第30話 神の宿
その場所には静謐な空気が満ちていた。
朝日が差し込むステンドグラスの真下に膝をついて目を伏せ、祈りを捧げる一人の美しい少女の姿は、この一瞬を切り取ることが出来れば永遠に絵画の歴史に残るのではないかと思わせるほど、人に訴えかける何かが宿っている。
華美ではない純白の神官服は、しかしだからこそ、少女の体の線を際だたせ、艶めかしいものに見せているように感じられる。
そしてその髪は金色にきらめき、その唇は血のように赤く、けれどその表情は柔らかで全てを受け入れるような包容力があった。
人の造作の極致。
そう呼ぶべき並ぶ者の無い美貌を、その少女は確かに持っていた。
そしてその美しさを彼女は自らのためにではなく、神に捧ぐべきものとして扱っている。
ここは、聖堂。
神の降りたもう、使徒の住処。
レナード王国から少し離れた位置に存在する宗教国家であり、国教として女神サエワサチェドーズを主神として崇める聖神教の本拠地、アルカ聖国の首都、神都オードレンに存在するガトラス大聖堂であった。
少女はそんな聖神教の中心地で、ただひたすらに祈りを捧げる。
何を祈っているのかは分からない。
ただ、その表情、その顔を、アルカ聖国の国民が目にしたら、きっとこう言うことだろう。
「我々のためにその身を神に捧げ、一心に祈ってくださってありがとう、あなたこそが、誰よりも聖神サエワサチェドーズに愛された神の使い――聖女に、他ならない人その人である」
と。
そんな彼女が静寂の中、祈りを捧げていたとき、聖堂にかつかつと早足で歩く人の近づく音が響いてきた。
宗教歌を捧げることも少なくなく、そのために音響には気を遣って設計された聖堂の中では、小さな音でもよく耳に響く。
彼女はその音に気づくと、伏せていた目をゆっくりと開き、そして静かに立ち上がって振り返る。
さきほどまで隠されていたその瞳の色は、海よりもなお深い蒼をしていて、見つめていると吸い込まれそうなほどに強い吸引力が感じられた。
何もかもを見透かすように、そして真実を詳らかにすることもたやすいと言われる女神その人の瞳が乗り移ったかのようなその目は、もしかしたら本当にそのような力を持っているのかも知れないと思ってしまうくらいには、神秘性を帯びている。
彼女の振り返り、見つめた方向には、聖堂の側面から奥院に伸びる通路があり、その向こう側から足音が聞こえてくることを彼女は理解していた。
そうして、しばらくすると、暗がりに満ちた通路から少女と似た、しかし幾ばくか華美な神官服に身を包んだ若者が息も絶え絶えの様子で走ってきた。
「せ、聖女さま……これを……!」
相当に急いできたのだろう。
奥院の面積は非常に広大で、わざわざ一人の人間を捜して回るのはかなり大変なことのはずである。
それをやりきった青年神官の顔にはだらだらと汗が流れており、息も完全に切れていて、その場に倒れ込みそうな状態である。
そんな彼に彼女はゆっくりと近づき目の前にひざまずくと、簡素な神官服にいくつか設けられているポケットの中からハンカチを取り出すと、長く垂れ下がった袖を片手で押さえながら、すっと手を差しだし、それから彼の汗を拭いてやった。
「な、なにを……!? そ、そんな恐れ多い……」
ふっと優しく何かが触れるような感触がして、初めて気づいたらしい青年神官は、一体何が行われているかを理解して怯えるようにそうつぶやいた。
しかし彼女は青年神官に身を引かれて恐縮されてもその行動をやめようとせず、彼の汗が引くまでその作業を続けたのだ。
「わざわざ私を探してここまで来てくださったのです。その労をねぎらうのが、私に出来る精一杯の感謝の表し方ですから……」
そう言って微笑むその表情は、青年神官にとって、まるで全てを祝福する太陽のようであるとも、また神秘を体現する月のようでもあると感じられ、ほとんど涙を流す寸前の感動を感じた。
青年神官と比べれば、位も、また功徳のほども明確に異なるというのに、そんな隔たりなどまったく気にせずにこうやって気さくに、そして自然に接してくれるその人は、まさに女神その人であると言われても信じてしまうほどに、神々しさに満ちている。
そして思った。
だからこそ、この人は聖女であり、女神に愛されて、そして国民にも愛されているのであろうと。
彼女が人前に姿を現しはじめてから数年しか経っていない。
当初聞こえてきた彼女に対する批判の声も、今ではわずかにも残っていない。
今、彼女に送られるのは、賞賛と尊敬の声だけだ。
それは、彼女がこんなにもすばらしい人だから。
誰にも公平で、優しく、そして神に愛された人だからだと、神官は深く感じ入ったのだった。
「……汗も、引きましたし、息も整ったようです……良かったですわ。……ところで、どうしてそんなに急いでらしたのですか?」
すっかりと心酔し切った視線を青年神官がしていることに気づかずに、その折れそうなほど細い小首を傾げて、彼女が質問する。
そこで初めて現実に戻ってきた青年神官は、改めて自分がこの場に何をしに来たかを思い出して、持ってきた粗悪な紙を聖女に差し出していった。
「そ、それが……このチラシをご覧ください!」
言われて、差し出された紙を受け取り、聖女は読み始める。
そして読みながら言う。
「闘技大会、ですか……出場者は……なるほど、今回は特級クラスの達人も出場できるのですね」
聖女も隣国レナードで毎年行われる闘技大会のことは知っていたらしい。
彼女は争いを好まない、と聞いたことのあった神官としては、こんな話を彼女にするのは良くないかも知れない、と思っていたので、彼女が思いの外、興味深くそのチラシを読んでいることに安心して、本題に入った。
「それで……そのチラシの重要なところなのですが、その特級クラスが出場できる理由が……」
指でチラシの一部分を指し示しながら、青年神官はおずおずと続けた。
すると、聖女は目を見開き、
「……古族の絶対障壁……まさか、彼らが協力を? 我々がいくら頼んでもその協力を拒んできた、彼らが……これは一体……」
不思議そうに、ぼそりと言った聖女。
それも当たり前の話だった。
古族の魔法技術はこの世界の誰よりも高いと言われている。
そんな彼らの矜持は、その技術を個々の国々に決して供与しない、というところにあった。
どんな理由があろうとも、どれほど頼まれようとも、絶対に彼らはその技術を漏らしたりはしない。
その事実は、この世界の中でここ数百年、ずっと実践をもって示され続けたため、誰もがこれから先もそうであると言う確信を抱き続けてきた。
だからこそ、古族には不可侵であるし、彼らもまたどんな国にも襲いかかることはなく、それで均衡が保たれてきたのだ。
しかし、今回のレナード王国の闘技大会では、彼らが種族を挙げての協力をすると言う。
そのことに、聖女は首を傾げたのだ。
アルカ聖国としても、駄目で元々と思いながら、古族に対して何度もその協力を要請してきた。
彼らの持つ、絶対障壁の技術は、国を守るという点において、ほかの追随を許さない強力な盾となるもの。
その力さえあれば、アルカ聖国はどんな国からの侵害も受けずに、静謐な宗教生活を国民に保障することが出来るからだ。
もともと他国に対する色気など持たないアルカ聖国は、自国を守れる手段さえ確保できれば、それで十分であるという事を幾度となく古族に告げ、懇願をしてきたのだが、それでも結局その主張を認められることはなかった。
だから、今回のことは、きわめて不思議だった。
レナード王国は決して平和主義的な国ではない。
他国から侵害されれば反撃するし、また自ら侵略のために攻撃を加えることもある、言うなれば平凡な国家に過ぎない。
そんな彼の国に対して、古族が種族的な協力をする、というのだ。
たかが闘技大会のみの協力、と考えることはできるが、そうであるとしても、これはアルカ聖国として、見過ごすことの出来ない話であった。
聖女は少し考えるように目を伏せ、それから青年神官に静かに告げる。
「……レナードに、参らねばなりません。闘技大会を観戦することは出来ますか?」
その言葉に、青年神官は少し驚いた表情を浮かべる。
ここまで決意に満ちたような視線をしている聖女を、彼は今まで一度も見たことがなかったからだ。
青年神官は思う。
きっと彼女は、今回のことを突破口に、古族に再度、絶対障壁の技術供与を願うためにレナードに行くのだろうと。
もはや、古族の言う、古代からの慣習、という断り方では通用しない事実が、今回できあがるのだから。
軍事的に転用しようと言うわけではない。
他国の驚異になろうというわけでもない。
ただ、静かに信仰の中に生きられる国を守りたい。
聖女は、きっと、ただそれだけを考えて活動されるのだ……。
青年神官はそう考え、それから聖女に言った。
「レナードから、聖女様に対する招待状が届いております……出席の旨、返答しておきますので、その点について、聖女様はご心配なきよう……」
いくつかのレナードの闘技大会は、毎年、国賓としていくつかの宗教団体の代表者に招待状を送る慣例がある。
その順番が今回、聖神教に回ってきていることに、青年神官は天の配剤を感じた。
やはり、この方は、聖女様は、神に愛されているお方なのだ、と。
そして聖女は青年神官ににこり、と微笑み、
「ありがとうございます……必ずや、アルカ聖国に絶対の守護をもたらしますわ……そして、国民に静謐な祈りを捧げることの出来る、安息を……」
そう言って、聖堂の出口へと向かっていく。
青年神官は聖女について、聖堂の外へと出た。
そこからは、ガトラス大聖堂の誇る広大な敷地と、信徒の寄進によって造られた多くの建物がひしめき合っている様子が見え、圧巻であった。
聖神教の一大聖地であるここに、多くの聖神教徒が寝泊まりし、毎日祈りを捧げて暮らしている。
そして、その最上位者である、"聖皇"もここに住まっていることを、聖神教徒であれば誰でも知っていた。
聖女はその聖皇の住まう城であるところの聖院の方を眺め、言った。
「では、私は先ほどの件について、聖皇猊下とご相談して参ります。あなたはまだお疲れでしょう? ここでしばらくお休みになっているといいでしょう……」
ここに至ってまだ優しげな言葉をかけてくれる聖女に青年神官は涙を流し始めている。
その様子を見て、聖女はその涙を指で掬い、それから背を向けて少し離れた位置に立った。
青年神官は、その聖女についていくことはしなかった。
これから、何が起こるのかを彼はよく知っていたからだ。
聖女が目をつぶり、手を組み合わせて祈りの言葉をささやく。
すると、彼女の背中から光り輝く何かが、ふわりと引き出されるように現れてきたのだ。
それは明らかに、彼女の体の中から現れたものだ。
人の体にそんなものを収納する隙間などないはずなのに、確かに存在しているその物体。
それは、光輝満ちた巨大な翼である。
人が持つことなど許されない、光輝くその翼は、その神々しさにおいても、巨大さにおいても、異質だった。
彼女は鳥の獣族なのだろうか。
いや、違う。
そのことを青年神官は知っていた。
鳥の獣族の持つ羽は、そもそもあのようなものではない。
取り外しの出来るものではなく、またあれほどに巨大でもなく、そしてあんな風に神々しく光り輝くこともない、そういうものであることを彼は知っていた。
だから、あの羽は彼女の信仰の証なのだと、彼は思っている。
彼だけではない。
彼女を聖女と認めるアルカ聖国の国民全てが、彼女のその光翼を信仰のシンボルとして崇めている。
「行って参ります」
そういって、ばさり、とその翼を少しずつ動かし、徐々に揚力を生み出して聖女の身は空へと上っていく。
急激な上昇をしないのは、青年神官が近くにいることを知っていて、吹き飛ばさないように配慮しているからだ。
常に、人のことを考え、思いやりを忘れることのない彼女。
聖女はそうやって空へと上っていき、それから聖院の方角へと飛去っていったのだった。
しばらく、ほう、と青年神官が聖女の飛び去った方角を眺めていると、ひらひらと何か落ちてくるのが見えた。
なんだろうか、そう思って見つめていると、それは丸い光だった。
両手を合わせてその光を掬う。
すると、そこにあったのは、光り輝く一枚の羽であった。
「……聖女様の」
おそらくは、彼女の背中から伸びた大翼の一枚が、落ちたのだろう。
そう推論した彼は、その羽を持ち、空を眺めてから、祈りを捧げ、そして持ち去ることにする。
これはきっと自分に対する聖女様の思し召しに違いあるまい。
そう思った彼は、自分の部屋に戻り、その羽をペンダントにして持ち歩くことに決めたのだった。