第67話 国王と騎士と聖女
闘技場のアリーナ最上部には特別観戦席がいくつか設けられている。
それは、各職能団体や大規模商会、それに貴族などに対して金銭でもって利用権が与えられる独立した部屋であり、特殊な技法で作られた透明なガラス窓の向こう側に闘技場ステージを望むことが出来る特等席であった。
そのうちの一つは、国営闘技場が出来た当初からずっと、王家専用のものとして使用され続けており、今までも、そしてこれからもその事実が変わることは無いだろう。
その部屋の入口の扉は他の特別観戦席のものよりも重厚で大きく、部屋自体も広く豪華に作られている。
またセキュリティの方も、可能な限り万全なように配慮されており、古族の絶対障壁ほどではないにしても、複雑に編み込まれた魔術の組み込まれた結界が何重にもわたって観戦席内部にいる王族の安全を保証している。
そんな部屋の扉の横には、当然、不審な人物が近づかぬように、また近づいた場合に有無を言わせず排除するために二人の近衛騎士が配置されており、辺りの様子を常に伺いながら門番としての役目を果たしていた。
わざわざこんな衆人環視の場で王族を襲う、などという者が存在するとは俄かには考えづらい。
しかし不埒者、というのはどんなところにも表れるものだということは数多の歴史が証明してきた事実であり、だからこそ、近衛騎士たちは油断するわけにはいかぬと目を光らせているのだ。
そんな彼らの目に、ふと一人の女性と、そのお供と思しき女性が、王族専用の特別観戦席へと続くエリアに足を踏み入れたのが見えた。
すわ王族を狙う不埒者がやってきたか、と緊張が走り、腰のものにいつでも手がかけられるように構えたが、だんだんとその二人が近づいてくるうち、誰なのかがはっきりして近衛騎士たちはあからさまな不審の目を解き、少し離れた位置に静止したその女性を出迎えた。
「……聖女殿、それにそのお付きの神官殿ですな。ようこそいらっしゃいました」
少しばかり緊張の宿った騎士の声が響いた。
聖女は騎士に対し、深く頭を下げ、それから言った。
「丁寧なお出迎え、痛み入ります……今回の訪問の理由について、述べさせていただいても?」
そんな聖女の言葉に近衛騎士は首を振って、
「いいえ、必要ございまぬ。陛下からは、貴女様がいらっしゃった場合、触れることなく通すようにと申しつけられておりますれば……」
国王陛下の警備が務めである近衛騎士たちにとって、その命令は出来ることならやめて頂きたいと思ってしまうような内容であったが、相手が相手であるだけにそうは言いにくい。
また、本来であれば必ず行うはずの身体検査も、聖女相手にはする必要がない、とまで言われている。
特別観覧席の内部にももちろん、近衛騎士が――と言うより、彼ら近衛騎士たちを率いる近衛騎士団長その人と、その副官が控えているため、安全の確保、という意味ではこんなところで自分たちが聖女の身を改めずとも問題は無いだろうとは理解しているのだが、それでも職務に忠実な二人としてはどことなく忌避感を感じてしまうのである。
そんな二人の表情を読んだのか、聖女は二人の顔をわずかに覗き見て、言った。
「それは……後にお二人が陛下からお叱りを受けるようなことはございませんか?」
それは気遣いであった。
聖女の二人に対する、のちに何かあったときに、近衛騎士二人の責任にされるようなことはないのか、そうであるならば、身体検査くらいは受けてもかまわない、という意思表示だった。
本来であれば国王陛下を直接訪ねるような身分高い者からは、ほとんど空気に等しい扱いを受けることが普通である近衛騎士二人にとって、聖女のそのような気遣いは新鮮で、また強く印象に残る行動であった。
しかし、近衛騎士、というものは個人の印象に従って動くものではない。
あくまで命令は命令として従い、そして空気のように陛下を御守りすることが正しいのだ、と心を改め、それから聖女に言った。
「お気遣い、感謝いたします。しかし、そのようなご心配は無用です。どうぞ、中へ」
そうして、事前に国王に申しつけられた通り聖女を特別観覧室を示した。
心配げな表情で今も少し逡巡しつつ、近衛騎士たちを見つめるその瞳に、深く感謝の意を示しながら、二人の近衛騎士は特別観覧室の扉を開く。
本来ならここまでする必要はないのだが、それは自分たちなどの身の上を心配してくれた聖女に対する感謝の表し方だった。
聖女は開かれた扉を見て、近衛騎士二人に深く頭を下げて、中へと入っていく。
それから完全に扉が閉まり、聖女の姿が全く見えなくなって、二人の近衛騎士はお互いの顔を見て笑い合った。
二人そろって、まるで聖女に恋しているかのような、そんな表情をしていたからだ。
二人とも、既に妻がいる身であり、いまさら色恋がどうのと言うような立場ではないが、それでも惹かれるところのある女性であると思ってしまったようだ。
しかし、色恋で転ぶような性格なら、近衛騎士などになることはできない。
二人はそれからすぐに気を引き締めて、自らの職務に戻った。
ただそれでも、聖女に対する好印象は拭い去ることは出来なかった。
聖女と会話してから、二人とも、職務に大半の意識を割く中、心の奥底で、どことなく考えていた。
ああいう人物が聖女であるという事は、きっと正しいのだろう、と。
聖神教に宗旨替えするのも悪くないかな、とも。
◆◇◆◇◆
「失礼いたします。アルカ聖国ガトラス大聖堂付き第二階位神官、シャルロット=マルムと申します。此度は、レナード王国国王グリフィズ・ラント・レナード陛下よりお招きにより、参りました。どうか、御取次ぎを……」
部屋に入るなり、丁寧な所作でそう述べた聖女。
それに続いて彼女付きの女性神官ノンノも頭を下げるも、その場にいる誰もノンノには注目していなかったため、気にも留められなかった。
とは言っても、ノンノ自身はそのことに不満を覚えたりはしなかった。
なにせ、目の前にいる錚々たる人物と比べれば、自分などそれこそ空気にも劣る存在であるという事は深く理解していたからだ。
特別観覧席の中に入り、まず一番初めに目に入ったのは、この人は本当に人なのだろうか、と思ってしまうほど体の大きな騎士の男性が一人と、その対面に立つ流麗な美貌を誇る男性騎士だった。
ノンノは元々田舎神官でしかないため、国際的な知識が豊かという訳では勿論なかったが、それでもその二人の顔と名前、それに役職は当たり前のように知っていた。
大柄の男性の方――真っ黒で癖のある黒髪と、迫力のある髭の生えたその男性騎士は、このレナード王国において強力な騎士として名前の挙がることの多い者の一人で、近衛騎士副団長の役職を持つ、アイアス=アバーテその人である。
またその対面の美剣士は、アイアスと比べて細く洗練された様子で、とてもではないがアイアスと戦って勝てそうもない、と思わせる容姿をしているが、それでも彼こそが、この国において最強の一角を占めると呼び声の高い人物であることも知っていた。
この美剣士こそ、レナード王国近衛騎士団長を務める男、ロメオ=カンパネッラであり、国王の第一の剣とも言われる男である。
そしてそんな二人の間にいる、覇気に満ちた30半ばの男こそ、このレナード王国を治め、その高い政治的手腕でもって近年稀にみる成長と拡大を実現した賢王とまで呼ばれるレナード王国国王グリフィズ・ラント・レナードその人である。
さらに、ノンノの斜め前にいるのはアルカ聖国において聖皇猊下の次に高い位につく聖神の御使いであらせられる聖女様なのだ。
この場において、自分がいかに小さな存在か、ということがそれだけでもよく分かろうというものだ。
本来なら、この場に居合わせることすら不敬であると考え、ノンノは聖女がレナード王国国王陛下に呼ばれたので供を、と言われたときに無理だと、言ってしまったのだが、そんなノンノに対して聖女は訥々とノンノがお付きとしてしっかりやっているということを話して説得したのである。
ノンノとしても、そこまで言われては、ましてや何かあっても全て自分が責任を取るから、ノンノはいつも通りに仕事をしてくれればいいのとまで言われては、もはや断れるものではない。
結果として、ノンノは場違いにもこんなところにいるわけだが、聖女以外の誰もがノンノの存在をほぼいないものとして扱っていてくれるという事実は、むしろノンノの心に深い平穏をもたらしたのだった。
それからは、いつも通り、聖女様の斜め後ろに控え、何か用事があったときに、ご命令に従えばいいだけなのだと、そう思って、その場で気配を消してやり過ごすことにした。
聖女の声を聞き、聖女のことを見つめた三人の男性。
てっきり、聖女と直接言葉は交わさずに、隣に控える二人の近衛騎士のうちどちらかが取り次ぐものかと思っていたが、意外にも国王グリフィズは自らの口を開き、聖女に話しかけた。
「ふむ。ようこそいらっしゃった……聖女殿。それとも、シャルロット殿、とお呼びした方がよろしいかな?」
国王の声には威厳が、そしてそうであるにも関わらず、なぜかリラックスできるような包容力があった。
そんな国王の言葉に、聖女は言う。
「陛下のお好きなようにお呼び頂ければ……。あえて申し上げますと、聖女、と申しますのはアルカ聖国及び聖神教における、私に対する愛称、のようなものでございますれば……」
「なるほど、特に親しくない儂からは呼ばれたくはないかな?」
それは少しばかり意地悪な質問だっただろう。
けれど聖女はにこやかに答える。
「いえ……アルカ聖国も、聖神教も、レナード王国に深い親しみを感じております。今回の闘技大会も素晴らしく、国に戻りました暁には、国民に闘技大会の盛況な様子を、またレナード王国の文化の素晴らしさを語りつくしたいところでございますわ」
そんな聖女の答えに、国王グリフィズは鷹揚に頷くと、着席するようにと席を勧めてきた。
これから本題を話す、ということなのだろう。
聖女はそれに応じて、しかし国王が先に着席するのを待ってから、下座に腰かけた。
それから、部屋の奥からアイアスが紅茶と菓子を持ってきて、聖女と国王の前に配膳する。
国王はその紅茶と菓子をしきりに聖女に勧めるので、聖女は困惑で首を傾げた。
すると国王は笑って、
「いや、申し訳ない。これは実はアイアスが手ずから作ったものでな。……あの見た目からこんな繊細なものが作られるとはとても考えられん味なのだ。ぜひ、聖女殿には一口、口にして頂いて、国への土産話にしていただければと思ってな」
そう言って、国王は自分の前に配膳された紅茶と菓子を、毒見も経ずに食べてしまう。
そして、一言、「うまい」と言った。
それから、
「もちろん、毒など入ってはおらんが……毒見など必要であれば手配するぞ」
と言う。
聖女の毒見、と言うのは基本的には存在しない。
王族や貴族と違い、毒殺することにそれほどの意義の無い存在だからだ。
そもそも周囲にいるものは皆、神に仕える敬虔な信徒であると言う前提もある。
つまり、聖女が毒殺される、ということはまずありえないことだ、と考えられているのだ。
だからか、それとも国王を信じたのか、聖女は菓子に手を伸ばした。
けれど、その行動は、ノンノには認められなかった。
僭越すぎる、とも国王陛下に対しても失礼である、とも思ったが、陛下はそもそも毒見を許しているのだ。
だから、ノンノは聖女に言った。
「聖女様……まずは、私が」
そう言ったノンノに、国王陛下は初めてその存在に気がついたかのような顔をして、それから言った。
「ほう、そなたは聖女の毒見もするのだな」
それが単純な関心なのか、遠回しな皮肉なのかはノンノには関係なかった。
ただ、聖女に危険が近づく前に、排除しなければならない、という気持ちは、国王陛下に対する近衛騎士のものと同じであると思っているだけだ。
だから、この菓子の毒見は自分がしなければならない。
そう思ったノンノは、国王陛下に答える。
「私のお仕事は、聖女様の身の回りのお世話です。毒見もまた――その役目に含まれると私は理解しております」
その答えに、国王陛下は、
「あっぱれな心意気だな。よし、食すといい……言っておくが、実に美味だぞ」
と言って許可してくれた。
戦々恐々としながら、口に運んだ菓子と、紅茶だったが、確かに国王陛下のおっしゃるように、実に美味で、あの巨大な熊のような近衛騎士アイアスの手で作られたものとはとてもではないが思えない。
少し待ち、特に問題がないことを確認した私は、聖女殿下に言った。
「美味しゅうございます。聖女様もどうぞ……」
「ノンノ……そこまでしなくても良かったのに。……ありがとう」
聖女はそう言ってノンノに微笑み、それから国王陛下に向き直って、
「国王陛下、では、私も頂きますわ。アイアス様のお作りになられたお菓子と、紅茶の味をしっかり覚えて国で語らせていただきます……」
そう言って、聖女は菓子と紅茶を口に運んだのだった。