第五十八話 旅の始まり
その後、ベルナールはアニエスの真心こもった献身的な看護に、一人のたうち回っていた。
気の毒にも、地獄の時間は日に三度、訪れる。
「ベルナール様、按摩のお時間です」
「いい、按摩はもういい!」
「お辛いのは分かりますが――」
「辛くない!! 辛くないから勘弁してくれ!!」
心からの叫びであったが、アニエスには周囲に心配をかけまいと、気丈にふるまっているように見えたのだ。
眦に涙を浮かべ、ベルナールの手をそっと握る。
「ベルナール様、一緒に頑張りましょう」
「もう、頑張りたくない、のに……」
「大丈夫です、必ず良くなりますから」
ベルナールは「良くなったら困るんだよ……」という怪我にまったく関係のない感想を、口から出る寸前で呑み込んだ。
一通り按摩が終了すれば、ベルナールの額には大粒の汗が浮かんでいた。
それを、アニエスがタオルで優しく拭う。
「ではまた、夜に」
「夜はしてくれなくても、いい……」
「継続することが、大切なのです」
ベルナールは涙目で、「だったら、せめて寝間着で来るのは止めてくれ」と懇願したのだった。
医師の言った安静期間の五日が過ぎれば、母方の祖父の拠点地となっている港町へと移動することになる。
その日を迎える前に、ベルナールとアニエスは、話し合ってあることを決める。
それは、アニエスの母の財産のことを、祖父カルヴィンに相談することだった。
出発前、祖父に相談があると言って、時間を作ってもらう。
神妙な表情を浮かべる孫と、その婚約者を見たカルヴィンは一体どうしたのかと率直に訊ねた。
「実は、相談がありまして……」
アニエスが誘拐された理由、母親の財産とその場所を示すペンダント、騎士団内部の人間の暗躍など、ベルナールは祖父に包み隠さずにすべてを語った。
「なるほど、な……」
問題は若い二人が抱えきれる大きさではなくなっていたのだ。
これを受け止めきれる人間など、大商人であるカルヴィンくらいしかいないだろうと、ベルナールは思っている。
「確かに、これは口外すべき話ではない。たとえ、オセアンヌ――お前の母であろうとも」
「それは、はい。そのように思っていました」
アニエスはペンダントを机の上に出し、処分をすることを考えている旨を伝えた。
カルヴィンもそれがいいと勧める。
「これはまた、世代を超えての争いの種になるのかもしれん。一刻も早く、処分すべきだ。母親の形見を手放すというのは、心苦しいことかもしれないが」
「――すでに気持ちの整理はついております。母との思い出は、心の中にいつまでも残っておりますので。今回の決定は、わたくしの強い願いでもありました。力を持たない者には、手に余る品なのです」
その言葉を聞いたカルヴィンは目を見張る。
孫の婚約者のことを状況に流されるがままの大人しい娘かと思っていたが、それは見当違いであったと気付く。
アニエス・レーヴェルジュは揺るがない信念を持つ、一本筋の通った女性であった。
「して、これをどうする?」
「海に捨てようかと」
「それがいい。きっちりと重石をつけて、海の奥底に沈むようにしておけ」
「分かりました」
カルヴィンはベルナールとアニエスに、今まで大変だったなと言って労いの言葉をかけた。
問題はもうすぐ解決するだろうとも話す。
「お祖父様、それは――?」
「バルテレモン侯爵から依頼があり、うちの商会の探偵を数人調査に当たらせている。騎士だけでは調べものにも限界があるらしいからな」
事態は好転へと動いている。なので、心配は要らない、大船に乗った気持ちでいるようにと言い含められた。
「そういうわけなので、明日からの旅は息抜きだと思って楽しめ」
「ありがとうございます」
ベルナールとアニエスは、カルヴィンに深々と頭を下げた。
◇◇◇
翌日、一行は夜明けと共に森の中の屋敷を出発した。
使用人一家も連れて、家の中を完全に無人にする。調査のため、カルヴィンの手の者達が森の中に潜伏しているが、それらは数に含まない。
馬車にはベルナールにアニエス、カルヴィンにオセアンヌ、お世話係としてジジル、護衛としてエリック、アレンが乗っていた。ドミニクは手綱を握っている。
車内は沈黙の中に包まれていた。
静寂な森の中に走る中では例え車中と言えども一言でも喋れば、騎士団の誰かに見つかってしまうような不安な感覚に陥ってってしまうのだ。
太陽が地平線より顔を出し、周囲が明るくなれば、皆の緊張感もしだいに薄らいていく。
オセアンヌは、さっそく予定を仕切りだす。
「ベルナール、街に着いたら、身の周りの物を一式揃えましょう。あなたの衣装部屋を見て、あまりの服の少なさに卒倒するかと思いました」
「……そうですね」
これから大変な買い物に付き合わされることになりそうで、ベルナールは明後日の方向を見て、目を細めていた。
アニエスは同情の視線を向けていたが、彼女にも調査の魔の手は伸びていたのだ。
「アニエスさん、あなたもですよ」
「わ、わたくしも、ですか?」
「ええ、ジジルの案内で、あなたのお部屋を見せて貰いましたが、私服があれだけとは」
「そ、その、たくさん、買って頂いたのですが」
「ぜんぜん足りません!」
ドレスにワンピース、帽子、靴、鞄など、所有する数の三倍以上必要だと指摘していた。
「せっかくの機会ですので、花嫁衣装の布地も選びましょう。良いお店を知っていますの」
「あの、それは――」
結婚式の話題に、アニエスはハッとして隣に座るベルナールの顔を見上げた。
不安げな表情をする彼女を安心させるように、淡く微笑みながらベルナールは言う。
「いい機会だ。じっくり選ぶといい。花嫁衣装を着るなんて、一生に一度だから」
「ベルナール様……!」
アニエスの瞳が涙で潤む。
もう演技はしなくていいと暗に伝えたつもりだったが思いの外胸に響いたようで、ポロポロと泣き出してしまった。
ベルナールは盛大に焦っていた。
まさか、こんなにも演技のことを気にしていたとは思ってもいなかったのだ。
家族の視線が突き刺さる。
いつか、アニエスを引き取ることになった事情を話さなければと思っていたが、それが今だとは想定もしていなかった。
ここで説明をしようと腹を括ったその時、オセアンヌが席を立ってアニエスを抱き締めにやってくる。
「アニエスさん、可哀想に……ずっと不安でしたのね」
オセアンヌはアニエスをぎゅっと胸に寄せ、背中を優しく撫でる。
「あなたは、うちの娘ですわ。安心して、身を任せて」
今回の事件で婚約が解消されるのではないか――アニエスがそんな不安を抱えていたのだろうとオセアンヌは思い、一生懸命励ましていた。
二人の様子を見ながら、ベルナールはどうしようかと悩む。
今、使用人として引き取ったことを言えば、感情が昂った母親に激しく糾弾されそうで、恐ろしく思った。
真実を話すのは、もう少し先にさせてもらおうと、ベルナールは心の中で決定を下していた。
馬車は王都に近い港町へと到着する。
アニエスは海を初めて見ると、目を輝かせていた。
その姿を眺めながら、元気を取り戻して良かったとベルナールは思う。
母親が励ましてくれたおかげだと、心から感謝をすることになった。
空を見上げれば、気持ちの良い晴天が広がっていた。
海も凪いでいる。
絶好の旅日和であった。
これから船での移動が始まるにあたり、隣に立つ祖父に質問をした。
「お祖父様、どれくらい船に乗るのでしょうか?」
「移動は船で二日だ」
街までは大きな客船を使うとカルヴィンは言っていた。
「ほら、あそこに停まっている船だ」
「へえ……」
豪華客船シルヴィンク号。
貴族向けに造られた物で、贅が尽くされた一隻となっている。
「船内には劇場にアクアリウム、酒場、レストラン、アートギャラリー、国営カジノ、免税店など、さまざまな施設がある。暇を持て余すこともないだろう」
ふと、母親の居る方を見やれば、オセアンヌは船のパンフレットを持つジジルに、どんな店が入っているかの確認をしていた。
さっそく船内で買い物をすることになりそうだと、ベルナールは切なくなる。
アニエスの笑顔も、若干引き攣っているように見えた。
二人は視線を合わせ、苦笑する。
楽しい船旅の始まりであった。




