第269話 売られていく何か
「ば、馬鹿な……」
呻くようにそう呟いたのは、審判を務めていた槍使いの軍人、ウォールズである。
それも当然の話で、彼は幾度となくシウ少佐が試験官を務める試験を見てきたが、これほど鮮やかに敗北したシウ少佐を一度たりとも見たことがなかった。
いや、負けたシウ少佐をそもそも見たことがなかった。
もちろん、シウ少佐がいくら強いとはいえ、特級クラスの実力者には勝つことは難しいだろうが、そもそもそういう者たちはこんな試験など受けることなどない。
上層部から直接雇われるのが普通で、そうでもない限りは、わざわざ軍に下っ端から所属することがほとんど決まっているこんな試験を受けになど来ない。
今回受けに来た者たちだって、同様だと考えていた。
模擬戦をするにあたって、身体強化魔術すら発動させる様子がないのだ。
それが出来る素養がないか、魔力量に問題があるか、理由は分からないが、少なくとも実力がそれほどではない、と考えるのは当然の話だった。
しかし現実はどうだ。
たった今戦った、ゾエ、という女性はシウ少佐が身体強化を使ったにもかかわらず、自分は素の身体能力のみで押し切ってしまったのだ。
しかも、大剣は弾かれて遠くに転がっている。
あの大剣は、一応、この訓練場に置いてはあるが、振り回せる者がシウ少佐くらいしかいないためにほとんど彼専用と化していたものだ。
ウォールが身体強化なしに本気を出してぶん投げたとしても、それほど飛びはしないだろう
しかしゾエは……。
その腕力はいったいどうなっているのか。
見た目からして、ただの華奢な女性に過ぎないのだ。
もちろん、多少は腕に覚えがあって試験を受けに来たということは想像がつくが、おそらくは小手先の技術や速さなどに自信があり、そのような戦い方をするものだと思っていた。
まさか単純な腕力勝負をして挑む脳筋などと、誰が想像するだろう。
あまりにも予想外過ぎた出来事に、ウォールズは開いた口がふさがらない。
確かに、華奢に見えても実は怪力である、という存在はいなくはない。
それは、巨人族の血を引く場合などの例外である。
ゾエはそういった出自の人間なのだろうか?
かなり少数で、そのような者はあまり表には出てこないと聞くが……。
分からない。
ともかく、分かることは、彼女が文句なしに合格だと言うことだ。
シウ少佐自身がそう言っているので、本来審判を務めるはずのウォールズの判断はもう、要らないだろう。
シウ少佐は呆れながらゾエを見ているが、どこか清々しそうだった。
ここまで簡単に負けた経験がほとんどないからだろう。
軍に入るわけだし、彼女が仲間になるのであれば心強いというのもある。
「……それで、次は誰だ?」
シウ少佐は自分の頬を両手でぱちり、と叩いて気分を改めてからそう尋ねた。
そうだった、とウォールズは思う。
まだ試験は終わっていないのだ。
あと三人いて、そのうちの誰が次に挑むかは、彼らの自由だ。
「……どうする?」
ルルがそう言ったので、イリスが、
「私は何番目でも構いませんが……ファイサさんは?」
「……考えたんだが、おそらくはあのシウ少佐はずっと一人で相手をするつもりなのだろう? だったら、僕は最後に回してもらってもいいかな? 卑怯な話で悪いんだが、この中だと間違いなく、僕が弱いわけで、確実に勝てる方法をとりたいんだ」
ファイサの言っていることには一理ある。
まぁ、別にシウ少佐が疲れてもずっと相手し続ける、とは言われていないが、この感じからしてそうなのだろうな、という想像はつく。
もう一人、ウォールズ、という軍人もいるわけで、シウ少佐が疲れたら交代するのかもしれないが、さきほど見た実力からすると、ウォールズ相手にならファイサは十分に戦えるレベルにある。
それを考えると、出来るだけシウ少佐を削っておくのがいいかもしれなかった。
回復薬の類を使い始めると終わりだが、魔力についてはそれほどすぐには回復できないし、シウ少佐は身体強化を使って戦っているところ、削る意味は十分にありそうだ。
ファイサの言葉にルルとイリスは頷いて、
「じゃあ、俺かイリスだな……」
「ええ、そうですわね……では、わたくしが先にやりましょう」
少し考えてから、イリスはそう言った。
ルルはイリスに尋ねる。
「どうしてだ?」
「やはり、真打は最後に出てくるものですわ。わたくしが露払いを致します」
「露払いって。戦争じゃないんだぞ」
呆れた顔でルルがそう言うと、イリスは笑って、
「冗談です。ですけど、お義兄さまの方が上手にファイサさんにあの方の攻略法を説明できるのではないかと思いまして。わたくしは、あまりそう言ったことが得意ではないですから」
そう言った。
別にイリスも観察力がないというわけではないが、イリスは現代において、ゾエよりもずっと腕力寄りの戦い方をしてきたタイプだ。
人族の体で、色々と工夫しながら戦っている俺の意見の方が、ファイサには受け入れやすいというのを考えての台詞だろう。
俺はイリスに頷いて答える。
「ま、そういうことならそれでもいいんだけどな。もともと順番なんてどうでもいいわけだし。頑張って来いよ、イリス」
そう言うと、イリスも頷いて、
「ええ、ボコボコにしてきますわ」
そう言って訓練場の中心に歩いていく。
――ボコボコはまずいんじゃないかな。
とふっと頭の中で考えたが、まぁ、殺すわけでもないし、いいか、と考えるのをあきらめたルルであった。
◇◆◇◆◇
「……次はお前か」
シウ少佐が、正面に出てきたイリスにそう尋ねる。
シウ少佐には、イリスはただの少女にしか見えない。
可愛らしく、それこそ華奢で、戦闘などまるで知らないようなお嬢様。
そんな感じだ。
けれど見かけで油断してはならないことは先ほどのゾエとの戦闘で骨の髄まで理解していた。
ゾエは正直強すぎた。
あそこまで強力な戦士と曲がりなりにも一緒にいるこの少女が、普通の人間と同じであるはずがないと言うことは容易に想像がつく。
しかし、どれほど普通から逸脱しているかは……。
実際に戦ってみなければ分からないだろう。
「ええ、よろしくお願いいたしますわ」
イリスはシウ少佐の言葉に、柔らかく微笑みつつそう、答えた。
本当に、まるで強そうには見えない。
魔力は……あるようだが、しかしやはりゾエのときと同様、身体強化系の魔術を発動させようとする前兆は感じられない。
模擬戦は通常、開始を宣言されるまでは魔術を使うことは禁じられているが、魔力を集め、発動しやすいようにぎりぎり手前のところで止めておくのは自由である。
狡猾な者……というか、準備を怠らない者は、通常、それくらいのズルというか、準備はするものだ。
そしてそれは、たとえば正当な決闘の場でならともかく、軍に所属するための試験であるこの場においてはむしろ評価される。
軍人にとって重要なのは、とにかく目の前の戦いに勝つことだからだ。
手段は問わない。
文句を言われても、あとで勝利がすべてを押し流してくれるからだ。
それは褒められたことではないが、そうなってしまうことは歴史がすべてを証明している。
そして今のルグンを見れば、間違いなく、そんな軍人こそが正しいのだ。
シウ少佐は苦い気持ちが心に浮かんでくるが、そんなものは今考えることではないと首を振って振り払う。
それから、イリスに尋ねる。
「もう油断はしねぇからな……で、得物は何を使う? お前も槍か? ゾエがそうだったからな」
どんな武具を選んでも自由だ。
そして、今は、もうこの少女が何を選んでも驚くまい、とシウ少佐は思っていた。
なにせ、おそらくはあのゾエの薫陶を受けているのだ。
この年にして、何か特殊な武具の達人であったとしても不思議ではない。
それだけの武術を、ゾエは見せたのだから。
しかし、そんなシウ少佐をひどく裏切る答えが、イリスから返ってくる。
「何もいりませんわ」
「は?」
「わたくしは、何も武具を必要としません。この拳こそが、わたくしの武器です」
ぎりぎりと強く拳を握ってイリスがそう言ったのを、シウ少佐は唖然とした顔で見る。
なにせ、この試験を幾度となく担当したシウ少佐をして、こんなふざけたことを言う受験者には一人も会ったことがなかった。
シウ少佐は、刃は潰してあるとはいえ、その重量だけで何もかも叩き切ってしまいそうな大剣を持っているのである。
そんな相手と素手で挑もうと言う者など、いるはずがない。
しかし、そんな常識は今、崩されようとしている。
聞き間違いでないことは、二度、同じことを言われたことではっきりとしている。
本気なのか、とも思うが、冗談を言っているような顔でもない。
シウ少佐は困惑と、そして自分をあまりにも舐めすぎではないかという意味での怒りを胸に、イリスに言った。
「……素手なら手加減してもらえるとか思ってるのなら、撤回した方がいいぞ?」
しかし、イリスは言うのだ。
「まさか。むしろ本気でかかってきてもらわないと困りますわ。そのための、素手なのですから」
これは、イリスの主観からすると、出来るだけ消耗させるために、金属よりも強度の高い古代魔族の拳でもって相手をするのだ、という意味になる。
けれど、シウ少佐からすると、武器を持てば勝負にならないから、あえて素手で戦ってやるのだ、理解しろ、と言われているように聞こえてしまった。
シウ少佐の額に、青筋がぴきりと浮かぶ。
これほどまでに虚仮にされた経験は、シウ少佐にはなかった。
「……あら? 何か勘違いをされているような気がしますわ」
イリスはシウ少佐の形相にそう呟く。
シウ少佐は、
「勘違いだ? 俺を舐めるんじゃねぇぞ」
と低い声で言う。
イリスはそれを聞き、やはり自分の考えは間違っていなかったと理解し、
「やはり勘違いです……このまま戦っても、おそらくはよい模擬戦にはなりませんわ。ちょっと、わたくしの方でもデモンストレーションをお見せします。ええと……そこの鎧をお借りしてもよろしいですか?」
急にイリスがそんなことを言い出したことに、シウ少佐は首を傾げる。
どんな意図だ?
そう思うも、別にダメだと言う理由もなかった。
何か自分の捉え方が間違っているらしいと言うのは分かったが……。
とりあえず、シウ少佐はイリスに頷く。
イリスが示した鎧は、ルグンにおいて、軍人が戦いに出るとき身に着ける基本兵装であった。
強度はかなりのもので、強力な魔物と戦っても十分に鎧としての意味を発揮するもの。
それをイリスは持ってきて、訓練場の中央に固定し、それから、
「……では、ご覧くださいね。一瞬ですから、よく見ていてくださいませ」
そう言って、拳を振り上げ、軽く、本当に軽く鎧に向かって振りぬいた。
すると、
――ドガァァァァン!!!
という物凄い轟音と共に、鎧が吹き飛んでいき、壁にごりごりとめり込んでいった。
「なっ……」
唖然としたシウ少佐とウォールズである。
慌てて鎧の方に駆け寄り、壁にめり込んでいる鎧を見る。
すると、中心部分に拳の形がくっきりと浮かんでおり、そこから大きくひしゃげてもはや、鎧としての用をなさないようになってしまっていた。
この鎧は、同じ金属製の武器で思い切りたたいても、軽くへこむくらいで、ひしゃげることなどまず、ない。
拳で叩いてその形が写し取られるなど、もっとありえないことのはずだった。
それなのに現実は……。
「わたくしが拳で戦う、と申し上げました意味、ご理解していただけましたか?」
イリスが後ろから、シウ少佐にそう、話しかける。
これで分からない、などと言えるはずがない。
そして、模擬戦はやっぱりやめよう、とも言い難い。
ウォールズが気の毒そうな目でシウ少佐を見ているが、これはもう、男の矜持の問題である。
シウ少佐はあらんばかりの気合いを込めて振り返り、イリスに言った。
「……よく分かった。お前の拳は、十分に武器と呼べるものだ……模擬戦を、しようぜ。ウォールズ、審判だ」
「は、はい……」
二人で訓練場の中心に戻りながら、チラチラと感じるウォールズの視線はもう、市場に売られに行く豚を見るようなものだった。
そんなのは俺が一番分かってるわ、と思いつつ、引けない。
剣を構えて、今までの人生を思い返しながら、
「ウォールズ、開始の合図だ」
そう言ったシウ少佐だった。