第73話 奇妙な結末
「魔術……か?」
ルルはキキョウとヒメロスの最後の一合になると思われるその一瞬を、知覚能力を極限まで高めて絶対に見逃すまいと言う気概でもって見守っていた。
だから、ヒメロスの突然の加速と、それに対応して高速詠唱を始めたらしいキキョウの様子もしっかりと見ることができた。
むしろ、そうでなければルルとて、その一瞬を見逃していたかもしれない。
そう言える程度には、二人の攻防は人族の限界に近づいていると言えた。
かつて戦った勇者たち、彼女たちと比べればまだまだだとは言えるが――
そもそも、そんなものと比べること自体が可哀想だろう。
あれは人族の限界がどうとか言ったレベルではなかったのだから。
様々な種族から最高峰の人材を選び抜いたとしても、何らかの偶然が大きく作用しない限りは、ああいう者たちは出現することは無い。
歴史上、最強と言ってもいい程度の力を持っていた、とルルは思っている。
ルルもルルで、そんなものと拮抗する戦いを演じたという事がそもそもおかしく、個人としてはおそらく歴史上、誰の追随も許さない存在であるという事になるのだが、そんなことは意識してはいなかった。
ともかく、そんなルルの目から見ても、ヒメロスとキキョウの戦いは見ごたえがあった。
予選からしばらく、現代の武術家、魔術師の実力というものに多少の落胆を感じていたので、シュイや、ウヴェズド、それにヒメロスやキキョウと言った者が見れたことに強い興奮を感じるのだ。
果たしてこれからどうなるのだろうか。
そう思った瞬間、突然加速していたヒメロスの動きが鈍くなる。
ルルが驚いたのはもちろんだったが、観客も瞬間的に姿を消したはずのヒメロスの姿が見えるようになったことに驚いた。
しかし何よりも驚いたのは、ヒメロス自身だったようだ。
その顔は驚愕の色に染まっていて、しかも突然、自らの意思によらずに加速から解放されてしまったからか、体のバランスを大きく崩す。
対してその対面にいる少女――キキョウは全く驚いていないようだ。
むしろ、その現象を予測していたように動きはじめている。
ただ、その速度はそれほど早くはなかった。
先ほどまでの高速機動が嘘だったかのように鈍いと言っていい。
つまり、ヒメロスもキキョウもその速度に差はなくなっているということだ。
けれど、その場で何が起こっているのかを把握できているかどうかの差は大きかった。
キキョウははっきりと理解しているようだが、ヒメロスはその把握に少しばかり時間をかけてしまった。
◇◆◇◆◇
ヒメロスにとって、その時までの時間は長く感じられた。
いや、実際に長かったのだ。
いつもなら、魔力を通したその身体能力を十全に扱い、そして刹那と言っていい短い時間で敵を倒す。
倒されるときも、同じだけの技量を持っている存在が相手であることが普通であるから、そんなに長い時間、自分が敗北する瞬間というのを味わうことは今までになかった。
けれど、この日は違っていた。
自分が放った細剣の突きが突然スローモーションになり、そしてそれを正しくその黒い瞳に捉えている相手――キキョウが、体を半身にしてゆっくりと避けた。
ヒメロスはそのことを知覚し、細剣を即座に引き戻そうとするも、体が思うとおりに動かない。
ならばともっと僅かに細剣の軌道を変えようと、斬撃への変更を試みるも、それもできない。
なぜか。
いつもならできるはずのことが、その瞬間のヒメロスにはできなかった。
こんなことはおかしい。
確かに、自分の頭の中ではしっかりとすべきことが浮かんでいるのに、ただ体だけがその指令を受け取らずに、まるで鈍重な重りでもつけられているかのように僅かにしか動いてはくれないのだ。
これは、鍛錬を怠ったが故だろうか。
いや、自分は闘技大会を前にして、できる限りのことはやってきたはずだ。
少なくとも、鍛錬を怠ったなどということはなかった。
そう、ここ数日間の自分を思い出しながら確信を新たにするも、ならばなぜ、という疑問が次にやってくる。
鍛錬をまじめにやっていたなら、思考に体がこれほどまでについていかないことなどありえるはずがないのだ。
それなのにそのあり得るはずのないことが、今自分の身に起こっている。
これに対してお前はどう答えようと言うのか、ヒメロス。
そんな問いがぐるぐると頭の中を走った。
けれど、いくら考えても答えは出ない。
何も。何もだ。
自分は何一つとして怠ったことはなかった。
何も原因が思いつかない。
そんなことを考えているうちに、キキョウの姿が徐々に迫ってくる。
ヒメロスの細剣を避けた彼女は、そのままの勢いでヒメロスの懐に踏み込んでくる。
決して速い動きではなかった。
十分にこなれている、熟練者の動きではあったが、少なくとも速度、という一点においては、身体強化のそれほどうまくない初級冒険者であっても出そうと思えば出せるのではないかと思ってしまうくらいには、ゆっくりとした動きだった。
実際、ヒメロスの目はその一部始終をしっかりと捉えていたし、何の問題もなく避けられそうに思える動きだったのだ。
けれど現実は決してヒメロスの思い通りにはならない。
見えているのに、次にキキョウがどうくるかも感じているのに、自分の体だけがその動きについていこうとしない。
常にキキョウより一歩で遅れて動き出す自分の体。
キキョウが懐に入り、とん、と軽くヒメロスの腹部に触れた瞬間に、ヒメロスは何が行われるのかを察知して、身を引こうとした。
けれど、キキョウの体が足下から回転を伝えていき、それを手元で最大化して掌底を加えたその瞬間まで、ヒメロスの体はぴくりとも動きはしなかった。
「……ぐふッ!」
自分の喉が、そんな情けない音を出しているのを聞きながら、目の前が暗くなっていくのを感じた。
綺麗に腹部に掌底を決められたのだ。
その力を一切どこにも流すこともできずに、もろに食らったとした表現できない。
当然、そうなるだろうと誰にでも言えるだろう。
そして、キキョウの頭に未だに乗っかっている子犬の姿が目に入り、
――あぁ、結局切り札一つ使わせることができなかったわけか。
無念にもそんなことを思いながら、ヒメロスの意識は遙か暗闇の底に沈んでいったのだった。
◇◆◇◆◇
「勝者、キキョウ選手!」
そんな声が闘技場に響いたとき、巻き起こった歓声は今までのそれと比べてかなり奇妙なものであったと言えるだろう。
なぜなら、今回の試合の決着の仕方が今までのそれとはかなり異なっておかしなものに見えたからだ。
観客達はキキョウを褒め称えつつも、一体なぜ彼女が勝ったのかがまるで理解できないような不思議な表情をその顔に張り付けている。
しかしそれもまた仕方のないことだ。
観客達から見えたのは、あまりにもあっけない幕切れだったのだから。
ヒメロスも、キキョウも、ここまで勝ち残った実力者とは思えないような、際だって遅い動きで最後は戦い、そして初級冒険者でももっとスピード感があるだろう、と言いたくなるような試合運びでヒメロスは負けた。
それまでは、確かに物凄い高速度の動きを見せて、それに見合う衝撃が闘技場を揺らしていたのに、最後には迫力も何もない、しょぼい掌底で試合は終わってしまった。
この試合を一体どのように評価したらいいものか、観客達には理解できなかったのだ。
けれど、実力者であればあるほど、この試合の恐ろしさにはっきりと気づいていた。
そんな実力者たちの一人が、氏族“時代の探究者”のグランだった。
彼は隣にいるユーミスに眉をしかめながらうめくように呟く。
「おい、あれ見たかよ……なんだあれ。気持ち悪いにも程がある……」
ユーミスもまた、グランの言っている意味が理解できたのだろう。
頷いて、けれど腑に落ちないような顔で言葉を返した。
「……見た限り、ヒメロスの……いえ、あの二人の身体強化魔術が解呪されたように見えたわ。それも、突然。……いえ、キキョウが直前に何かを唱えていたのは見えたけど……もしかしてあれが原因?」
ユーミスもまた、ルルと同じようにこの試合をよく観察するために、しっかりと集中していた。
ヒメロスが、彼女と仲のいい友人であり、その試合はちゃんと見ておきたい、という気持ちがあったからだ。
グランは元々目がいいからか、その瞬間をはっきりと捉えることが出来ていたようだ。
ユーミスの言葉に頷いて、自らの考察について語る。
「たぶん、そうなんだろうな。けれどどうやってだ。そんな魔術は、存在しないぞ。身体強化は――特に魔力循環による身体強化は、たとえ何らかの方法で解除されてもすぐに発動者が掛け直すことが出来るはずだ。それなのに、ヒメロスにはそんなそぶりさえ見えなかった……あれはつまり、出来なかったという事じゃないか。いつもなら、無意識にでも可能なはずのそれが、出来なかった。だから、パニックに陥った――そういうことじゃないか」
現代の魔術において、身体強化魔法の完全な解除は出来ないとされていることだった。
体外で発動している魔術――たとえば、火の玉の魔術を相殺する形で掻き消す、というのは当然可能だ。
体内にかけられている魔術でも、それに見合う方法によって解除することも出来る。
ただ、身体強化魔術を、その構成を完全に解いてしまうと言うのはどうやってもできない。
それは身体強化魔術が継続的にかけられている魔術だからで、一瞬解除することが出来たとしても、次の瞬間には元通りにすることができる魔術だからだ。
もしかしたら、ルルやイリスなら、可能かもしれない。
その古代魔族としての技術でもって、ユーミスの結界をすら支配してしまった魔術の達人であるのだから、身体強化魔術のような特殊な構成の魔術を継続的に解除する手段を持っていたとしても不思議ではない。
けれど、キキョウは少なくとも古代魔族ではないはずだ。
そうであれば、ルルとイリスには彼女が分かるはずだろうから。
とすると、人の身で古代魔族並みの魔術を身に着けているという事になってしまう。
それはありうるのだろうか。
数千年前に滅びたと言われている伝説の種族の技術を、彼女が受け継いでいる?
俄かには考え難い話だ。
そう思ったユーミスは、それについて考察するのは一旦諦めることにして、息を吐いて言った。
「……分からないわ。とにかく、あの子は要注意よ。場合によってはルルやイリスに匹敵するかもしれない……」
「あいつらに匹敵、か。……今回の大会はとんでもないな。キキョウも本選に出場したから少しはやるかとは思っていたが、すこしどころじゃなかったわけだ……」
額をぺしりと叩き、大きなため息をついたグラン。
けれど、その瞳には闘争心が燃えている。
思いのほか強い者が多いこの状況を楽しんでいるのだ。
それは、ユーミスも同じようで、微笑みながら言う。
「私達、それこそ決勝にも出れないかもしれないわね……トーナメント表、見たでしょ?」
少し変わったその話に、グランは頷いて答える。
「あぁ、見たぜ……俺は、準決勝でルルと、だ。お前は……」
「イリスと。正直誰よりも戦いたくない相手ね。別に情が、とかってわけじゃなくて、単純に、実力的に」
そう言って、二人で笑い合う。
この二人はルルとイリスとは何回かは戦っている。
もちろん、殺し合いを、という物騒な話ではなく、カディス村に行ったときにたまに軽く手合せすることがあったということだ。
ただ、そのときにお互いに本気でぶつかりあったことなどついぞなく、実際にどれだけルルとイリスが強いのか、と言うことは、未だに分かっていない。
ここまでの試合で、いくつか見せてくれた魔術や武術は村でも見た。
そして、それが彼らの底ではないことを経験から培われた勘でもって、二人は理解していた。
だからこそ、今回の大会が楽しみだった。
彼らの実力をどこまで引き出すことが出来るか、それが二人の目的であった。
もちろん、いざというときに生命線になるだろう技術まで披露してくれることを望んでいるわけではないし、そんなことは当然、他の冒険者達同様しないだろうが、とは言え、本気のひとかけらくらいは引き出させたいものだと、そう思っているのだ。
そのために、ルルとイリスの対戦表はある程度、特級冒険者の持つコネと権力でもって少し操作されており、結果として彼らは何度も強敵とぶつかり合うことになっている。
とは言え、グランとユーミスもその状況にあまり変わりはない。
特級冒険者があまり格下の冒険者とぶつからないように、運営の側である程度操作しているのである。
これは闘技大会を興業として少しでも面白くしようとした配慮であるが、もちろんあまりほめられたことではないので基本的には極秘だ。
ただ、ルルとイリスはかなり鋭いので、理解していて黙っているのかもしれないが。
そして、そんな操作を加えても、結局彼らの実力の一端すら明らかになっていないという事を、グランもユーミスも理解していた。
今まで見せてくれたのは、村で見せてくれていたそれと何も変わっていないからだ。
だから、思った。
やはり、彼らを本気にさせるのは、きっと自分たちしかいないだろうと。
そのために、出せるべきところをぎりぎりまで出し、努力しようと。
「全く……楽しみだな」
「ええ。本当に」
そう言って二人は笑い合う。
ただ、その笑顔の中には、獰猛な猛獣のような闘志が煮えるように滾っていることを、彼らは二人とも理解していた。