第六十話 船内にて 後編
会場に入ってすぐ目に付いたのは、巨大なシャンデリア。蝋燭の灯りを受けて、クリスタルの一粒一粒が豪奢に煌めいていた。
壁には美しい薔薇模様の浮き彫り加工がなされた板が張られており、床は真っ赤な絨毯が隙間なく敷き詰められている。
夜会のように堅苦しい雰囲気ではなく、皆、円卓に並んだ料理やお酒を囲み、和やかな様子で社交を楽しんでいるように見えた。
ぼんやりと会場を眺めるベルナールにオセアンヌが話しかける。
「今回はお忍び旅行なので、周囲への挨拶は不要とのことです。名前を聞かれたら、名乗ってもいいですが、自ら名乗る必要はありません」
上流社会の柵など考えず、純粋に食事を楽しんで欲しいというのがカルヴィンの考えであった。
「本日、お父様は別行動をなさると。方針はご存知?」
「はい、伺ったことがあります」
カルヴィンは身内を公表していない。過去に、幾度となく金目当ての犯罪に家族が巻きこまれたことがあったからだ。
「その点に関して、パーティのあとお話があるそうです。食事が終わり次第、最初にお茶を飲んだ客室に集まるようにと」
「分かりました」
「話はこれで終わりです。では、あとは若いお二人で」
オセアンヌは扇を広げ、ほほと笑うと、ジジルを伴って人混みの中へと消えて行った。
取り残されたベルナールとアニエスは、その場で呆然とする。
これからどうするか。視線を合わせたその刹那、楽団の演奏が始まる。
周囲は待っていましたとばかりに、ワッと歓声が沸いた。
「――うわ、危なっ」
参加者がわき目も振らずに前進し、アニエスにぶつかりそうになったのを、ベルナールは寸前で腰を引き寄せて回避させてやる。
「あ、ありがとうございます」
「いや、別に構わないが。なんだか貴族の夜会とはちょっと雰囲気が違って――」
豪華客船に乗り込んでいるのは貴族だけではない。商人や、異国からの旅行者など、様々な階層の人達が同じ空間に居る。
礼儀など、あってないようなものであった。
ベルナールとアニエスは、人混みを避けるために壁際へと移動する。
とりあえず目的を果たさなければと、食事を取ることにする。
机の上には、見たこともないようなごちそうが並んでおり、ビュッフェ形式となっていた。ベルナールは適当に見繕うように給仕に頼む。
給仕が手渡してくれた皿には、ワインソースの薄切り肉に、果物のサラダ、白身魚の蒸し焼き、二枚貝のグラタンなど、いろいろな料理が少量ずつ盛り付けられていた。
アニエスにも皿を渡し、妙な盛り上がりを見せている会場を観察しながら料理を口にする。
ベルナールは給仕より手渡された葡萄色の炭酸飲料を飲んだ。それはジュースではなく、酒だった。当たり前かと考えていた隣で、アニエスも同じ色のグラスを傾けているのに気付き、あまり飲み過ぎないようにと注意する。
「お前、あまり酒強くないからな」
「はい、分かりました」
アニエスはすでに頬がほんのりと紅潮してきていた。目もトロンと潤み、ただならぬ色気を漂わせているように見える。周囲にさらせる状態ではないと、ベルナールは若干焦っていた。
「それよりも、今日は平気なのか?」
「ええ、特に、問題は」
「でも、矯正下着、着けているんだろう?」
「いいえ、今日は身に着けておりません」
「そうなの、か……?」
てっきり、矯正下着で腰を締め、胸を押し上げているものだと決めつけていたが、そうではなかった。
先ほど引き寄せた彼女の腰は驚くほど細く、ついつい視線が行ってしまうほど開いたドレスの胸元は、素晴らしい円やかさを描いていた。
これで矯正下着を着けていない状態なのだ。アニエスの出るところは出て、引っ込むところは引っこんでいる体型を末恐ろしいものと考える。
だが、ドレスから剥きだしとなった腕は痩せすぎだと思った。もっとたくさん肉を食べるようにと勧める。
そんな二人に、陽気に話しかける者が現われた。
褐色の肌に、銀の髪を持つ美しい男だった。
拙い片言の言葉遣いで、隣国よりやって来た貿易商だと話す。アニエスが余りにも美しかったので、声をかけてしまったと。
「よろしかったら、少し、そちらのお嬢様とお話したいのですが?」
「断る」
ここでは社交を広げる必要はないと言われていたので、ベルナールははっきりと拒否の姿勢で対応する。
「多少、話をするくらいなら、問題はないでしょう?」
「彼女は俺の婚約者だ。興味を持つな」
「おや、それはそれは、失礼を!」
婚約の証である指輪をつけていなかったので分からなかったと男は言う。
そこで、間に割って入って来た理由に気付くことになった。
「まだ、決まったばかりで、準備をしていなかった」
「いえいえ、気付かずに、申し訳ありませんでした」
男は謝罪し、深く頭を下げる。
「それでは、お二方共良い夜を!」
異国の貿易商はあっさりとこの場から去って行った。
嵐が去れば、ベルナールはホッと胸を撫で下ろすことになる。
隣に立つアニエスは、目を伏せながら謝った。
「ベルナール様、その、申し訳ありません」
「いや、お前のせいではない。それよりも、指輪が必要だったな」
「いえ、そんな!」
「どこかで買っておこう」
その言葉に、アニエスは瞠目し、酒で火照っていた頬を、さらに赤く染めていた。
食事を済ませたあと、ベルナールとアニエスは甲板に出て、形見のペンダントを海に捨てた。
重石を付け、布に巻かれたペンダントは、早い潮の流れに呑み込まれ、海の底へと沈んでいく。
この先、二度と財産を巡る争いが起きないようにと、祈りを捧げることになった。
◇◇◇
客間に行けば、すでにオセアンヌは居て、紅茶を楽しんでいた。
机の上には軽食も用意されている。
会場内の上品な食事で腹が満たされなかったベルナールは、一口大に作られたサンドイッチを摘まんで食べる。
しばらくして、カルヴィンもやって来た。人混みに揉まれたからか、疲労が滲んだ顔付きになっている。
「久々に集まりに出て、疲れた」
「お父様、無理はなさらないで下さいな」
「分かっている」
エリックが差し出した水を一気に飲み干し、早くも本題に移ると言う。
「――さて、俺の街では、皆それぞれ別の立場を演じてもらう」
まず、アニエスを指差す。
「アニエス・レーヴェルジュ。お前は金持ちの娘役をしろ。名前はそのままでいいが、家名はそうだな――アントワーヌとでも名乗っておけ」
「はい、承知いたしました」
「次に、オセアンヌ」
「はい」
「お前はアニエス・レーヴェルジュの侍女役だ」
「分かりましたわ」
母親が侍女役ということは――ベルナールにもとんでもない役が回って来そうだと、額に汗を浮かべる。
そんな孫を見て、ニヤリと笑うカルヴィン。
しばし間を置いて、ベルナールの役回りが発表された。
「ベルナール、お前はアニエス・レーヴェルジュの従僕を務めるように。これまで世話になった恩を、しっかりお仕えして返すことだな」
「!?」
呆然とするベルナールを他所に、他の者達の配役も発表される。
ジジルとドミニクはアニエスの両親。エリックはアニエスの兄で、アレンは秘書役となった。ミエルは変わらず、アニエスの飼い猫となる。
「役回りを務める変装一式は、明日各々揃えるように。支払いはジェラール・アダンの名でツケておくように」
ジェラール・アダンはカルヴィンの数ある偽名の中の一つである。それの名義で買い物が出来ると説明していた。
「役をするにあたり、相応しくない恰好をしてきた者には、罰を受けてもらうからな」
至極愉快といった感じで、忠告をするカルヴィン。
「ベルナール、きちんと『アニエスお嬢様』と呼ぶんだぞ」
「……はい」
「どれ、一回言ってみろ」
ベルナールは隣に座るアニエスの顔を見る。
困ったような笑みを浮かべる彼女に、カラカラに乾いた声で呼びかけた。
「よろしくお願いいたします、アニエス、お嬢様……」
「え、ええこちらこそ、よろしくお願いいたします。ベルナールさ」
「おい、使用人に様付けは禁止だ」
「!」
「一回、呼び捨てで呼んでみろ」
「!」
アニエスはベルナールを呼び捨てにするように言われ、涙目になる。
皆の前で言えなくて、カルヴィンより二人で練習をしておくようにと言われてしまった。
「――どうなるんだ、これ?」
まさかの事態に、ベルナールはついぼやいてしまった。




