第62話 ありふれた生き物
そして、フウカを包んでいた靄が徐々に晴れていくと、そこにあったのは驚くべき大きさを誇る、白銀の狼だった。
毛並みはさらさらとして柔らかそうであるが、口元を見れば鋭い牙が、足には刃物のようにすら見える爪が生えており、戦えば相当な強さを誇るだろうことがその見た目だけで理解できる。
「よしっ、完璧です!」
しっかりと変身が出来ているのを確認したからか、キキョウがそう言って拳を握りしめている。
ということは、あの巨大で優美な白銀の狼こそが、先ほどまでそこに存在していた子犬、フウカであるということになるのだろう。
突然の出来事に、ルルとイリスは未だに開いた口が塞がらない。
けれどいつまでも黙っている訳にはいかず、まずイリスが口を開いた。
「お兄さま……これは……」
「あぁ……凄いな」
子犬が巨大な、それこそ4、5メートルはありそうな巨狼に変化する様子などそうそう見られるものではない。
それにずっとただの賢い子犬だと思って慣れ親しんできたフウカが、そんな風に変わってしまっては、驚かずにはいられないというものだろう。
しかし、イリスが言いたいのは別にそういうことではないらしかった。
「違います、お兄さま。いえ、それはそれで、違わないのですが……感じませんか?」
「え?」
イリスがそう言ってフウカを見つめた。
何を言いたいのか、と思い改めてフウカに意識を集中して見てみれば、そこには驚くべきことに、通常の動物に感じられないはずの、何とも言えない静謐な気配が宿っていることに気づいた。
「……これは……まさか」
ルルの声に、イリスが頷いて、静かに呟くように答えた。
「その、まさかです。……これは、この力は……聖気以外の何物でもございませんわ」
二人の体に緊張が走る。
聖気、それはかつて、魔族にとって、天敵であると言って違いないものであったのだから。
◆◇◆◇◆
「あー、それはフウカが聖獣だからですねーっ」
なんでもないことのようにキキョウがそう答えたとき、ルルとイリスはその身体に感じていた緊張がほどけていく。
キキョウからすると、特に聖獣は特殊な生き物ではなく、連れていて何がおかしいのか、とそんな雰囲気ですらある。
ルルたちの感覚からすると、聖獣というのは珍しく、滅多にお目にかかることの出来ない特殊な生き物であるという認識なのだが、キキョウにとってはそうではないらしい。
この娘に会ってからずっと、変わっていると、不思議な娘であると思っては来たのだが、ここにきてその奇妙さは極限に達してきている。
東からの旅人、奇妙な武術を身に着け、聖獣を共に連れて、空腹で行き倒れていた少女。
その要素を並べ立てるだけでもその存在の奇異さが目につくが、これを統一的に考えるとするなら、少女が特殊である、というよりかは彼女の故郷が特殊なのだろう、という事になるのかもしれない。
仮定に過ぎないが、彼女の故郷において、彼女のように聖獣を連れているのは珍しくないのだろう。
だから、キキョウは特に聖獣について触れなかったし、不思議にも思っていないのだだろう。
本当ならここで詳しく尋ねて色々聞きたいところだが、今のルルたちにはやらなければならないことがある。
質問はいつでもできるのであるから、それはとりあえず後回しにして、現在の目的を果たそうと頭を切り替える。
ただ、そのことを考えると少し問題がある。
キキョウはフウカに三人で乗って西に消えた馬車を追おう、というつもりで変身してもらったのだろうが、フウカは聖獣である。
つまいりフウカは常に聖気を帯びていて、ルルはともかくイリスが乗るのは体質的に厳しい。
「……イリス。フウカに乗れそうか?」
念のため、ルルがそう尋ねるとイリスは答えた。
「いえ……きっと無理でしょう。今はお兄さまが魔力の壁を築いてくださっているので、特に消滅の危機は感じませんが、直接触れればどうなるか分かりません。こうなると……この身が魔族であることが憎いですわ」
やはり無理らしい。
別の方法を探すしかないのだろうか。
そんな風にひそひそ話をイリスとしていると、キキョウが、
「どうかしましたかっ?」
と尋ねてきたので、彼女の提案してくれるつもりでいるだろう方法の問題点を正直に述べることにした。
「キキョウはフウカに乗って行けばいいって言いたいんだろう?」
「そうですよ? この姿のフウカは速いですからね。ただ一度変身すると24時間しか持続しないうえ、今後一月は変身出来ないという難点がありますが……まぁ、今回は日帰りですし問題は無いでしょう」
意外な問題があったものである。
聖獣、というのはこういう威厳ある姿を特定の時間しか維持できないという事だろうか。
だから、ルルもイリスもあまり見たことが無い?
キキョウと話していくうちに質問したいことが大量に頭に思い浮かんでくる。
しかしそれはとりあえず置いておき、イリスの話をしなければならないと疑問を振り切る。
「キキョウ、その方法には実は問題があるんだよ」
「はて? 問題とは……」
「イリスがさ、乗れないんだ……体質的に、聖気とはあまり相性が良くない。魔力が多いからなのか、何なのか微妙なところなんだが……」
そう言って、イリスの方を少し見る。
別に嘘を言っている訳ではないし、良いだろう。
ただ古代魔族だからだ、と言っていないだけの話だ。
キキョウはその辺りの微妙な表現について特に気にならなかったらしく、ただ残念そうに言った。
「えぇっ!? そんなぁ……せっかく役に立てると思ったのに、酷いです……」
せっかく頑張ってくれたキキョウとフウカ。
特に、元に戻ったら今後一月もの間変身できないというフウカには非常に申し訳ないが、これはどうしようもない話だ。
フウカに乗っかってイリスが消えてなくなってしまった、ではダメなのである。
けれど、キキョウは諦めきれないようで、しばらくうーんうーんと唸ってから、ぽん、と右手の拳で左手の掌を叩き、そして言った。
「聖気がだめならっ!」
「だめなら?」
ルルが首を傾げると、キキョウはフウカの方を見て言った。
「フウカ! 聖気をひっこめるのです!」
と。
そんなことが出来るのか、とルルは思った。
聖獣はその性質として聖気を発しているのであって、意識的に出し入れできるものとは思っていなかったからだ。
けれど現実はその予想とは異なり、徐々にフウカの体を柔らかに覆っていた聖気は薄くなっていき、最後には完全に消滅してしまったのである。
「これなら! これなら役に立ちますよねっ!? ねっ!?」
どうかお願いします、とでも言わんばかりの様子で両手を組んで迫ってくるキキョウ。
そのあまりの剣幕に、ルルはイリスをちらりと振り返り、
「……どうだ?」
と確認した。
すると、イリスはルルの作り出した魔力の壁の向こう側に手をやり、それから、
「これなら……大丈夫そうです。試しに少し、フウカさんに触れてみても?」
そう尋ねると、キキョウが頷く前にフウカが頭を下げてイリスの前に顔を寄せた。
イリスはそっと手を近づけて、怯えた様子で、けれどしっかりとその鼻先に触れる。
そして、
「……何の問題もないようです。魔力、それに存在の減少も感じられません。これなら……乗れます」
笑顔で頷いたイリスに、キキョウは、
「よくやりました! よくやりました、フウカ!」
と言って万歳した。
それからルルたちはフウカの背中にお邪魔して、西に行ったと言う馬車を追いかけたのだった。
◆◇◆◇◆
フウカの背中は極めて快適で、居心地のいい場所だった。
白銀の毛並みは柔らかく、ふかふかとしていて、気を抜くと眠ってしまうほどに気持ちがいい。
「眠っちゃだめですよー、眠っちゃ!」
と、キキョウがたまに言ってくれなければ多分本当に眠っていただろう。
聞けば、彼女自身がよく寝てしまうらしく、その誘惑は良く理解できると深く頷いていた。
そうしてどれくらい時間が経ったことだろう。
日が落ちかけて空が赤く染まったころに、ルルたちは一つの村に辿り着いた。
王都デシエルトからはおそらく100キロ近く離れた地点である。
ここに来るまでにもいくつかもの村を通り過ぎたが、ここが怪しいと足を止めたのは、王都から遠く離れた小さな村にしては、不自然なほど大きな魔力の反応を感じたからだ。
少なくとも、10人以上の冒険者がいなければ、これほどの魔力にはならないだろうと思える程度の魔力。
もしかしたら、ただ、この村の周辺で何らかの依頼があって、それがゆえに多数の冒険者が集まっていると考えることも出来なくはないが、その仮定は、実際に村の中に入って、六台の馬車を見つけたときに無意味なものになった。
馬車の型式を確認すれば、それがシフォンに聞いていた“怪しい馬車”と一致していることが理解できる。
中に積んである荷物もちらりと眺めたが、これもやはり一致している。
ここで間違いない、ということを確信し、行動に移ることにした。
イリスに変身を解かずに村の外で待っていてもらったキキョウとフウカを呼びに行ってもらい、ルルはその間に宿を見てみることにする。
馬車が村に停止しているという事は、宿に泊まっているということだろう。
そう思って、村に一軒だけある宿に行き、中を覗いてみる。
出来るだけ足音は殺し、窓からゆっくりと覗いた。
けれど、
「……おかしい。いないな」
宿の部屋をいくつか覗いてみたが、数人の宿泊客はいるものの、二十人前後の冒険者、騎士たちの姿が見えない。
宿はここしかなく、この村に滞在するのならこの宿に泊まるしかないはずなのだが。
魔力も確かにこの村に充満しているし、確実にこの村にいるはずである。
ただ、少し量が大きすぎて、魔力で正確な居場所を感知する、というのが少し難しい。
この村にいることは確実だとしても、一体どこにいるのか……。
そう思って首を傾げていると、しばらくして変身を解いた様子のフウカとキキョウがイリスと共にやってきた。
急いできたようだが、その足音はほとんど聞こえず高い隠密能力を感じさせる。
キキョウの職業、ミコが一体どんな存在なのかどんどん分からなくなっていくが、それはとりあえず置いておくことにして、ルルは二人と一匹に手招きした。
「見つかりましたか?」
イリスがそう尋ねたので、ルルはゆっくりと首を振る。
「いや。それが宿にはいないようでな……他にどこかに隠れる場所は……」
と、話し込んでいると、フウカがすんすん、と匂いを嗅ぎだして、どこかに向かって歩き出した。
「お、おい」
とルルが止めるも、キキョウが、
「フウカは人の匂いを追いかけるのが得意なので、たぶん見つけたんですよ!」
と言って着いていく。
匂いというが、その追うべき匂いのもとは一体どこから手に入れたのか。
ただ人の匂いを追っただけでは、それはただの村人かもしれないではないか。
そう指摘すると、キキョウは何か懐から布きれを取り出して言った。
「これ、クレールちゃんから借りてきたんですよっ。オルテスさんの身に着けていた服の切れ端……」
なるほど、その匂いをフウカに覚えさせた、というわけか。
一体いつの間にそんなことをしていたのかと思うが、今はそれを聞くよりも先にやることがある。
ルルたちはフウカの進む方向にカルガモのようについていき、そして辿り着いた場所は、
「……おい、これ、馬車じゃないか」
村に泊まっている六台の馬車。
そのうちの一台の前で、フウカはわふ、と一声鳴いたのである。
「フウカがここだと言っているのですから、ここにいるのでは? ……よっこいせ、と」
そう言って、図々しくもキキョウは馬車の中に入り、中にある荷物の入っているだろう箱を一つ一つ開けていく。
「これも違う、これも違う……何してるんですか? 二人とも手伝ってくださいっ」
そう言われて馬車に近づくと、馬車の外にいたときよりも濃密な魔力を感じて、ここで確かに間違いない、ということをルルは確信する。
どうやら馬車自体に、魔力をある程度隠蔽する魔術がかけられていたようである。
それが故、村に充満する魔力と相俟って、その発生場所が余計に分かりにくくなっていたという訳だ。
納得したルルは、キキョウと同じように、馬車の荷物を漁り始めた。
その大半が食料や生活物資なのだが、奥の方を覗いてみると不自然な大きさの箱がいくつも重なっているのを発見する。
「おい、あれじゃないか?」
ルルがそう言うと、イリスとキキョウは頷いて、
「確かにあちらが怪しいですわ」
「怪しすぎますよっ。まるで棺桶みたいです!」
と言って箱に取り掛かった。
随分と縁起の悪い言葉を、と思ったがあながち冗談にはならないのかもしれないと言う嫌な予感を感じる。
釘で密閉されており、こんなものの中に入っているとしたら生きているとはとても思えないのだが、魔力は確かに感じる。
遺体が魔力を発生させることはなく、そうである以上は生きているはずと信じ、ルルは最初の箱を開いたのだった。