはあり得ないのだが、トーゴの威圧感に押し黙った。
トーゴとしてはティマエラの言う事が、あながちハズレでも無いのが頭が痛い。ティマエラに傷を付け、溢れ出たその血を吸い味わうという行為に、トーゴはえも言われぬ快感を感じている。
(そこなんだよなぁ……変な性癖を持ってしまったというか……)
子供だろうと人の女だろうと、等と言われると少しへこんでしまう。別に自分は小児性愛でも、寝取り趣味でもない。そして飲血趣味でも無いのだ。つまり、恐らくこれは背徳性愛だ。「やってはいけない事をやる」という高揚は、たとえ対象が何であろうが一定である。
この世界で人を殺し、死なないティマエラを傷付け殺す事で、その罪の意識から、命の重さから逃れ自分を慰めるように過ごして来た。その結果、自分の中で何かが壊れたのだろう。もしくは、生まれた。「悪徳の神」の種が、心に。だからそんな暗い行為に興奮するのだろうと、勝手に理由付けている。何故かって、前世ではそんな事なかったからだ。
しかしそれは事実だ。悪徳の美学、背徳の快楽。堪らない、とトーゴは思う。つまりはそういった性癖に、目覚めてしまったのだった。
ここで思う。悪徳や背徳とはなんだろう、と。
善や悪、それは誰が決めたのか。ただ人が存在すれば、それはそこにあるのだろう。善い事だの悪い事だのと、そんな物は元より無い。
だが今の、人の世界でこれを定義するとすれば「悪」は本能に基づくものだ。社会の規則や人の掟と言うものを無視して、やりたい事をやりたいように。
その結果は「悪」と呼ばれる。誰だって、金は払いたくないが腹は満たしたいし、嫌いな奴はその手で苦しめて殺したいし、魅力的な異性は思うまま犯し尽くしたいだろう。そうだろう。そうだろう?
そんな無秩序を許さないのが「善」だ。意思ある者が賢く繁栄していける様にと決められた、極めて不自然なルール。それをぶち壊す事に快感を感じる。そういう性癖。
トーゴに芽吹いた悪徳は、育っていく。ゆっくりと、確実に。そしてそれは、宿敵である「善」と深く交わった事により、加速度的にトーゴを侵して行く。悪徳の力を、いや増す為に。それは防衛本能かも知れないし、闘争本能かも知れない。だが確実に分かることは一つ。
心とは、行動に反映されるものだ。
「トーゴ、トーゴやーい」
「んっ? あ、あー、すまん、考え事してた」
「大丈夫かの? 少し休むか?」
「大丈夫だ、体調が悪いとかじゃない」
「……無理はするなよ?」
「お互い様だ」
天井を見上げる。湯気であまり見えないがドーム型になっており宮殿のような造りだ。
カトレアには本当にお世話になりっぱなしだ。ティマエラが出ていくのなら、自分もそうしようかな、と思う。宿を取ればいいし、また逢う事はできる。。
ティマエラが少し距離を縮めて来るので、自分も少し寄れば、肩が当たる。それだけでびくりと震えるのだから、愛おしい。肩を抱き、少し顔を寄せる。それに気付いたティマエラが、おず、と唇を差し出した。躊躇わずに口付ける。
「ん……っ」
「はっ……」
湯のせいだろうか? 少し自分の心臓が煩い、心音が煩わしい。
ティマエラは湯に髪が浸からないよう、風呂でもバレッタを付け、いつもより少し高い位置に一纏めにしている。その為普段隠れ気味のうなじが顕になって、生え際から少し、赤らんでいてとても良い。
細い首だ。あの首に残した小さな痣はまだ残っている。次はあの首を――
――首を……? なんだ、今一体何を考えた……?
俺は、俺は、何を望んだ? 俺の悪徳は、心までもを侵食するのか?
血を飲むに飽き足らず、どこまでも善を汚す行為。それに、どうしようもなく惹かれてしまう自分は、どうすればいい。
そうだ、俺が今望んだのは。
あの、首を――
「ティマエラ……ティマエラ」
「トーゴ……? どうした?」
「……愛してる」
「んん……ふふ。わしもじゃ、愛しておるぞ」
「……そろそろ、上がろうか。ベッドに行こう」
「えっ、あっ、うん」
ベッド、と聞いた途端に顔を赤くしてしおらしくなるのだから、この打てば響くような理想の異性は、やはり天然の淫魔に相応しいと思う。もし地上に一人で出ていたらどうなっていたことか。あぁ考えられない、耐えられそうもないな。ダメだダメだ。
ティマエラは赤らんだ頬を自覚しつつ、ベッドにとさりと落とされる。心臓の音が聞かれてやしないかと思う程に鳴るが、最早聞かれていても恥じる事もない気がする。少しだけ服を脱がされ、その白い肌に、愛する男につけられた痣を見る。自分では見ることが出来ない首筋の痣と、もう一つ、胸元にある歯型。少し鋭い犬歯の跡が痛々しくもあり、愛しくもある。
風呂に入ってから、少しトーゴの様子が変だ。どうしたと聞いても、なんでもないと言われてしまう。そこで「なんだって受け入れるから、何かあったなら話しておくれ」と言った。そうすれば、トーゴは激しく動揺して、同時に葛藤している様子だった。
何をそんなに、と思った矢先に、既に押し倒されたままの姿勢で問われる。
「本当に、受け入れてくれる、のか?」
「……うむ。トーゴの事なら、な~んでもじゃ。だから、安心せい。わしは何があろうと、お主を愛しておるよ」
「、あ、あぁ……っ」
ティマエラは困惑する。どうして、そんなに狼狽えるのか。愛を伝えられるのが、もしかして苦しいのか? 自分は迷惑だろうか? 自分に何か悪い所があったのなら言って欲しい。直すから、治すから。だから傍にいさせて欲しい。少し起き上がり声をかける。
「トー」
ゴ、と声に出すことは叶わなかった。ベッドが大きく音を立てて軋む。荒い息をしたトーゴが、ティマエラの首を思い切り掴みベッドに押し付けていた。
「か、はッ」
「っ……!? す、すまな」
我に返ったトーゴが咄嗟に謝り手を離そうとする。だがその手をティマエラは自分の手で優しく包み、離さないで良い、と暗に伝えた。
ティマエラは思う。なんだ、そんな事か。ティマエラは確かに見た、トーゴの血色の瞳に、隠しきれない情欲が浮かんでいる事。ティマエラは知っていた、トーゴが血を飲む快楽に、その背徳行為に快感を覚えていた事。
そして何よりティマエラは嬉しかった。これは、まさに自分のみが与えられる物だ。血を飲ませるのも首を絞めさせるのも、骨を折らせるのも肉を断たせるのも、不死である自分だけがしてやれる事だ。
「トーゴ、わし以外の娘にやっちゃ、嫌じゃぞ?」
「ティマ、エラ」
「おいで、トーゴ」
「……あぁ、あぁ。愛している、愛している。ティマエラ」
「わし、もっ……ッ、ぁ……っくふ……イッ、く……」
女はぎりぎりと首を絞めあげられ、苦しさに涙が流れてもなお、その顔には満面の喜色の微笑みが浮かぶ。
男はぎりぎりと首を絞めあげ、人の心を忘れ、もう感じない罪悪感が興奮に変わっている事を自覚する。
あぁ、堪らない、堪らない快感だ。この人を、愛している。絶対に離さない。
それは二人の共通する意思だった。
――善と悪が交われば、何が起こるか。
ティマエラとトーゴの体内にある魔力にも似たエネルギーは、敵対する神と交わるという、本来あり得ない出来事によって変化しつつあった。
トーゴの場合、それが既に精神面へ影響を及ぼしている。その者が持つ「悪」という価値観に則って、それに魅力を覚えるという思考。そして、「善」に背く行為、背徳に快感を覚えるという性癖。
かつてアンラ・マンユはスプンタ・マンユの作り上げた世界を破壊した。ティマエラを傷つけると言うトーゴのその行為は、いわば神話の繰り返しであった。
つまり、紛れもなくこれは、「悪徳」の姿である。




