第42話 予選第一回戦 その五
向かい合う二人はそれぞれの武器である剣と大鎌を構えながら、どちらも動き出さずにただ相手の出方を見つめていた。
張りつめた空気が支配している、そんな風に思わせるほどに空気が冷たい。
にもかかわらず、体に全く力が入っていない、どんな方向にでも動き出しそうな二人のその態度は、素人目に見ればただ休んでいるようにすら見えたことだろう。
けれど実際はそうではない。
二人は視線と気配でもって、向かい合い、全く動かないでいながらも、高度な駆け引きをしているのだ。
相手の筋肉の動きを、骨の軋みを、神経に走る信号までをも捉えるべく極限まで集中していながらも、決して体に固さの宿ることのない二人。
それは見る者が見ればまさに達人同士のみが可能とする極限の戦いであると気づいたことだろう。
けれど、今この場において二人を見つめているのは王街の住人たる観客であり、彼らは当然のごとく戦いの素人である。
とは言え、ルルとアンクウが何かとてつもないことをやっているのだということは理解できたようで、息を潜めて、首筋に冷や汗を垂らしながら二人の出方を見つめていた。
この場において、一番リラックスしているように見えるのがこれから戦おうと言う二人であると言う異様な状況。
そんな中、先に行動に移ったのは大鎌を携えたアンクウの方だった。
黙っていても事態は膠着したまま動かないと感じたのか、それともルルの思いのほかの隙の無さに耐えきれなくなったのか。
とにかくアンクウはその大鎌を構えたまま踏込み、そしてルルに一撃を加えるべく振り上げる。
さらに、アンクウはそれだけでは不足と感じたらしい。
大鎌の一撃は、ルルを狙ったものではないとは言え、先ほど一度防がれているからだ。
だからアンクウは、ルルに対して攻撃を加えるべく踏込み、大鎌を振り上げると言う一連の動きの中で、僅かに聞き取れるか聞き取れないか、と言った音量で魔術の詠唱を始めた。
「……『死を司りし聖霊よ……我が元に来たりて共に敵を打ち払わん……狡猾な悪霊』!」
ルルはその詠唱を聞きながら、思う。
やはりユーミスのものとは異なり、非常に問題のある構成をしている、と。
ただ、母たち、人族の使う魔術については、生まれてから十数年でしっかり研究し、どうしてルルにとって奇妙に思える構成をしているのかが分かってきていた。
つまり、現代の魔術においては、その魔術に使う単語の意味が別の意味で捉えられており、文法もあの頃とはかなり変わってしまっているのだということだ。
数千年も時を経れば、言葉は変化する。
それが魔術言語にまで及んだという事は別におかしなことではない。
ただ、問題は、その結果として魔術の効率や構成と言うものが大きく崩されて後退することになってしまっているということだ。
ユーミスの使う魔術言語は、ルルにも理解できる極めて綺麗な文法と発音であったが、今、目の前で唱えるアンクウのそれはとてもではないが美しい構成の魔術とは言えない。
それでも曲がりなりにも意味が理解できるのは、ユーミスやグラン、それにパトリックに人族の魔術について学び、その単語や文法の意味を知ったからである。
そしてその結果、ルルもまた、人族の魔術について使えるようにはなったが、やはりあまり意味のあることではない。
ルルたち魔族や、ユーミスたち古族の使う魔術と、人族のそれを比べると、前者は土台をしっかり固めてからその上に家を建てているようなものであるのに対し、人族のそれは、レンガをひたすら一段ずつ積み上げてどこまで高く出来るか挑戦しているようなものである。
安定性もそうだし、規模についてもルルたちの魔術の方が遥かに使いやすいものであるのは間違いなかった。
また魔族と、古族の魔術の違いを言うなら、それは使える材料が大幅に違う、ということになろうか。
魔族のそれはありとあらゆるものを材料として使えるが、古族は非常に限定的なそれしか使えず、結果としてこじんまりとしたものを、しかもかなり効率の悪い組み上げ方をとらざるを得なくなる、というわけである。
そう言った諸々を考えると、やはり魔術において魔族に追随できるような存在は現代にはいないのかもしれない。
アンクウの唱えた魔術の効果はその詠唱からは分からなかったが、魔力の寄り集まり方、構成からすれば、ルルにはその効果は明らかだった。
闇が形作られるように、アンクウの横に二体、さらにルルの背後に三体の使い魔が出現しようとしているのを感じる。
元々の戦い方が、そういうものなのだろう。
ぱっと見、魔術を使うが主に大鎌で戦う魔法戦士だが、幾体もの使い魔を使役することによって狩りのように戦うのが本来のスタイルなのかもしれない。
実際、出現した使い魔たちは皆、アンクウと同じように大鎌を携えている骸骨姿の何かであり、立ち上る常闇の力には尋常でない圧力を感じないでもなかった。
アンクウが大鎌をルルに振ると同時に、ルルの逃げ場を遮るように襲い掛かってくる、アンクウの使い魔たち。
前後左右、全ての逃げ道を封じてくるその手腕には、流石に上級冒険者たる実力があることが分かった。
けれど、ルルにとって多対一という戦いはむしろ慣れたものであり、本領と言っていいものであると言える。
大鎌を振り切って、一瞬、自らの勝利を確信したような笑顔を浮かべかけるアンクウだったが、全く手ごたえが無かったことに気づき、すぐにルルの姿を探した。
「……どこを探してるんだ?」
そんな呟き声にはっとしたアンクウが振り返ると、いつの間に移動したのかだいぶ離れた位置に立っているルルの姿があった。
確実にしとめたと、そう思ったにもかかわらず、どんな気配も感じさせずに移動していたことにアンクウは驚きを隠せない。
けれど、口だけは達者なようで、引き攣った笑みを浮かべつつ、彼は言った。
「最近の新人はかくれんぼが得意なのかな? 全く先輩に対する態度がなっちゃいない……よッ!」
話が終わるか終らないかのところで動き始めたアンクウは、そのまま再度ルルに襲い掛かった。
あえて喋ったのは当然ルルの油断を誘うためであるし、途中に動き出したのは意表を突くためにしたことだった。
だが、そんな見え透いた罠にかかるようなルルではない。
アンクウ、それに彼の使い魔たちの縦横無尽に走る大鎌の連撃を全て避け、またアンクウより僅かに離れた位置に着地して笑った。
「最近の先輩って奴は鬼ごっこすらまともに出来ないもんなのか? そんなに後輩に礼儀を教え込みたいなら直接頭を掴んで地面にこすり付けたらどうだ? ま、無理だとは思うがな」
明かな嘲りであり、そして事実であった。
初撃、それに二度目の攻撃、さらに話しながらの不意打ちと、全てにおいて完全に相手の方が上を行っていることを理解できないほど、アンクウは状況判断が出来ない男ではない。
そもそも、別の者に対して放った初撃はともかくとして、ルルに対する攻撃についてアンクウは全く手加減をしていなかった。
自分が強い、という認識はあるが、格下相手に手を抜こうと考えるほど余裕に満ちた日々を送っている訳ではない。
だから、今の一撃も、そして先ほどの一撃も、全て本気でかかっていったのだ。
にもかかわらず、ルルは今でも健在で、元気に笑って突っ立っている。
これは、恐るべきことだった。
目の前の人物は、自分と対等の位置に、いや、それ以上の場所にいる何かなのだとやっと理解できたアンクウ。
久々に冷や汗が首筋を流れるのを感じながら、それでも決して気迫で負けはしないと余裕ぶって言葉を放つ。
「ふ……ふふふ。まさか、馬鹿な初級冒険者が喧嘩を売ってきたものだと思えば……これほどまでの化物だとは。私の眼力も鈍ったかな?」
そんなアンクウにルルは言葉を返す。
「今さら戦いから降りられると思うなよ。これだけのことをして、自分だけはその被害に遭わないなんて思っちゃいないよな?」
ルルは、冷静な口調で言葉を紡ぎながらも、アンクウに対してふつふつとした怒りを感じていた。
僅かに語気を荒げ、その感情の強さをアンクウに示した。
これからどうなるのか、わかっているだろうなと、そういうつもりだった。
アンクウのようなタイプは、自分が他人からこういう目に遭わされると考えてもいないからこんなことが出来るのだと思ったからだ。
けれど、帰ってきたのは意外な台詞だった。
アンクウは余裕のなくなった笑みをルルに向けながら、言う。
「……それこそ、まさかだよ。私はいつでも他人から酷い目に遭わされることを考えながら生きている。もしかしたら明日には彼らの親類縁者が私を拷問にかけにやってくるかもしれない、いや、それで済めばまだいい。永遠の苦しみを味わわせるべく、食事に毒を入れて徐々に弱らせようと計画しているかもしれない、もしかしたら、今日この日、誰かから全く関係なく突然無意味に殺されることもあるだろう、とね」
嘘を言っている瞳ではなかった。
ルルはこの男が自らの本心を語っているのだと、それで確信できた。
そして、そうだと言うならこの男は真実狂っているとも。
どうしてそんなことを想像していながら、人の体を切り刻み、苦痛を味あわせ、絶望の渦へと投げ込んだりできるのか。
自分に明日にもその危険がふりかかってくることが分かっているなら、そんなことはしないのではないか。
そう思ったからだ。
そんなルルの内心を読んだのか、アンクウは続けた。
「不思議かな? この私が。この私の考えが。……分かるよ、こんな男は頭がおかしい。狂ってる。そう思っているのだろう? けれどね、何もおかしいことじゃないさ……これはただの好みだ。労働に疲れた夕べに、泥のように眠りたいと思うのと同じように、私は断末魔の悲鳴を聞きたいのだよ。たとえ、永遠に昨日と言う日が戻ってこないのだとしても、ね」
「……狂ってるな」
それはある意味で覚悟と呼べるものだった。
ただ、常人には理解できない何かだっただろう。
これを認めることは、ルルには難しかった。
何が彼をそんな風にしたのか、それとも生まれつきそうだったのかは分からない。
けれど、彼をこの場で倒さなければ、これから予選が続いていく中でまた同じことが起きることは明らかであり、だからこそ、彼をこの場で倒さなければならないと深く思った。
思い返せば、あの時代には、こういうものがたくさんいたような気がする。
どうしてか、魔族も、人族も、長い間戦いの海に浸かると、心が乱れておかしくなるのだ。
精神が尋常のものではなくなり、生き物を殺すことに何も思わなくなったり、ある日突然、見えないものが見えるようになったり、また出来たことが出来なくなったりする。
目の前にいるこの男も、もしかしたら、その類なのかもしれない、とふと思った。
だけど、それをもってアンクウを許す理由にはならない。
彼には退場してもらわなければならない。
これからの闘技大会のため、どうしてもだ。
だから、ルルは剣を構え、ただ彼を負かすためだけに動くことにした。
もはや、アンクウの動きは見切った。
その持つ使い魔も、動きは素早いが、決まった動きしかしない。
最も厄介なのは、やはりアンクウ自身であったのだ。
ルルは言う。
「……お前の考えは分かった。もう、何も言わない……ただ、お前を二回戦に進ませるわけにはいかない。ここで、お前の大会は終わりだ」
久しぶりに殺気、と呼ぶべきものを身に纏って、ルルはそう言い放つ。
流石に上級冒険者だけあって、アンクウもそれは理解できたようだ。
過去、世界最強と呼ばれた者の、極限まで磨かれたその気迫は、アンクウに死を覚悟させるほどのものだった。
アンクウの顔にはもはや先ほどまでの余裕はない。
目の前に立つ者が一体何なのか、やっと理解し、そして受け入れたからだ。
しかし、だからと言って、彼に怯えは無かった。
その顔に映るのは、むしろ喜色ですらあった。
「……おぉぉぉ……こ、これは……この殺気、それに魔力! これは……人間の持ちうるものではない! お前は……お前のようなものをこそ、私は待っていた! 今、分かった……私は私の死神を求めていたのだ……!」
ルルは、そんな風にこの場においても一切の怯えを見せようとしないアンクウに向かって、ゆっくりと距離を詰めていく。
アンクウはそれを理解し、自分が決して勝てないだろうことを悟りながらも、戦意を失わずに大鎌を握りしめてルルに相対し続ける。
そして、彼に一撃を加えようと走り出そうとした。
けれど、そこでアンクウは不思議なことに気づく。
自分の体が全く動かないのだ。
前に走り出そうとしているのに、その身体は全く意思に従わない。
なぜだ。
これでは戦えないではないか。
死神に挑めないではないか。
そんなのは困る。
そう思ったそのとき、周りの様子を見てアンクウは合点する。
アンクウを睨みつけている観客達、彼らもまた、全く動いていないということに。
瞬き一つしない彼ら。
そこでは全てが色を失い、白と黒だけで構成されていた。
つまりこれは、時間が止まっているということだ。
そんな世界の中で、ルルだけが通常の速度で動いている。
こつり、こつりと一歩一歩石畳を歩く足音も聞こえた。
衣擦れの音も。
彼にまつわるすべて、それしか動いていない。
そんな風に見えた。
いや、アンクウ自身も、僅かずつではあるが、動いてはいる。
けれど、どう考えても、このままでは戦う事が叶わないのは明らかだ。
なのに、アンクウの体は全く動かない。
一歩一歩距離を詰めてくる少年の背中に死神の姿を幻視しながら、こんな風に、一瞬を永遠のように感じられる現象のことを、アンクウはふと思い出す。
振り上げられる剣、そして右肩を深々と切り裂き、アンクウの腕は飛んでいく。
そこで、白黒だった世界に色が戻る。
痛みが肩を走った。
吹き出していく血の鼓動を感じ、更にもう片方の腕も切り裂かれたのを理解する。
そして両足もまた切り落とされ……そしてアンクウは意識を失ったのだった。
倒れ伏したアンクウの懐を漁り、そのバッジの全てを奪ってから、ルルは失血を止めるべくアンクウに治癒魔術をかける。
本来は手足の接合まですべきなのだろうが、それは大会事務局に任せることにして、ルルはその場を後にすることにした。
去り際、アンクウを見つめながらルルは言う。
「……じゃあな、先輩」
ルルの背中の向こうから、観客達の賞賛の声が響いた。