始動
「……寝坊だ」
トーゴは起き上がり、時計を確認して呟いた。仕方無い。やむにやまれぬ情事の事情があったのだ。疲れ果てて眠る女の瞼にキスをし、紅茶を淹れる。汗を掻きすぎて乾いた口を潤し、バスローブを羽織り廊下へ出る。丁度シェモがいたので、浴室は使えるか聞いてみた。
湯を沸かすには時間が掛かるらしい。如何しましょうと聞かれたが、ティマエラの為に沸かしておいてくれるか、と頼んでおいた。薪で沸かしているのか魔術で沸かしているのか知らないが、金や労力は後で返そうと思う。返さなければならない恩が増えていくが、そんな関係を持てた人間がいることをトーゴは嬉しく思っていた。
着替えを持って浴室に入り、自分は冷たいシャワーと石鹸のみで体を流す。頭を洗い流すため、水を被り目を瞑る。そのふとした瞬間に昨晩の光景が思い出され、冷水を浴びているにも関わらず熱く充血する部分がある。だがこれも仕方が無い。ティマエラは処女であり、トーゴは長年無意識に溜め続けてきた衝動を遠慮なくぶつける事が出来なかったのだ。
そのかわりティマエラの一生に一度を掛け替えの無い物にするため、全身全霊をかけて愛してやった自信はある。脳裏と脳髄に抉りこむように愛を刻みつけ、絶対に、二度と、永遠に忘れられない経験にしてやったと、トーゴは思っている。
トーゴ自身は気付いていないが、この重く深い愛を受け止められるのは、同じく深い愛を抱えたティマエラだからである。そしてティマエラもそれを喜んで、いや悦んでいるのだから、結局この二人は恐ろしくお似合いであるという事がわかる。
しかしいきり立つそれを収めるのに、今、性的快楽とは一種相対に位置する優しい愛情というものはあまりに無力であった。むしろ余計にトーゴを昂らせる敵だと言える。そしてこうなったのは自業自得だ。あぁ全く、昨日愛せないだの愛さないだの散々決意したというのに、呆気なくそれは崩壊してしまった。長年抱えてきた、トーゴ自身も気付かなかった想いがそれ程大きかったと言うのもあるが、やはりティマエラは末恐ろしい女だと思う。
がしがしと頭の泡を落とし無理矢理に精神を落ち着かせ、体を洗いスッキリしたところで浴室を出る。そういえばと、今日やらねばならない事を思い出す。昨日着ていたものとは違うがよく似た冒険者然とした服に袖を通し、丈の長いフード付きマントを羽織る――が、今は必要ないだろう。なんとなく持ってきてしまった。羽織らず腕に持ってトーゴは部屋へと戻る。そろそろティマエラも起きてきたのではないか?
部屋に戻ると、ベッドから起き上がり窓の外を眺めるティマエラが居た。裸なものだから、背中しか見えないが強烈に扇情的だ。
「ティマエラ」
声をかけるとやっと部屋に人が入ってきたことに気がついたようで、こちらをゆっくりと振り返る。
「トーゴ……」
泣いていた。しまった、起きた時に一人という事態を想定していなかった。
「トーゴぉ!」
ベッドから飛び出し、トーゴに体当たるように抱きつく。裸では、このごつごつした装備は痛いだろうに。
「すまんっ、風呂に行ってただけだ! 何処にも行ったりしないから、泣かなっ」
また、口を塞ぐようにキスをされる。涙の味のキスは何度目だろう。ぷは、と離れれば、声を上げて一層泣き出してしまった。
「うぅ、良かった、夢じゃなかったあぁ、ばかああぁ」
「すまない……」
情けない、女を抱くなんて何年振りだから、など言い訳にならないだろう。ティマエラの想いも自身の想いも、人の身で考えるには多分埒外だ。だから色々と迷っていたというのに、これでは形無しだ。
償うように、ティマエラを抱き締める。ティマエラの身長はかなり高い。ヒールも履かずに目線の位置まで頭が来る程だ。抱き留めるには丁度良く、全身でティマエラを包んでやる。
ティマエラがく、と少し踵を上げ、こちらを熱を帯びた瞳で見上げる。もう泣いてはいないが、潤んだ目。昨日も見た、その表情。思わず組み伏せそうになるが堪え、ティマエラの腰と背中に手を当て支え、軽く抱き上げてやる。朝日というには幾分か遅い日の光に照らされ、二人はもう一度唇を交わした。
遅めの朝食兼昼食の席には、紅茶のみだがカトレアも同席していた。白いシャツをインしたタイトな黒ズボンという仕事着の様な服装だ。ティマエラは相変わらずツナギである。同じものを三着持っている。
「トーゴ、今日はなにするの?」
「リンムーの森とやらで幾つか依頼をこなしてくる。これとこれとこれと……あと魔物がいたら幾つか」
そう言って三ヶ月以内に達成するよう言われた依頼書を取り出し見せる。
「あっ、懐かしい! 三ヶ月どころか一ヶ月掛かる人もなかなか居ないのよね、これ」
「へぇ、まぁそんなものか」
「じゃがトーゴ、ならばお主はそれよりヴァンズとの試合に備えたほうが良いんじゃないのかの?」
「あぁ、武器を買おうと思ってるから、相場を調べたり金を集めたりしないとな。オーガの素材も換金したい。」
「それで武器を打ったりせんのか?」
「それには時間がかかっちゃうからね、あるものを買ったほうが早いのは確かだわ。」
「ん、そうだ。ティマエラ、働く気はあるか?」
「勿論じゃぞ。トーゴの嫁としてしっかり家は……」
「まず家を持ってないだろうが。」
「働くって、どういうこと、トーゴ?」
ティマエラをスルーしてカトレアがトーゴの考えていることを尋ねる。一日そこらで随分扱いに慣れたものだ。
「ティマエラは鍛冶職人でな。腕は良い方だと思うから、何処かで修行を兼ねて働けないかと思ってだな。何もせず過ごす事も無いだろうってのもあるが」
「あぁなる程の。金も入り用じゃしのう」
「んーとね、ならアテがあるわ。ロベイン・アントラクスって言うドワーフの女性なんだけど」
「あぁ、ドワーフか」
背が低く屈強で、鍛冶や工芸に優れた亜人だ。地球でのファンタジー作品にも多数出演している。エルフといいドワーフといい、やはり共通しているところは共通している。世界線がどうこう、とかあるのだろうか?
「この国でも有名な女鍛冶でね、軍から依頼を頼まれる事もあるのよ。でも、それには人手がいるでしょ?」
「弟子はとっておらんのかの? それにそんな名うての鍛冶師の工房に雇ってもらえるとは思えんのじゃが」
「とった事はあるわ、でもすぐ辞めちゃうのよ。厳しすぎてね。だから万年人手不足。女だからって馬鹿にされる事を何より嫌っているから、厳しくなるのも仕方無いんだけど……そんな訳で、女性のティマエラなら気が合うかなーって。」
「寧ろ、『こんな奴がいたらまた女鍛冶職人が馬鹿にされる』とか言い出さないか?」
「今さらっと馬鹿にされたか? わし」
「いやすまん、言葉の綾だ」
「そんなに悪い人じゃ無いけれど……気が合っても結局ビシバシしごかれるんでしょうね」
「まぁ、今のわしならばどんな試練すら乗り越えてみせるわい。んふふ、んふふふ」
「……ティマエラ、なんか変」
「ほっといてやってくれ。と言うか気にしないでくれ」
「……なんか随分仲良くなってない? ねぇ気のせい?」
「お前、観察眼が鋭すぎるのも考えものだな」
もともと仲が良い方だったというのに、その機微まで見通すか。この家系の人間には嘘を突き通す自信がない、本気でそう思う。
「遂にの、トーゴに抱いむごご!」
トーゴの大きな手がティマエラの口をふさぐ。
「飯の席で何を言うつもりだ、馬鹿野郎!」
「もう食後の談笑に差し掛かっておるじゃろうが、ほれきちんと残さず食べ終えて……」
「そういう問題じゃない……」
「ひ、人の屋敷で何してくれてんの……その首の痣って……その……」
カトレアは顔を真っ赤にしている。口を塞いだが遅かったようだ。しかし王国屈指の女騎士がこんなにも初心だとは。民の語り草になってもおかしく無いだろう、もしくはもうなっているのか。アイドルのような扱いを受けていても違和感はない。
「じゃが、案内された部屋はベッドがひとつじゃったぞ?」
「なっ、シェ、シェモぉ……あれ、でも昨日男女の仲じゃないって……」
「じゃからぁ、遂に昨晩むぐぐ!」
「もしかして、歴史的瞬間? 善悪の神が睦み合うなんて……それもゲートゲート家の屋敷で……目眩がするわ」
「はぁ……ごちそうさま、美味かった。カトレアは仕事は大丈夫なのか?」
「え、えぇ、二日だけ休暇を貰っているわ。」
「じゃあ俺は行くが……ティマエラは?」
「わしはそのロベインとやらに会いに行くよ。場所だけ教えてもらえるかの?」
「案内するわよ?」
「折角の休みじゃろ? 身体を休めるのも仕事だと思え。」
「そう? なら遠慮しないわ。もー身体が強張っててねー」
ティマエラはロベイン・アントラクスの工房を地図に書き込んでもらい、カトレアから少しのお小遣いを貰っていた。お金の価値がわからないと断れば、持っているに越したことは無いと言うし、自分の代わりの案内にメイドの一人をつけてくれると言う。ティマエラはそれを固辞していたが、トーゴの勧めによって渋々折れた。カトレアは優しすぎるようだが、それが今トーゴにはありがたかった。見知らぬ土地で愛する女を一人にするなど、不安にもなろう。トーゴもカトレアにありがとうと告げる。
だがその気持ちはティマエラも同じだったようで、出掛け際、トーゴ、気を付けろよ? と言ったそちらを向けば、返事をする前に抱きつきキスをして来た。片足の爪先だけで立ち、トーゴに体を預けて啄むように唇を交わし、それで満足して終わろうとする。だがしてやられたトーゴはティマエラの腰と頭を掴んで逃さず、下唇をかり、と噛んだ。血の味がする。それを吸い出す。知らない感覚にまたティマエラが悶え、必死に声を堪えていた。このままずっとこうしていたかったが、時間ももう昼をまわり、何より見送りに来たカトレアが茹でだこの様になって睨みつけてくるので、数秒そこらで辞めておいた。
因みに血が足りなかったわけでなく、単に仕返しと、味わいたかったからである。血は昨日たっぷりと飲んだのだ。痣とは反対側の首にナイフをあてがった傷は、もうとっくに塞がっている。
カトレアは、あらあらと頬を軽く染める三十代前半程の淑やかなメイドを投げつけるように突き出し、
「さっさと行きなさい!」
と吠えて屋敷の奥へ行ってしまった。
「トーゴのせいじゃな」
「否定しないがお前も反省しろ」
「んふ、嫌じゃ」
くそ、憎たらしいが愛らしいのが腹立つ。
トーゴ達がようやく屋敷を出たのは午後に差し掛かろうかという時刻だった。ギルドに行き、魔物の素材を換金してもらえる場所を尋ねる。
「どのような魔物ですか?」
「225階のフロアボスのもので、オーガの牙と目玉だ」
「は? ……失礼ですが階級はどちらで?」
「階級?」
「えー……冒険者の階級です。泥級、砂級、石級、岩級、鋼級、その上に国から認められた方のみがなれる幻石級、神鉄級とあります。上に行く程行動できる範囲や権限が増えます。」
「俺はどれでもないな……」
仮のラッケンを取り出し見せる。
「あ、もしかして……重ねて失礼をお詫びしますが、貴方はもしや、カニス・ルプスの四人を救ったというあの方でしょうか?」
何故知られている? と思ったが、そうだ、昨日転移直後にラベルマイヤ達に出会ったのだった。大凡彼らが帰還してきて、事のあらましを語ったのだろう。もしくはヴァンズだ。昨日酒に酔った所を見たが、そういうことをペラペラしゃべってもおかしくない。
「……ノーコメントだ。」
「は、失礼しました……ではカティフェス研究所へ向かわれては如何でしょう。225階のフロアボスともなれば、新種でしょうから……研究材料として買ってくれる筈ですよ」
「そうか、ありがとう」
カティフェス研究所……あぁ、「魔物大全」や「素材採取にあたって」を発行した所か。地図を見ても、それなりに大きい土地面積に研究所を構えている。南区だな。
立ち去り際にふと思い立ってトーゴは聞いてみる。
「カニス・ルプスの奴らは神鉄級か?」
「えぇ、勿論」
何故か受付の男が自慢げにそう言った。流石カトレア達だな。
上に行けば行くほど行動できる範囲が増えるとなると、見聞が大きく広がりそうだ。なれるのであればなってみたい。
だがまずは目先の些事を片付けよう。
カティフェス研究所は、大学のような雰囲気を醸し出す赤煉瓦の建物だった。門から真正面には時計を貼り付けた横方向に巨大な建造物、遠くには透明なドームのようなものや白亜に彩られた殺風景な施設、恐らく実験動物を飼育している場所があり、大学のよう、という感想に違わず教室棟では、日々学問に励むものが多くいる。
開け放しにされた高さ二メートル、横幅四メートルほどの鉄の門を通り、敷地内へと足を運ぶ。芝生と噴水がある涼し気な広場を通り、中央受付にて素材買い取りの旨を伝えた。
待たされること数分。
「君か、新種のフロアボスの素材を持ってきたというのは。」
現れたのは、くすんだ金、枯れ色と呼ばれる髪を腰まで伸ばした白衣の女だった。大きな鋭い目は深い紫色をしている。そしてやはり耳が尖っている。本物のエルフだ。エルフは全体的に小さいイメージがあったが、身長は凡そ160後半あたり、カトレアより少し高く、腰の位置も同じように高い。胸も貧しくはなく、普通だ。だがその持ちあがり方からしてかなりの美乳だと予測できる。
「えぇ、トーゴ・グンジョーです、宜しく。」
「あぁ、あまり畏まるのはやめてくれ。カレンドゥラ・リンゲンブルーメだ。」
驚いた、まさかこの規模の施設で、数分待たされる程度でトップが出てくるとは。この組織が特殊なのか、あるいはこの女が特殊なのか。
「カレンドゥラと呼んでくれ。それで、肝心の素材は? 早く見せてくれ。オーガの牙と目玉だったな? さぁ早くしろ。あぁっ、焦らすんじゃない!!」
これは後者だな。流石「魔物と結婚した女」。歩きつつ何処かへ案内されながら、背負った袋からそれを取り出そうとする合間にも急かし続けてくる。余程の研究者気質でないとこうは行くまい。げに研究欲というのは恐ろしいものだ。
「おおっ、成る程でかいな! このサイズは確かに、ん、重い! これは質量が四……いや五倍? 大きさも考えると……ふむ、素材は通常と……いや、なんだ、何か混じっているな! ほおぉぉ、成る程成る程、ふふふふ。どれ、目玉は……」
「あの、それは幾らになりそうだ?」
余りにも執心して牙を観察しまわすカレンドゥラに、トーゴは敬語も忘れ、痺れを切らして尋ねた。まぁ畏まるのは止めてくれと言っていたし問題はない。因みにとっくにカレンドゥラ個人用と思われる研究室に到着していて、トーゴを放っていそいそと何かを始めようとしている始末だった。
「はっ!? あ、あぁ済まない、ついな……うぅむ、幾ら欲しい?」
「何?」
「いやだから、言い値で買おう。新種だぞ、フロアボスだぞ! 滅多に手に入らない素材、しかも200階層以下のものだ! グルティールの素材とは違ってこれは……」
「戻ってきてくれるか」
「はっ!」
「俺は新米冒険者で、これから武器を買おうと思っている。言い値と言うなら、それを工面するだけの金は貰えるか?」
「なんだ、妙な頼み方だな? まぁ、ならばミスリルの剣を腕いっぱいに抱えるくらいの金を出してやろうか? 私はそれくらい君に感謝している」
「その、金の価値が分からなくてだな……それがかなり高額ということは分かるんだが」
「んん? ……あぁ、君はあれか、アンラ・マンユを宣う男か!」
「……何故知ってる?」
「いや何、ヴァンデンドルデから聞いたのだよ。何だ、不味かったか?」
「不味いは不味いんだが……まぁ、いい。口止めすることも忘れていたしな。」
せいぜいが神を名乗る道化という不名誉が付き纏う位だろう。それも力を見せつけて黙らせればいい。カトレア達と迷宮を進んでわかったが、王国屈指の冒険者と比べても、自分は強い。それをどう使うかはトーゴ次第だ。
「成程それで……よし、ならば大ミスリル硬貨を五枚渡そう。」
「ミスリル硬貨……それは、かなり高額なんじゃ、」
「まぁまぁ、そこは気にするな。それでだな、君に深く感謝している私はこれを授けよう。」
トーゴの手のひらよりは少し大きい紙に、万年筆で何かを記していく。書き終えたそこには硬貨の種類とそれに値する金額が書いてあった。
「これは……」
単位はケインズ。石貨が十、小銅貨が百、大銅貨が三百、同じように銀が千、三千、金は一万円、三万。白金貨が、十万、三十万。そして小ミスリル硬貨は百万、大ミスリル硬貨が三百万だ。それを五枚。
「流石に額がでか過ぎる……スられるつもりは無いが、相場も知らないからな……ボッタクられてもわからんぞ。」
「そこまでは私の預かり知る所では無い。相場がどうとかは、実際自分の目で見て学んでくれたまえ。だがもう一つ、私は君に感謝を示そう。地図はあるかい?」
トーゴの取り出した地図を指でなぞり、あったと呟く。東区の外れにある小さな区画を示している。
「ここは名工共が寄せ合い犇めき合い、年がら年中鍛冶の腕を競い合う通称『鑪村』だ。そしてこの村には、当たり前だが武器商人共がいる。村の一番奥でダッカクという男がそれを仕切ってるんだが、そいつに売ってもらいたまえ。奴は武器を金で売らない、振るう者の腕で売っているのさ」
「ほぉ。随分と古風で頑固なイメージが沸いたんだが、合ってるか?」
「ははは、その通りだとも! いや全く、彼奴の頑固さは祖父の代から譲り受けて居てだな……そういう昔ながらの商売というものを、私は嫌っていないさ」
祖父の事を知っているのは、やはり長命種だからだろう。トーゴもそのような気概を持って何かを為す人物というのは嫌いではない、むしろ好ましく思っている。今から少し、会うのが楽しみだ。
「因みに、鑪村にロベインという女性はいるか?」
「いや、彼女は北区の外れに一人で工房を構えているよ。どうかしたのかい?」
「仲間がそいつに弟子入りしに行ってな……そいつも女なんだが」
「ほう、面白いね。何時までもつか……おっと、失礼した。なんせ彼女は……」
「いや気にするな、噂は聞いている。」
「そうかい、済まなかったね。私はすぐにでもこの素材を解析にかかるよ。君ももう行くのかい? もう昼だ、この施設には食堂があるぞ?」
「飯ならもう食ったさ、ありがとう。」
「そうか、ならばこれを持って地下二階に向かってくれたまえ。いや全く、本当に素晴らしい素材だよ、こちらこそありがとう」
「あぁ、それじゃあ頑張ってくれ」
また、適当なメモ帳のような物の一ページに、「研究素材提供の礼に大ミスリル硬貨五枚を渡してやれ、カレン」と書かれた紙を渡される。いつの間にか印も押してあった。
ばたんとトーゴが扉を締めるよりも早く、カレンドゥラは行動を開始していた。なにやら魔法陣の描かれた黒い台座にオーガの牙と目を浮かばせ、こぽこぽと液体の沸き立つ一メートルほどもある透明な筒へと牙の一本を投入し、ゴーグルを装着してレンズ脇の目盛りでその倍率を調節し、台座の目玉を睨みつける……振り返る一瞬だけでそれをこなしているのが見て取れた。恐ろしい素早さだ、こと敏捷性に関してはカニス・ルプスの面々に匹敵するだろう。
一旦受付へ戻り、地下二階へ案内してもらう。猫耳を生やした受付の人物はカレンの書いてくれた伝言のメモを見て驚いていたが、事情を説明すれば苦笑いして納得してくれた。やはり研究所職員にも彼女の魔物愛は知れ渡っているようだ。
地下へは基本一部の人物しか入れないらしい。何故なら研究素材や備品庫、そして金庫が幾つもあると言う。
地下二階、黒く大きい扉に鍵を差し込み、そのまま開けるのかと思えば、タイプライターに似たキーボードをタンタンと指で叩いていく。『大ミ・五』とだけ入力され、ばかりと上向きに蓋が開いた窪みに、五百円玉よりふた周り程大きい硬貨が出てくる。銀でも鋼でもない鈍色をしていた。
「はい、丁度五枚ですね、お渡しします。」
これがミスリルか。鉄よりなお硬いらしいが握ったら歪むだろうか? 試すにはもったいなさすぎるので、いつかミスリルの武器を持った奴と戦った時に試そう。
案内してくれた素朴な可愛さを持つ猫耳の少女に礼を告げ、研究所を後にする。金庫の鍵を任されるなんて、あの少女もそこそこの地位なのか等と考え、門へ足を向けた。が、唐突に建物出口にて声をかけられる。
「おにーさん」
「ん?」
声の聞こえたそちらを向けば、誰もいない……のではなく、視界より少し下にいた。胸の高さ辺りで跳ねる少しぼさついた髪は、カレンドゥラと同じ色をしていた。




