法王は悠然と微笑む
幼い頃の夢を見ていた。
あの日…まだ子供だったボクはそこから逃げ出して…城下町を歩いていた。
そこで出会った可愛らしい少女。
元気で、可愛くて、本当は寂しがり屋。
『君が寂しくないようにボクが君と結婚してあげる‼︎』
『……ほんとう…⁉︎お兄ちゃん、大好きっ‼︎』
叶うはずがなかったのに…そんな約束までしてしまって。
(今頃になって…思い出すのは……まだ君に未練があるのかな……)
神が祀られたその教会で…神秘的な青年が目を覚ます。
白銀の髪に真紅の瞳…。
纏う服は穢れなき純白。
彼は何回か瞬きをすると…祀られている神像を見上げた。
彼は法王クラウス。
ジークフリートの国の法律を司るシャングリラ教会のトップだった。
シャングリラ教はジークフリートの国にのみにある教団だ。
勿論、公に認可されているし…オカルトチックなものではない、正式なものだ。
行政は国王ジークフリートを中心とした政府が。
立法は法王クラウスを中心とした教会が。
裁判は政府、教会の連携で行うことになっている。
つまり…国王と対応な立場であるのが法王なのだ。
「クラウス様」
一人の初老の牧師がクラウスの元に来る。視線をそちらに向けながら、クラウスは微笑みを浮かべた。
「いかがされましたか?」
穏やかな…見た目より落ち着いた声で彼は聞く。牧師は一通の手紙を渡した。
「国王ジークフリートより書簡が届いております」
「ありがとうございます」
クラウスはそれを開くと、内容を読む。そして薄く微笑んだ。
「成る程…国王が後日、参礼に参るそうです。準備をしなくてはなりませんね」
「そうですか…了解致しました」
牧師は一礼すると去って行く。
クラウスは再び、神像を見上げる。
「クリス、いますか?」
「…………ここに」
柱の影から存在感なく現れたのは、金髪碧眼の美しい人だった。長い髪をひとつ結びにし、正装をした人。
「久しぶりにジークフリートの元へ行きます。ついて来てくれますか?」
「了解致しました」
先程の書簡には二つ、用件が書いてあった。
一つは後日、参礼に来ること。
もう一つは…参礼前に事前に話をしておきたいから、王宮に〝来て欲しい〟ということ。
クラウスは法王という立場上、基本的に外に出ることが許されない身だ。
しかし……ジークフリートからの書簡を読んだからには行かなくてはならない。
クラウスの事情を知っている故にお忍びではあるが……外に出る〝建前〟をジークフリートはくれる。
少しでも外に出れることはクラウスに取って嬉しいことであるし、きっかけをくれるジークフリートには感謝をしてもし切れない。
しかし……それはそれである。
ジークフリートがしようとしていることは…法王としての見定めなくてはならない。
クラウスはそこから出る直前ーもう一度、神像を見つめる。
そして…今さっきの夢に想いを馳せる。
(…もしあのまま…あの子といれたら…ボクの運命も変わってたのかな……)
この身は神に捧げてしまった。
あの頃の約束は果たせない。
あの少女にも…もう会えないだろう。
それでも……確かにあれはー………。
彼は軽く微笑むと…クリスを連れて、王宮へと向かったー………。
*****
アンナは後宮で特にすることもなく、テーブルに突っ伏すようにして椅子に座り…ボーッとしていた。
窓の外では大雨がザァザァと降っている。
「……………」
アンナは静かにそれを見ていた。
ジークフリートはエミルが来た後から、何かの準備をしているらしく……昼夜問わず忙しそうにしている。
それでも、夜になると一日一度は顔を見せに来てくれるのだ。
前に無理をしなくていいと言ったが…ジークフリートは笑いながら…。
『いいんだよ。息抜きがてらだしな。それに…アンナを独りに出来ないもんな〜?』
ニタニタと笑いながら言われて、あの日のことを思い出す。確かに独りにするなと言ったが……。
(別にそういうつもりじゃないもの……)
側にいるようになって…ジークフリートがどれだけ頑張っているかが分かった。どれだけ忙しいのかも分かった。
だから無理をして欲しくないと思う反面…自分のことを考えてくれるのが嬉しいとも感じる。
出来ることなら…それを支えてあげたいとも思う。
「……………って…何思ってるの…私……」
アンナは溜息をつきながら、身体を起こす。
まだ…共にいるようになって一ヶ月弱程度だ。
それだけでこんな風に思ってしまうのが……どうしてか分からない。
『恋は盲目なんだよっ……‼︎』
「…………………」
唐突にエミルが言っていた言葉を思い出した。何故、急に思い出したか分からなくて軽く首を振る。
「あーあ……うじうじしてても仕方ないし…図書館に行こうっ……‼︎」
アンナは扉の方に向かって歩き出す。
後宮には図書館があった。ずっと昔の王妃が本が好きだったらしく…その名残らしい。
アンナは平民であれど、簡単な読み書き程度なら出来る。
最近は暇さえあれば図書館に行って本を読んでいた。
読むと言っても…国王達の子供達用の絵本だったが……。
後宮の奥深く…一番突き当たりの部屋の前でアンナは立ち止まった。
ギィィィィィ……。
べっ甲色の大扉を押し開けると、その大部屋一面に本が置かれていた。本を読めるように所々にイスが置かれていたり、ソファがあったりと…落ち着いた空間だ。
本の匂いと…埃の匂い。
停滞した時間を感じさせる空間。
アンナはここが後宮の中で一番好きな場所でもあった。
書蔵庫でもあるから、百万冊程あるらしい棚の中で……アンナは絵本が並ぶ棚に近づく。
いつもはここには誰もいないのだが…珍しく、先客がいた。
白銀の少し長めの髪。
俯いているから顔は見えないが…色素の薄い肌。
裾の長い外套を着ている彼は…はっきり言って…不審者だった。
「………っ…」
アンナは思いっきり「不審者ーっ‼︎」と叫びそうになるのを堪える。こういう時はジークフリートか近衛兵に話した方がいいと思い、ゆっくりと後退しようと足を運んで……。
「わっ⁉︎」
薄紫色のドレスの裾を踏んで、勢いよく転んでしまった。
彼はアンナの声と転んだ音に気づくと、ゆっくりとその真紅の瞳を向けた。
そして…その瞳が彼はアンナを見て見開かれる。
まるで信じられないと言うような顔で。
「………………アン…ナ…?」
「………………………ぇ…?」
アンナは名前を呼ばれて動揺した。
目の前の人は…初対面のはずだ。こんなに印象深い人と会っていたら…忘れるはずがない。
でも…目の前にいる人はアンナの名前を知っていて……。
(…………ぁ…でも、《悪女》として名を馳せてるんでした……)
アンナが苦笑しながら立ち上がり、ドレスを払うと…《悪女》らしく演じようとした瞬間ー。
「アンナっ‼︎」
「………っっっ⁉︎」
アンナは彼に思いっきり抱き締められていた。意味が分からなくて、アンナは目を白黒させる。
彼は嬉しそうに微笑みながら、アンナの頭を撫でた。
「アンナ…まさか……また会えるなんて…思いもしませんでした……」
「…えっ…と……」
「思い出したのは…神のお導きだったのですね……」
「………あの…」
アンナは恐る恐ると言った様子で首を傾げる。彼はそれを見て、「あぁ…覚えてませんか…」と少し悲しげに眉を下げた。
「昔…城下町で一緒に遊んだでしょう…?〝クー〟ですよ」
「…………〝クー〟……?」
アンナはそう言われて記憶を辿る。
まだとても幼かった頃…城下町で遊んだ綺麗なお兄ちゃんがいた。
真っ白な髪に真っ赤な瞳…雪ウサギみたいだと思って……。
そのお兄ちゃんの姿が…目の前の彼に重なる。
「もしかして……クーお兄ちゃん⁉︎」
「そうですよ、アンナ」
「嘘っ⁉︎本当にっ…⁉︎」
アンナは嬉しそうに笑う。
いつも一緒に遊んでくれた人だった。ある日、会えなくなって…それからずっと忘れてしまっていた。
こんなに印象深い人なら忘れないと思ってた直後に、だ。
アンナは嬉しそうにしていたが…反省気味で俯く。
「ごめんね…直ぐに思い出せなくて…」
「仕方ありませんよ、小さかったですから。今…思い出してくれただけで幸せです」
「………どうして…直ぐに私だって分かったの?」
「ふふっ……アンナはボクに取って〝特別〟ですから」
〝特別〟と言われたアンナはキョトンとする。
彼はとても綺麗な笑顔で微笑む。そして、恭しくアンナの手を取り…その甲に口づけをした。
「っっっ‼︎」
「改めまして…ボクはクラウスと言います。よろしくお願いしますね、アンナ」
そう言って笑うクラウスはとても嬉しそうで綺麗で……アンナは息を飲む。
「…………よろしく…」
恥ずかしそうに答えるアンナにクラウスは嬉しそうに微笑んだ。
そんな時ー……。
「こんなところにいたのですか、クラウス様」
凛とした中性的な声が響く。
ブーツの音を鳴らしながら現れたのは…綺麗な金髪碧眼の人だった。
(…………………えっ…?)
「あぁ……すみません、クリス」
クリスと呼ばれた人は「いえ」と短い返事を返す。
長い髪をひとつ結びにして、服装は男性物の洋装だが………。
「ごめんなさい、アンナ」
「…………え?」
クラウスのいきなりの謝罪でアンナの思考が途切れる。彼は自身の口に指を添えて、悪戯っ子みたいに笑う。
「本来ならばボクここにいてはいけないんです」
「……どういうこと……?」
「詳しくは時間がないのでまた後で。取り敢えず…ボクがここにいたことは内緒にして下さい」
「えっ……」
「大丈夫…また会えますから。その時に沢山話しましょう?」
そう言って笑うクラウスにアンナは息を飲む。
笑う顔は天使のようなのに……一瞬だけ、背筋がヒヤリとした。
「…………………君がここにいると分かったから……ボクは君を連れて行ける」
「…………………連れて行ける…?」
クラウスは嬉しそうに微笑む。
アンナは震えそうになる手を爪が食い込みそうになるまで握り締めた。
彼はそんなアンナの手を見て…まるで愛しむように優しく、開いてやる。
その仕草にアンナはドキッとしながらも…何とも言えない恐怖を感じて……。
クラウスは静かに耳元に口を近づける。
「アンナ、今度は君を迎えに来ます」
「…っ…………‼︎」
クラウスはそう囁くと、もう一度ニコッと微笑んで図書館から立ち去る。
立ち尽くしていたクリスは、悲しそうに俯くと何も言わずに頭を下げてクラウスの後を追う。
残されたアンナは困惑して…その場にへたり込む。
「………………何なの……」
アンナの呟きは静かに反響する。
幼い頃と変わらないはずだ。だが…アンナの心に残る言い得難い恐怖感。
そして…あのクリスという人の悲しそうな顔。
アンナは震える身体をギュッと抱き締める。
どうしようもなく……今すぐ、ジークフリートに会いたいと思ったー……。
*****
ジークフリートは目の前のソファに座るクラウスを見ていた。
客間にはジークフリートとクラウスの二人だけだった。クラウスの従者クリスは廊下で待機していた。
……いつにも増して機嫌が良いクラウスは、ジークフリートに取って不気味でしかない。
「………クラウス」
「何ですか…?」
「………何があった…?」
「……別に何もありませんよ」
そう言っているが…絶対に何かあったのだろう。クラウスの笑みが深くなる。
ジークフリートは自分が喰えない質であることは自覚している。
しかし、目の前の男はそれ以上でもあると…思っていた。クラウスの思考は……ジークフリートでも読み取ることが出来ない。
ジークフリートとクラウス。
立場は似ていれど…〝背負っているもの〟と〝器〟は違うのだ。
底知れない〝器〟を持つクラウスは……ジークフリートでさえ時々、怖く感じる。
故にクラウスが…この〝計画〟に置いても一番のネックでもあった。
ジークフリートは珍しく緊張した面持ちで目の前の喰えない男を見つめる。
「さぁ、始めましょうか?ジークフリート」
「始めよう……クラウス。この国のために」
そうして…隣国との交渉の下準備……国王と法王の交渉は始まるのだったー……。
物語は……アンナを中心に……徐々に動き出すのだー………。