第97話 壁越しの恐怖
あぁ、やばい、やってしまった。
ユーミスはそう思いながら、試合開始の合図を聞いていた。
当たり前の話だが、ユーミスにイリスやルルに対する本気の恨みなど存在しない。
復讐、というのもあくまでちょっと一泡吹かせてやりたいとか、ちょっと驚かせてやりたいとか、その程度のレベルの話であって、首を落としてやりたいというわけでは当然無かった。
けれど、自分たちの首を刈りたいのか、と聞かれて余裕ぶって頷いてしまったのは、イリスに決して手加減などして欲しくなかったからだ。
一度でいいから、本気の古代魔族というものと戦ってみたい。
古代魔族がその実力を存分に発揮したとき、一体どれほどの力を見せてくれるのか、ユーミスには研究者として深い興味があった。
出来ることなら、ルルにも一度、魔王として本気を披露してもらいたいと考えてはいるのだが、それを見せてもらったとき、一体どうなるのか全く想像がつかないため、そういう勇気は出なかった。
古代魔族の王、魔王と言えば、伝説で語られる破壊の権化であり、英雄が何人束になっても敵うことはなかったと言われる正直眉唾物なんじゃないのかと聞きたくなるような存在なのだ。
かつて勇者が仲間たちと数人で袋叩きにして倒したと一応伝わっているのだが、それでも負けそうだったと言うのだからすさまじい。
そのときの仲間たちがどんなメンバーだったかは諸説あって定まらないが、いずれ劣らぬ強者だったという点については疑いを入れない。
しかしそんな強者が挑んでもぎりぎり、というのだからその本気というのは、勇者たちが特級クラスだったと仮定しても、一撃で街一つくらいは滅ぼせる実力だったと考えるべきだろう。
そんな存在に、おいそれと本気を出してくれ、とはとてもではないが言えないと言うわけだ。
しかしイリスは別だ。
彼女は確かに古代魔族ではあるが、彼女自身が言うにはその実力はせいぜい一兵卒より少し上、一隊を束ねるくらいが関の山、というべき程度でしかなかったとのことであるので、仮に本気になったとしても、古代魔族の魔術構成や理論について学んだ今なら、対抗できないこともないのではないかとユーミスは思ったのだ。
いかに古代魔族が種族として魔術に非常に長けていたとしても、結局は人族に敗北を喫し、歴史の波間に消えていった者たちなのだ。
つまり、その持つ力は、かつての人族でも対抗可能なそれだったと考えるべきで、そうであるなら現在の人族にも何とか出来るものではないかと考えるのもおかしな話ではない。
そして、ユーミスは古族なのだ。
人族よりも遙かに大きな魔力を生まれながらに持ち、魔術に長け、寿命も長い種族である古族。
種族の間に存在の格の上下は無いにしても、歴然とした能力的差異というものはある。
古族は、人族に比べ、魔術についてその深みに至れる可能性がかなり高い存在なのだ。
多く魔力を持っていれば、また長く生きることが出来れば、魔術について深く知り、また多く行使できることは当然の理だ。
だからこそ、現在において古族は人族より多くの優れた魔術師を輩出している。
もちろん、人族には人族の優位性があって、それは繁殖力の高さと、どんな場所にも適応して生きていける適応性などになるだろう。
ただ、それは必ずしも魔術についての優位性にはつながらなかった、というわけだ。
しかし、そんなユーミスをして、その考えは間違いだったのではないかと思ってしまうような魔力の高まりを目の前の存在に感じていた。
古族である自分よりも強く大きな魔力を宿らせたイリス。
見たこともない、粘着質の深い魔力がその体から迸っていた。
それを見た瞬間に、ユーミスは試合開始直後に彼女が襲いかかってくるだろうことを悟り、魔力を操り、開始の合図と同時に結界を張れるように準備していた。
ルルとイリスに学んだ魔術理論と構成法により、ほとんど無詠唱に近い形での魔術の発動も今やユーミスは可能にしている。
完全な無詠唱はやはり、今までずっと詠唱魔術でやってきたからかどうにも身につけるのに苦労していて、実践で確実に使えるというレベルまでは至っていないが、大体10回挑戦すれば5回くらいは成功するくらいにはなってきている。
難しい魔術になるとその成功率は徐々に下がっていくのだが、それでも無詠唱など使うことも出来なかった時代と比べればずっと進歩していると言えるだろう。
ただ、イリスが試合開始直後に攻撃してくるだろうとは予測していたが、それに対して無詠唱を使うのは賭に過ぎるので、確実に発動することが分かっている今までより詠唱の単語数を減少させた短縮詠唱を、高速詠唱でもって唱えてコンマ一秒と言っても良い程度の短時間でユーミスは自らの周りに結界を完成させた。
これだけでも、今までの自分と比べて大幅な進歩であり、それをこの緊張感の中で完成させた自分に少し誇りを感じる。
けれども、そんな気分に浸っていられるほどの時間をイリスは与えてくれるつもりはないようだった。
ユーミスが結界を完成させた直後、巨大な衝撃が結界にたたき込まれたのをユーミスは感じた。
それが何なのか、すぐに分からないほど脳天気ではない。
イリスがその拳をたたき込んだのだ。
目の前を見れば、そこには目を真っ赤に染めたイリスが立っていて、右拳をユーミスの結界にくっつけているのが見えた。
そこから罅が入るのではないかと戦々恐々になるユーミス。
けれど、そう簡単に破られるような構成の仕方も魔力の込め方もしていないつもりであり、イリスがたとえ本気であろうと、ある程度なら耐えられるはずだと信じている。
実際、かつてカディス村で何度かした組み手の中においては、イリスの攻撃を何度か自分の結界は耐えたことがあるのだ。
ただ、そのときのイリスは今ほど怒っていなかったし、あれが本来の実力の何割くらいだったのかは推測するしかないのだが……。
願わくば、どうにか自分の魔術が完成するまで耐えてくれと思いながら、ユーミスは次の魔術の詠唱を開始した。
それは、無詠唱でも、また短縮詠唱でも発動する自信のない高位魔術である。
つまり、結界はそれが完成するまでの間の盾として形成したものなのだった。
ユーミスが呪文を唱えている間中、ずっと結界が軋む音が聞こえる。
けれど、ユーミスは集中を崩さなかった。
イリスは、ここまで一切武器を使っていない。
それこそが、彼女が本気である証であることをユーミスは知っていた。
かつて、古代魔族がこの地上に溢れていた時代ならともかく、現代の武器を使うくらいなら素手で戦った方が、実のところイリスは強い。
その体が、古代魔族のものであるためである。
人族より遙かに多くの魔力を通し、強化も容易なその体は、ある程度の魔力を注げばそれだけで通常の武器の強度を超えていく。
普段、彼女が武器を使うのは、それが人族としては不自然であるからだ。
素手で易々と魔力の通った武器を破壊していくなど、特級にも容易に出来ることではない。
隔絶した実力差があれば別だが、そうでない場合はふつう、出来ないものだ。
けれど、イリスはそれを可能とする。
それが、古代魔族としての彼女の力の一つだった。
ユーミスは、これまでの人生の中で、種族差というものについて深く考えたことがなかった。
それは、人族と古族という二種族を比べたとき、戦いにおいては古族の優位性を強調されることはあっても、その反対はなかったからだろう。
強大な魔力と、古族のみが学ぶ強力な魔術理論を行使することによって、人族の冒険者たちから「化け物」とか「生き物としての格が違う」とか言われたことはあっても、それはただの羨望であり、彼らに努力が足りないだけではないか、と思ったことも少なくない。
絶望的な表情で自分を見つめられると、自分と彼らで、そこまでの違いは無いというのに、どうしてそんな風に見るのだろうと、幾度と無く思ってきた。
それは今にして思えば、ユーミスがよく分かっていなかったからなのだろう。
種族差、というものがどういうものなのか。
生まれつき、備わっているものが違っているということが理解できたとき、どういう感情を人が持つのかということが。
しかし、今こそ、ユーミスにはそれが深く理解できた。
目の前に広がる光景を見れば、それがはっきりと分かる。
ユーミスの結界に幾度と無く、またあらゆる方向からたたき込まれる恐るべき打撃が及ぼしたステージに対する被害を見れば、人族が古族である自分にどんな感情を抱いていたのかがやっと理解できた。
今、ステージはユーミスの立っている場所から1メートル前後を除いて、全てがイリスの打撃により粉々に破壊されている。
それを実現したのが、イリスの拳による攻撃でしかないと言うのだから恐ろしい。
人族の武道家でも、これほどの被害をこの短時間で、丈夫に作られているはずの闘技場ステージに及ぼすことは叶わないだろう。
時間にして、ほんの数十秒。
一分も経っていないというのにこの有様である。
馬鹿げている。
人に可能なことではないと、叫びたくなるような状態だ。
しかもそれだけのことをしておきながら、イリスは未だ涼しげな顔をしているのである。
拳も当然無傷で、冷たい目でユーミスの瞳だけを見つめていた。
観客たちはそんなイリスを絶句して見つめている。
それも当然のことかもしれない。
彼女がここまでその身に宿る身体能力を使ったのは初めてのことだからだ。
少なくとも、これほどまでの大破壊をこの闘技場内において彼女は見せなかった。
それは、ステージを破壊すればその復旧に時間がかかることを考えての遠慮だったのかもしれないが、今において、そんな遠慮は彼女の中には全く存在していないようである。
ユーミスを打ち取れるならいくらでもその力をぶつけて見せようと言う気迫がその体からは立ち上っており、そろそろ結界も限界に達してきていることはユーミスにも理解できていた。
詠唱もそろそろ完成する。
あと数秒……そう思ったそのとき、ユーミスの目の前の結界に僅かに罅が入ったのが見えた。
「……!?」
ここで壊れるか、もう少し持ってくれ、どうにか詠唱が完成するまで……!
そう唇を噛みながら願ったユーミスだったが、見逃してくれるような甘い性格をイリスはしていない。
これがルルだったら少しくらい待ってくれていた可能性もあるのだが……。
いや、それは詮無い考えだ。
ルルの場合の余裕は、なにをされても自分が勝つという確信にしたがって、相手の行動を大目に見ている節がある。
彼がもし本当に勝てないと思ったら、もしかしたらそれこそイリスよりも冷酷に戦うかもしれない。
ルルが余裕ぶっているということは、もはや彼の中で自らの勝利が確定しているということなのだ。
それを考えれば、イリスが相手で自分は幸運だったのかもしれないとユーミスは思った。
そんなルルに比べれば、まだ、幾ばくかの勝機がそこにあるような気がしたからだ。
確かに今、自分の結界は破られそうではあるが、それでもイリスの攻撃を一分に満たない時間でも耐え、そして自分に詠唱の時間を確保させてくれたのだから。
これがルル相手なら……一撃で結界を破られるか、それとも結界など張らずともバカ正直に待っていてくれたかのどちらかだろう。
だから、きっとまだ何とかなる。
ユーミスはそう思った。
けれど、次の瞬間、イリスが地を蹴って、思い切りユーミスの結界を叩いたそのとき、自分が少し油断していたことをユーミスは理解した。
イリスの拳が結界に触れると同時に、ぱりん、と音がしてユーミスの結界の一部が割れて崩れたのだ。
そこから拳が付き込まれて、ユーミスに襲いかかってくる。
このままではまずい、と考えたユーミスは、今唱えている魔術と平行して無詠唱で別の魔術を発動させ、イリスのその拳に一撃くらいなら耐えられるだろうと思われる程度の小さな盾状の結界を自分の目の前に張った。
ギリギリの行動だったし、賭に近い無詠唱だったので大丈夫かどうか不安だったが、それを確認している暇はユーミスにはない。
とにかく詠唱を完成させ、そして最後に一語を唱えると同時に、ユーミスは魔力を解き放った。