第54話 予選第二回戦 その十一
「……『来たれ炎熱の使徒、全てを飲み込む悪鬼……火神!』
そうして呪文を唱え終えたシュイが完成させた魔術は彼から膨大な魔力を組み上げ、現実世界へと影響を与え始める。
彼の呪文の詠唱と共に空中に可視化しはじめた巨大な魔法陣が、その瞬間、ぽっかりと暗い穴を開いた。
あれはなんだ、あそこから一体何が現れる。
そんな観客達の期待に応える様に、その暗い穴から、ぬっ、と強靭な腕が現れて、暗黒の穴の縁を掴んだ。
見た瞬間、観客達は、根源的な恐怖に支配され、緊張している自分に気づいた。
それは明らかにこの世ならざる存在の腕であり、見るだけで何かを奪われてしまうような、そんな気さえしたからだ。
それに、単純に見ても、その腕の大きさもさることながら、それ以上にその腕の異質さに観客達は息を呑んだ。
現れた腕は、火炎に包まれていた。
いや、火炎そのものが、腕の形をとっていたからだ。
観客達のみならず、ルルもその光景を見ながら、なるほど、と思っていた。
神などというものは、この世のどこを探したとしても存在しない、という魔族の思想からすれば、シュイが呼び出そうとしているそれは神などではないということは分かっていた。
けれど、それでも確かにその名を名乗れるだけの力を持つ強大な存在に見えたからだ。
シュイの呼び出したその存在の腕は、赤々と燃えていた。
黒い穴から身を乗り出し、徐々に明らかになっていくその巨体も含めて、全てが炎熱に包まれている。
彼の存在は、それだけでもって、結界の内側を業火で焼くような高熱の世界へと塗り変えていく。
身体の全てが燃えているその存在は、まさに炎の化身と言うしかなく、たった一人の魔術師がこれを呼び出したということに感動を覚える。
炎で構成された広がる巨大な一対の翼を持ち、またその頭部には羊のような曲がりくねった角を伸ばしている。口や鼻からは青白い炎が常に吹き出しており、瞳には炎が宿っている。
悪鬼、と言われたら、なるほど確かにこれこそが地獄を象徴するそれであると頷きたくなるような恐ろしげな存在が、そこにはいた。
「……途中で気絶させてやればよかったな」
ルルがその炎の化身を見つめながら、汗を垂らしつつ、ぼそりと呟く。
魔力循環により、周囲の環境変化に対しても耐性をつけ、さらには結界を張ることによって高熱を遮ってはいるが、それでもじりじりと肌を焼かれるような暑さがルルの身に迫ってくる。
するとシュイが息も絶え絶えの様子ながら、にやりと笑って、
「今さら、遅いよ……行け!!」
シュイが指示すると同時に、火の化身はルルに向かって来た。
その巨大な翼を振り、強靭な足でもって地を蹴った炎の塊は、ルルにまるで隕石のように迫ってくる。
これは避けるべきか、と一瞬思ったが、そもそも、その巨体である。
いかに闘技場が広いと言っても、すぐに距離は詰められるに決まっているし、避けようにも避ける隙間がない。
もしかしたら身体が大きいから速度が遅いだとか、カバーしきれない範囲があるとかそういうことがあるかもしれないと一瞬、期待しないでもなかったのだが、現実には、かの火の化身はその身体の形状をある程度自由に変更することが出来るらしく、間をすり抜けようとしたら間違いなく燃やされるという事がその辺に転がっていたステージの破片を試しにぶん投げてみて理解できてしまったので、その計画はご破算となった。
飛びかかってきてその燃える拳でルルを殴りに来るイフリートを、辛うじて張った結界で受け流すも、この戦法ではどうも長く持ちそうもないとため息をついた。
「これは詰んだかな……」
ルルが逃げるのをやめ、イフリートを見ながらそんなことを呟くと、シュイはルルが諦めたのだと確信して、イフリートに指示を与えた。
特に声に出さずとも良いらしく、おそらくはシュイの思念に即応した形でイフリートは動いているようだ。
はじめに声で指示を出したのは、自分の魔術に絶対の自信を持つが故の譲歩だったのかもしれない。
とは言え、これほどの魔術を使われてはそれを油断ということはできそうもないなとルルは苦笑した。
イフリートはそして、周囲から魔素を集め始め、取り込みだす。
その吸収魔素量はシュイが扱える力の量を超えていて、ルルは、なるほど、確かにこんな存在を呼び出し、使役する魔術、ということになるとおいそれとは使えそうもないなと他人事のように観察していた。
魔素のイフリートへの集約が終わり、そして火の化身はその力の解放を始める。
ぼこりぼこりとイフリートの周りのステージが溶岩のように溶け出している。
漏れ出した力だけであれである。
本格的に攻撃が始まったらどうなってしまうのだろうと、ルルは楽しみにしながら見つめていた。
そして、それは始まった。
「君が死なないことを願うよ……やれ、イフリート!」
先ほどよりも遥かに高温の炎を纏い出したイフリート、そしてその周囲には多くの火球が浮かんでいる。
しかもその火球は無尽蔵に増えていくのだ。
ほんの数秒しか経っていないのに、気づいた時にはそこには大小様々な火球が浮かんでいて、その全てがルルに狙いをつけている。
そして、その火球の全てが、イフリートの突進と共にルルに放たれる。
瞬間、爆炎が結界内の全てを塗りつぶした。
◇◆◇◆◇
自分に向かってくる何もかもがまさにルルの命を刈り取ろうとしているものであることを認識していながら、けれどルルは未だにその余裕を失っていなかった。
なるほど、確かに強大な魔術だ。
感心する。
まともに直撃すれば、人族の身に過ぎない自分の体は骨も残らず業火に焼かれ、消滅してしまう事だろう。
けれど、それはあくまで何もしないでここに突っ立っていたら、の話に過ぎない。
闘技大会で優勝するつもりでいるルルがそんなことするはずがなく、そしてそうである以上、ルルにとって目の前のこの光景は絶望的なものでもなんでもなく、乗り越えることの出来る壁でしかない。
ルルは殺到する炎の群れの前に、手を掲げ、呪文の詠唱を始める。
「……『来たれ酷寒の使徒、全てを包み込む善霊……氷霊』」
シュイの唱えたものと正反対の詠唱が響いたのを、観客達も、シュイの耳も捉えることはなかった。
あまりにも小さな声で唱えられたそれは、ただ結果のみを持って、闘技場にいる者たち全員にその存在を知らしめた。
シュイが作り出したものよりも遥かに大きな魔法陣が中空に出現し、そこから幾体もの蒼色の乙女たちが飛び出してきたのである。
彼女たちの周囲にはきらきらとした光り輝く粉のようなものが浮いており、それがなんなのかは次の瞬間に起こった現象により示されることになった。
向かってきた炎熱の火球を、乙女たちは一つ一つ、抱きしめて凍らせていくのである。
自らが炎の玉となってルルの方に突進してきたイフリートすら、幾体かのネレイデスに纏わりつかれ、その熱を煙と共に失っていくのだ。
それを見たシュイが叫ぶ。
「な、なんだこれは!? 反対呪文……!? まさか、そんな……この魔術は私が……!?」
炎で満たされた空間を、極寒の地へと一瞬で塗り替えたルルの魔術。
それに対して驚愕を示すシュイの驚きが、ルルにはよく理解できた。
なぜなら、そもそもたった今、シュイが使用した魔術はルルも知らないものだったからだ。
おそらくは、彼は魔術を研究し、一つの極致としてこの魔術に辿り着いたのだろう。
そのことは、シュイが見せた魔術の構成の中に試行錯誤のあとが見えたことから理解できる。
だからこそ、彼はこの魔術に絶対の自信を持ち、それをもってルルに当たろうと考えたのだろう。
けれど、ルルはシュイの放った魔術自体は知らなかったが、似たような魔術を見たことはかつて何度かあった。
そこから、魔術の構成を読み解き、改変し、反対呪文を作り出すことは、かつて魔王であったルルには出来ない相談ではなかった。
もちろん、威力や制御の面で、大きな不安があったのは確かだが、シュイ自身もまだこの魔術を完成に至らせることが出来ていないことは、魔術の構成を見て理解できた。
だからこそ、ルルも反対呪文をぶっつけで試す気になったのである。
結果、その企みは成功し、シュイの火神をルルの氷霊が圧倒している。
過去においても現代においても、魔術言語は一語の中に二重の意味を含意することを可能にしている。この点、シュイは火の神の言霊にイフリートの意を込めて詠唱した。
それは強力な意味合いの言葉を使うことにより、魔術をより強力なものへと昇華しようとしたのかもしれない。
しかしルルは今回の詠唱において、神ではなく、霊とした。
それは、信仰上の問題と言うのもあったが、それ以上に、ルルがそれを唱えた場合に一体どれほどの存在が呼び出されるのか、想像がつかなかったと言うのがある。
シュイの魔術が未完成なのは、もっと強大な存在を呼び出そうとしている呪文であるのに、魔力が足りていないからイフリートまでしか呼べていない、という部分にある、とルルは見抜いていた。
おそらく、ルルがシュイと同じ呪文を唱えた場合、他のものが呼び出されることだろう。
そして、威力は想像がつかない。
だからこその、氷霊、というわけである。
そんなことをルルが考えているうちに、闘技場ステージのほとんどすべては氷に包まれ、それはシュイの手前まで迫っていた。
氷霊が完全にイフリートを凍らせて氷像にしてしまっている以上、シュイにこれ以上の抵抗は出来そうもなさそうである。
少しずつ浮遊して近づいてくる、きわどい恰好をした若い女性風である氷霊。
シュイはその指に触れられる直前になって、静かに告げたのだった。
「……私の負けだ。完敗だよ……」
瞬間、歓声が闘技場を満たした。
◆◇◆◇◆
試合が終わった後、闘技場を出ると、観戦していたらしい大勢の人に囲まれて握手を求められた。
多くの人がこれからはルルを応援する、と言ってくれたのであるが、反面、シュイに賭けていた掛け金が無駄になった、どうしてくれる、と冗談交じりに憤慨して話しかけてくる人もいたので何とも言えず戸惑っていると、意外なことにガヤが、
「道を開けてくれ! これからルルは打ち上げに行くんだからな!」
と言って観客達を押しのけて道を作ってくれた。
なんとも面倒見のいいことで、ルルはそれを面白く思った。
試合が終わった直後、席に戻ったルルを見るガヤの目は本当に今思い出しても面白い。
まず、穴が開きそうなくらいルルの顔を見つめて、ほっぺたをつねったり引き延ばしたりした。
それから、なんだかずいぶんと申し訳なさそうに、
「い、いままでの態度は……なんていうか……も、申し訳なく……」
とかしどろもどろで言い訳のような事を言い始めたので、ついにこらえきれずルルが噴き出すと、隣にいたラスティがその理由を説明してくれた。
「大体予想がついてるだろうが、お前の実力見てびびったってよ! 『お、おれどうしよう……今まで、ルルに先輩面しちゃってた!』とか言って焦ってたくらいだ。なぁルル……どうする?」
完全に冗談で言っていることはルルにも、その場にいるみんなにも理解できたのだが、ガヤたちにはそれが理解できなかったらしい。
まずいことをしてしまったぞ、俺達、という顔で佇んでいて、それがまたなんとも言えず面白くてルルは大笑いした。
それから、ルルはガヤの方を叩いて、
「気にするなよ。ガヤ達が先輩なのは事実だぞ。大体、今さらへりくだられたって変な感じがするぞ。いいからいつも通りに振る舞うといい」
と言った。
その言葉に、しばらく顔を見合わせたり、ぼそぼそ相談したりして忙しそうな様子だったガヤ達だったが、最終的にラスティが、
「こいつは昔からこんなんだから、本当に気にすることねぇぜ」
とまで言われてやっと納得したようである。
それからぽつぽつと話すようになり、徐々に元に戻っていって、とりあえず会話は普通に出来るようになったのだった。
ただ、完全に今まで通りの扱い、というわけでもなく、ルルとイリスはガヤ達にとって期待の星のようになってしまったようである。
ラスティたちが尊敬すべき兄貴なら、ルルたちは才能がある後輩、という感じだろうか。
自分たちが世間から守ってやらねばならぬ、という妙な義侠心も発揮し始めて、一歩も前に進めない人ごみなどといった煩わしいものを、積極的に追い払うようになってしまった、というわけである。
「いいんだか悪いんだか……」
ルルがそう呟くと、ラスティが言う。
「今だけだろ。俺のときもここまでしてくれたのは最初の方だけだぜ。段々丁度いい扱いになるって。ただ、兄貴呼ばわりはいつまでも変わらないんだよなぁ……」
そう言ってがっくりくるラスティの気持ちが、今は少しだけわかった。
今日はこれから、氏族の酒場で打ち上げである。
勝者を祝い、また敗者の奮闘を称える名目で行われるそれは、予選第二回戦から先、毎日行われるのだと言う。
「きっと騒がしいんだろうな……」
「当たり前だろ」
ラスティとそんな会話をしながら、みんなで“時代の探究者”の酒場に向かったのだった。
ちなみにだが、キキョウもちゃっかりと予選第二回戦を勝ち抜いた。
とは言っても、ルルとイリスの活躍の前には目立たない勝利だったが。
と言うか、目立たないように戦っていた節がある。
子犬のフウカと共にこつこつと対戦相手の体力を削って降参に持ち込むと言う堅実かつ地味にな戦い方だった。
結局、ルル、イリス、キキョウ、それにラスティたちと、結構なメンバーが勝ち残っている。
また第三回戦も勝てればいいと思った。