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借り暮らしのご令嬢~没落令嬢、貧乏騎士のメイドになります~  作者: 江本マシメサ


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第五十七話 残酷な大天使

 遡ること一週間前、ベルナールは大変な危機に瀕していた。

 風呂に入り、すっきりした状態で寝台に横たわり、うとうとしていると、誰かが部屋にやって来る。

 夕食は済ませたし、寝酒も要らないと言っておいた。いったい誰がと、薄目を開ける。


「ベルナール様……」

「うわ!」


 枕元に立っていたのは、角灯を持った寝間着姿のアニエスだった。

 薄い絹のドレスで、首元から足首まですっぽりと覆われている。露出は一切なかったが、体の線に沿った意匠で艶めかしく、ついつい視線は胸元や細い腰にいってしまう。

 角灯が照らす薄明りが、余計にそういう風に見せているのかもしれないと思う。


 アニエスは現在、ベルナールの母親と寝所を共にしていると聞いていた。いったい、何をしに来たのかと、上擦った声で問いかける。


「お、お前、いきなり、なん」

「お薬をお持ちしました」

「薬……?」

「はい」


 アニエスが就寝後の寝室にやって来た理由とは、盛大に動揺したのが恥ずかしくなるくらいの、なんてことのないものであった。

 それと同時に、他人の接近に気付かないまま寝ようとしていたことも、地味に落ち込む要因となる。改めて、修業が必要だと考えていた。


散剤こなぐすりは平気ですか?」

「ガキじゃないんだから」


 そう言いながら薬包紙に包まれた薬を受け取り、口に含んで水を飲む。

 苦い味が口の中に広がり、思わず顔を顰めてしまった。


「はい、では、どうぞ」

「は?」


 続けてアニエスが何かを差し出してくる。それは、匙一杯の蜂蜜であった。しかも、口元へと近づけている。


「な、なんだ!?」

「お口直しと、夕刻より声が枯れているように感じましたので。蜂蜜は、喉にいいと聞きました」

「……そうかい」


 匙を寄こすようにと言いかけた瞬間に、口の中に甘い味が広がる。仕事が早いアニエスは、さっさと口の中に匙を運んでいた。


「飴のように、ゆっくり舐めて下さいね」


 ベルナールの激しい動揺をよそに、アニエスは淡々とした様子で看護を続けていた。

 薬が載った盆の上を整えていたので、薬の時間は終わりと思いきや、ここからが本番だった。


「では、次にお薬の塗布を」

「と、塗布、だと?」


 アニエスはベルナールの刺し傷に軟膏を塗ると言う。


「いや、それはいい! 自分でする!」

「ですが、用量や塗布方法など、お医者様からご教示賜りましたので」

「そういえば聞いていたな!」


 妙に熱心に聞いていたことを、その時のベルナールはなんの疑問も抱いていなかったのだ。


「では、下履きを――」

「脱がん!」

「では、捲りますか?」

「こ、断る!」

「大丈夫ですよ、沁みるお薬ではないと、先生もおっしゃっていましたから」

「そういうことじゃない!」


 昼間の診察の時はアニエスが居たにもかかわらず、何も思わずにズボンを脱いだ。

 だが今は、それを激しく拒絶していた。

 夜の薄明りの中であっても、脚をさらすのは酷く恥ずかしいような気がしたのだ。


「ベルナール様、お願いいたします。どうか、わたくしにお任せください」


 アニエスは床に膝を突き、乞うように願った。

 眉尻を下げ、憂いに満ちた表情でベルナールを見上げている。

 こういう行為をされてしまえば、断れるわけもない。

 結局、軟膏の塗布を頼むことになった。

 半ば、なげやりな様子で寝間着の下を脱ぎ、足を放り出す。


「では、少しひやりとすると思いますが」


 アニエスは指先で薬を掬い、ベルナールの負傷した左の脚に近づく。

 傷口に触れようとしたその時、手首を握って行動を制した。


「ち、ちょっと待て!」

「はい?」

「はい、じゃねえ!」


 アニエスが必要以上に接近していたので、ベルナールは焦っていた。そして今になって気付く。彼女が眼鏡をかけていないことに。


「おい、眼鏡はどうした?」

「お部屋に置いてきてしまいました」

「~~~~!」


 一度アニエスの肩を押して元の位置に戻す。耐えきれない状況から思わず額を押さえた。


「申し訳ありません、すぐ済みますので、どうか、そのままの状態で」

「……」


 ベルナールが大人しくなったので、アニエスは軟膏の塗布を再開させる。


「ヒリヒリしたり、痛かったりしたら言って下さい」

「……」


 アニエスは細く柔らかな指の腹で、丁寧に軟膏の塗布を始めていた。

 ベルナールは、彼女の父親の顔を思い出しながら、この場を耐える。

 腿に指先が這う感覚はなんとも言えない。

 だが、それ以上に気になることと言えば、怪我をしていない右の脚に感じる柔らかな感触だった。


 身を屈め、軟膏を塗布するアニエスの胸が、思いっきり脚に押しつけられていた。


 必死に、アニエスの父シェラードの激し過ぎる追及を記憶の中から蘇らせ、この場を耐え忍んでいた。


 塗布を終えたアニエスは、満足げな顔でふうと息を吐く。


「これで終わりです。あとは、ゆっくりと休んでくださいね」


 おやすみなさいと言って、アニエスは寝室から出て行く。

 一人になったベルナールは、「このまま眠れるかよ」と吐き捨てるような独り言を呟いてしまった。


 一週間後。

 ついに、医者から傷口の完治が言い渡される。もう、軟膏の塗布も必要ないとも。


「ですがまだ、激しい運動は厳禁ですぞ」

「激しい運動……」


 思わず、医師の言葉を復唱するベルナール。

 穏やかではない治療の時を振り返れば、白目を剥いてしまいそうになった。

 一日三回と、軟膏を塗る頻度も高かったのだ。

 一週間、アニエスの手厚すぎる看護を必死になって耐えた。結果、刺し傷は早々に完治したのだ。診察を見守るアニエスも、嬉しそうにしている。


 怪我の完治という達成感に満たされたベルナールは、心からのお礼を言った。


「先生、今までありがとうございました」

「ええ、どうかお大事に」


 アニエスは深々と頭を下げ、医師を見送る。

 これで、ゆっくりと眠れる――そう思っていたのに、想定外の出来事が起こったのだ。


 夜、またしてもアニエスがベルナールの寝室にやって来た。

 もう慣れたもので、堂々と迎える。


「どうした?」


 その問いかけに対する答えは、ベルナールを絶望の淵へと突き落とすものであった。


「脚の按摩を先生に教示いただきました。これを行えば、具合もよろしくなるかと」

「はあ、按摩だと!?」


 蒸しタオルで温め、脚を揉み解せば、快方に向かうと医師が教えてくれたとアニエスは話す。


「短期で治ることは難しいかもしれませんが、継続して行えば――」

「しかも、今度は長期治療!?」


 期間の長さに、さらなる絶望を覚える。

 ベルナールは、わなわなと震え、ついに涙目になった。


「ベルナール様、心配はいりません。わたくしが、お付き合いしますので」

「うっ……」


 あまりに辛い所業に、思わず嗚咽を漏らした。

 神は残酷な使いを寄こしてくれたと、目頭を熱くする。

 そんなベルナールにアニエスは、慈愛に満ちた言葉をかけた。


「何か、わたくしに出来ることがあれば、なんなりと申して下さ――」

「うわああああ!」


 ベルナールはアニエスの体を引き寄せると、そのまま寝台に転がして上に覆い被さった。

 下腹を撫でながら、白い首筋に唇を寄せる。


 指先が胸部に触れる前に、ぴたりと行動を止めたが、アニエスは声をあげることもなく、じっとしていた。


 薄明りの中、目が合う二人。

 アニエスは、静かに瞼を閉じる。


「――だ、だからお前、ちょっとは抵抗しろよおおおお!」


 ベルナールは叫び、アニエスの上から退いて壁際に転がって行く。


 ――悪魔だ、悪魔が居る!!


 ずっと、天使のような娘だと思っていたが、今日ばかりは彼女がとんでもない悪魔に見えた。


 激しい運動は厳禁、激しい運動は厳禁と、医師から言われた言葉を呪いのように繰り返しながら、必死になってこの状況に耐えていた。


「あの、ベルナール様、按摩は?」

「こ、こんな状況になって尚、まだ治療を行うと言うのか!?」


 揉むより揉ませろという本心は、口から出る前に呑み込んだ。


「その、すぐに終わりますので」

「~~~~!」


 ――こうして、ベルナールの新たな戦いが今、始まろうとしていた。


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