コミカライズ発売記念番外編 追憶のアニエス』
物心ついたときから、アニエスの周囲にはたくさんの人たちがいた。
メイドに侍女、家庭教師に商人――社交界にでてからは、大勢の人たちと知り合い、付き合うように父親から命じられていた。
そのすべてを彼女は貴族女性の義務だと割り切り、淡々とこなす。
貴族に生まれた女性の務めは、家と家の繋がりを作ること。
そこに私情を挟んではいけない。アニエスはそう、理解していた。
社交界にいる人々は皆、仮面を装着し、自分自身を偽っていたように思える。
言葉のひとつひとつが舞台の台詞のようで、本心がないように聞こえるときもあった。
皆、舞台の上で操られる人形なのかもしれない。そんなことさえ、感じていたくらいだった。
心が悲鳴をあげていた。けれども、逃げることなど許されない。
だからこそ、アニエスは現実逃避できる物語の世界にのめり込んだのだろう。
社交界に出て、唯一心躍った瞬間は、熊の名を持つ騎士ベルナールとの出会いだろう。
彼は物語に登場する熊騎士のように勇敢で、正義感に溢れ、アニエスの危機を颯爽と救ってくれた。
結婚するのが、ベルナールのような男性だったらどんなによかったことか。なんて、夢見た日は一度や二度ではない。
貴族女性の人生は、ままならない。
アニエスの結婚相手の候補に、ベルナールの名などなかった。
彼との出会いはよき思い出として、心に忍ばせておこう。
そう思っていた矢先、アニエスの実家は没落した。
家の中の物は何もかも押収され、父親は騎士に捕まり連行される。
これまで頻繁に出入りしていた親戚たちは、どこにいったのか。誰もアニエスに支援の手を差し伸べなかった。
それも無理はない。収賄に手を染めた男の娘を助けたら、社交界から爪弾きにされる。
アニエスは期待なんて欠片もしていなかった。
変わったのは親戚だけではない。社交界で親しくしていた人たちも、アニエスを見て見ぬ振りをした。
これまで親切にしてくれたのは、アニエスが宰相の娘で歴史ある伯爵家の娘だったから。
それがなくなったら、アニエスと付き合う意味などなくなるのだろう。
その後、彼女は修道院へ身を寄せる予定だったが、心残りがあるならば、修道女の道は止めたほうがいいと諭される。修道女の紹介で、下町の宿で働くこととなった。
皿洗いや掃除、洗濯など、生まれて初めて行った。
もちろん、生粋のお嬢様育ちのアニエスに上手くできるわけがない。
皿を割ったり、箒を思うように扱えなかったり、洗濯物の水を絞れなかったり――散々だった。
当然給料なんて貰えず、割った皿の請求額が増えるばかりである。
没落してからというもの、アニエスは孤独だった。
誰もアニエス本人など見ていない。これまで人々が敬意を示していたのは、家柄だったのだ。
ベルナールも、きっと没落したアニエスを軽蔑した目で見るに違いない。
正直に言えば恐ろしかったが、アニエスは彼に対して恩があった。手元に残った全財産でワインやパンを買い、騎士隊へ足を運ぶ。
そこで再会したベルナールは、アニエスを見下すことはなかった。それどころか、彼の家で働かないかと声をかけてくれたのだ。
身寄りがなく、十分な働き手になれないアニエスに、ベルナールは助けの手を差し伸べてくれたのだ。
彼だけは変わっていなかった。それがどれだけ嬉しかったか――。
「というわけで、ベルナール様には心から感謝しています」
「いやいやいや、俺はその当時、お前に嫌がらせをしようと思って誘ったんだ。同情したわけでも、正義感を貫いたわけでもない」
「ええ」
以前も、ベルナールはアニエスにそう打ち明けてくれた。
それでも、嬉しかったことに変わりはなかったのである。
「仕返しをしようと思ったら、もっと酷いこともできたと思うんです」
「たとえば?」
ベルナールに聞かれ、アニエスは小首を傾げる。
仕返しについて、何をすればいいのかまったく浮かばない。
「えっと、その、仕返しとは、どういうことをすればよいのでしょうか?」
「お前なー……。思いつかないって、どんだけ箱入り娘なんだよ」
「申し訳ありません」
「いや、怒っているわけではなくて」
何も思いつかなかったので、ベルナールに仕返しについて聞いてみた。
「仕返しって――たとえば、愛人になれ、とか」
「ベルナール様の愛人に!?」
アニエスは自らの頬が、カーッと熱くなっていくのを感じる。
「嫌だろうが」
「いいえ、ベルナール様のお傍に置いていただけるのであれば、その、嬉しく思います」
「なんでそうなるんだよ!」
もう一度、質問が投げかけられる。
「俺以外の男に、愛人になれって言われたら――」
「い、嫌です」
「だろう?」
仕返しとは恐ろしい。アニエスは心の底から思った。
そしてベルナールという親切な男性に助けてもらい、幸運だったと自らの過去を振り返る。
ベルナール自身、過去の言動は最悪だったと言っていたが、アニエスはそう思わない。
彼は没落令嬢となったアニエスを守り抜いてくれたから。
社交界で出会った人々の中で、唯一変わらない男だったのだ。
叶うならば、この先ずっとベルナールの傍に居続けたい。
アニエスは心の中でそう願ったのだった。




