第253話 隣国の動向
アドラーに魔術についての素養があるかどうか、ルルにはわからなかったが、本人が言うにはそれなりに使えるという話だった。
モイツもアドラーの腕については太鼓判を押した。
「純粋な魔術師としての腕であれば、アドラーはなかなかのものです」
ということらしい。
モイツも相当な腕だが、それに匹敵するということだった。
人化の術は、一から考えたり、ただ見ただけでまねようとしても使えるような魔術ではない。
しかし、魔術の構成それ自体は、それほどの技術がなくても使うことが出来る。
ただ、これはルルから見ての話であって、一般的な魔術師であれば結構難しい、というものだ。
モイツは少し説明したくらいで使えたが、一般的な魔術師に同じことが出来るかと言われると、それは否であった。
アドラーはどうかと言えば、ルルから魔術の構成や魔力の使い方、それに効果や時間を聞いて頷き、
「なるほど、これなら僕にもなんとかなりそうだな」
と言ったので、やはり優秀な魔術師ということなのだろう。
何度か魔術を構成し、呪文をルルに尋ねていけると思ったようで、
「では、使ってみていいか? ルル」
と言ったので、ルルは頷く。
「ええ。問題なさそうですね。何かありましたらフォローしますので、どうぞ」
それからアドラーは人化の術の呪文を唱えた。
「……魔素よ! 我が身を人族のものへと変えよ! その代償に我が魔力を捧げる……人化」
それはモイツに教えたものと全く同じで、問題なく発動する。
そのため、効果の発生はモイツの場合とまったく同じだろう……と思っていたら、そういうわけでもなさそうだった。
やはり、個人差のかなり大きい魔術だということだろう。
最終的に人族にしか見えない容姿になる、という着地点は同じでも、過程にはずれがあるようである。
要研究だな、と思いながらルルは見ていた。
モイツの場合はその体全体を魔力光が包んだのだが、アドラーの場合はそうではなかった。
うすぼんやりと、地面から光が放たれて照らしているが、アドラー自身が見えなくなるようなことはない。
変化も緩やかだ。
というか、変化はいつになったら始まるのか、というくらい変化していない。
と、思ったところで、アドラーの頭部についていた兎系獣人族特有の長耳が、突然頭部に格納されたかのように引っ込んだ。
次に、お尻に見えていた丸っこい尻尾も消え失せ、服に開いていたらしい穴も消滅する。
それから………それから?
アドラーの足元に輝いていた光は、徐々にその光を失っていった。
まるで、もうその役割は果たした、とでもいうように。
そして完全に消滅すると、アドラーを中心に渦巻いていた魔力の波も引けていった。
やはり、魔術の効果はもう、終わったようである。
アドラーの見た目は……。
「……ふむ。これは興味深いですね、ルルどの」
モイツが冷静に頷いて言った。
「どちらかと言えば申し訳ないのですが……」
心からそう言ったルルであったが、モイツは、
「別にアドラー個人のために調整してある魔術と言うわけではないのですし、問題ありませんよ。そもそも、このような魔術を教えてもらえるだけで冒険者組合としてはルルどのたちに破格の待遇を用意しても問題ないくらいなのですから。ただ……アドラーは不本意でしょうね」
「いやぁ……本当に申し訳ない」
ぶつぶつとしたモイツとルルの会話は、アドラーには聞こえていないようだった。
アドラーは魔術が完成したのを確認したらしく、黙っていた口を開く。
「む、ルル! これでいいだろうか?」
「え、ええ……そうですね。人化はしましたね。人化は」
奥歯にものが挟まったようなものの言い方をするルルの違和感に、アドラーは特に着目せず、嬉しそうにつづけた。
「そうか! では鏡を見なければな……いやぁ、楽しみだ。僕もとうとう大人に!」
その言葉には目をそらさずにはいられないルルであった。
ルルの横でイリスとゾエが、
「……なにか、哀愁をさそう喜びようですわね」
「こうやって少年は現実を一つずつ飲み込んで、大人になっていくのよ……」
とつぶやいていたが、当然アドラーの耳には入っていない。
アドラーは喜色を顔に浮かべたまま、執務室内の端っこに置かれている全身鏡を見に行った。
そして、自らの全体像を見て、ぎぎぎ、と振り返った。
その顔に浮かべた笑顔が、引きつっていた。
「……おい、ルル……」
「はぁ……なんでしょう、アドラーさま」
「なにも……なにも、変わっていないように見えるのだが、この魔術は視力を落とす効果などもあるのか?」
「いえ……先ほどご説明した効果が全てです。“他種族を、人族に変える”という効果が」
「ほう……そうか。へぇ、そうなのか。なるほどなるほど……ふむ、まぁ……そうだろうな。そうなんだろうな……」
深く納得するような声である。
ルルを責めるような声色ではない。
むしろ、何かに絶望しているような、そんな雰囲気であった。
アドラーは続ける。
独り言を。
「……兎長耳がないな。代わりに人族のような丸耳が出来ている。感触もあるし、音もここから聞こえるな……聞こえ方が違うが、まぁ悪くはない……。尻尾もなくなったようだが……服に開いていた穴も閉じられているな。尻が丸出しにならないような配慮ということか。ありがたい限りだ……よく、よくできている魔術だ……この魔術はこれからの冒険者組合に多大なる利益を運んでくれるだろうな……」
冷静な評価だった。
客観的に見て、人化の魔術がよくできているのは、間違いのない話なのだ。
そしてアドラーは、こういった新規魔術などの評価について、正しく見ることのできる目を持っている一人であった。
その彼から見て、非常に有用な魔術だと、そう思えるものだったのは間違いなかった。
けれど、彼のその評価の声ですら妙な色を宿しているのは、仕方のないことだろう。
次の瞬間、アドラーは叫ぶ。
「だがっ! だがっ! なぜ容姿に全く変更がないのだ! 顔かたち、身長! 何一つ変わっておらんではないかっ! 他種族を人族に変えるだとぉっ!? 確かに……確かに変わったが……変わっているが……もはや、僕は子供にしか見えないではないか……いや、年齢的には子供で間違いないのだが……この、僕の期待は一体どこにやればいいのだ! どこに!」
それは絶望の叫びだった。
そう、アドラーの見た目は確かに変わった。
兎系獣人族特有の耳はなくなり、人族のものへと変わり、尻尾はなくなって、つるんとしたものである。
今のアドラーはどこからどう見ても、人族にしか見えない。
ただ問題は、どう見ても子供だということだ。
大人らしさなどまるでない。
むしろ、獣族であるが故の野性味が抜けたからか、余計に幼く見える。
王都などによくいる、ぐるぐるした飴をぺろぺろしている子供である。
ほっぺたはつるつる、手足は小さく、身長も低く、声も幼く。
ある意味で、理想的な子供がそこにはいた。
「……アドラー様」
ルルはゆっくりと彼の後ろに近づき、肩をぽん、と叩いた。
アドラーはルルの顔を見て言う。
「……なんだ」
「お察しします」
「ぐ、ぐおぉぉぉぉ……」
何か言いたげな顔をして、しかし言っても仕方がないことを明晰な頭脳で理解しているアドラーは何も言えずに、ただ、呻いたのだった。
◇◆◇◆◇
「冗談は置いておきまして」
ルルが何かの空想の箱を横に置くような仕草をした。
アドラーがダメージを受けきったのを確認してから、今は執務室にいる者全員が椅子に座っている。
「じょ、冗談!? 僕の人化は冗談だっていうのかっ!?」
「それは……まぁ、冗談のように面白かったですわ」
と、ミレーユが上品に微笑んでいう。
腹心の部下の裏切りに、絶望を深くしたアドラーの頭から煙が出て、彼は完全に沈黙した。
「あら……これでは、もうお話ができませんね。仕方がありません。代わりに私がお話ししましょう。ルル様には何か、この方にお話があるご様子ですし」
ミレーユがそう言ってルルを見た。
かなり察しがいい女性らしく、一言でルルの意図を理解したらしかった。
ルルは頷き、しかし一応の確認をする。
「……それでいいんですかね?」
「大丈夫です。そのうちこの方も復活するでしょう。それで……?」
簡単に横に置かれたアドラーである。
ルルはまぁいいか、と話し始めた。
「ええと……どこから話せばいいか難しいところなんですが、俺たち……俺と、イリス、それにゾエの三人は、これから西方に向かいたいと思ってまして、そちらの情勢などをお聞きしたいんです」
湖底都市のあるルグン商国を抜け、最終的には魔導帝国クリサンセまで行こうと考えているルルたちである。
国を越えるにあたって、身分証の類はモイツに用意してもらえるわけだが、それ以外にも、出来ることならそちらの詳しい情勢を事前に知っておきたかった。
ミレーユはなるほど、と頷く。
「モイツさまと一緒におられるのはそれが理由でしょうか? ここのところ、ルグン、クリサンセ共にかなりきな臭いですものね」
「きな臭い、ですか? それはどういう」
「まず、ルグン商国の方ですが……あの国はここのところ、自国内の様々な領域を開拓しようとしています」
ミレーユの話に、首を傾げたルルたちであった。
別にそれは悪いことではないのではないか。
あくまで自分の国の中でのことなのだから。
そう思ったのだ。
しかし、モイツは違う見解を持っているようで、
「ふむ……それはつまり、今まで触れなかった場所に触れ始めたということでしょうか」
「さすがはモイツ様。その通りです」
しかし、このやり取りだけではルルたちには分からない。
ミレーユはそれを理解して、詳しく説明してくれる。
「……そうですね、どんな国でも魔物が跋扈する、人の手が触れられない領域、というのがあります。レナードですと、ログスエラ山脈などに代表される、強大な魔物が治める領域という奴ですわ」
これで、話が分かって来た。
ルルは言う。
「ルグン商国は、自国内のそう言った危険地帯を開拓しようとしていると?」
「ええ。その理由は、おそらくは貴重な資源を確保しようとしているためでしょうね。強力な魔物が跋扈する場所というのは大抵が資源の宝庫です。強い魔力が充満するから、とか、生態系の妙とか、色々な理由がありますが……それは事実です。大きな魔石とか、貴重な薬草など、たくさんあるわけですね。もちろん、強力な魔物それ自体の素材も。そういったものを確保しようとしている、とこういうわけです」
ログスエラ山脈も、資源の宝庫だった。
その気持ちは理解できなくはない。
フィナルとログスエラ山脈はその辺り、協力関係を結ぶことになったので、それほどの危険なく安定的に貴重な資源を確保できるようになった。
しかし、他の地域ではそううまくはいかないだろう。
つまり、攻め込んで魔物を駆除したりしてどうにかする、ということになる。
それが果たしてそう簡単に出来るのか、という問題がまずある。
そして、その問題には、昔から答えは出ている。
できない、と。
だからこそ、そう言った地域は放置されていて、たまに冒険者に分け入ってもらい、資源を取ってきてもらうという形になっているのだ。
それなのに、である。
ミレーユは続けた。
「まぁ、気まぐれでそういうことをやることは少なくはないのですし、成功することも全くないわけではありません。歴史を紐解けば、そうやって人間の活動領域を広げて来た実績もあるのですから。しかし、今ルグン商国が攻略しようとしている場所が問題なのです。どれも、最上位の危険地帯であると、冒険者組合――この場合は、ルグン商国の冒険者組合ですね――に認定されている場所なのですよ」
これに、モイツは目を見開いた。
どうも驚くべき事柄らしいが、ルルとイリスにはよくわからなかった。
ゾエには理解できたようだが、モイツが説明してくれる。
「……最上位の危険地帯とは、俗に禁域と呼ばれている場所です。我々冒険者組合は、様々な指標から、魔物が出現する場所について危険度評価を行っているのですが、冒険者ランクと同じように、初級、中級、上級、特級、と言う分類があります。またそれぞれ、下から初級十位から一位、というように細かい分類もしているのです。依頼書にも記載してあることがあるでしょう?」
確かに書いてあるし、それ自体は、ルルも知っていた。
しかし、あまり気にはしていない。
なぜなら、初級冒険者の依頼で行くように指定される場所は、初級評価の危険地帯のみだからだ。
そのため、そこまで気にしている冒険者はいない。
しいて言うなら、今日はちょっと注意をしないとな、くらいの感覚で見ている。
それよりも、相手にしないとならない魔物とか、持ってこなければならない素材とか、そちらの方が難易度に影響するので、場所自体については関心が薄いのだ。
ただ、禁域、というのは聞いたことがなかった。
ゾエを除く、ルルとイリスの冒険者知識は同じく新人冒険者であるガヤなどに教えてもらったことであるところ、あまり詳しくは知らないというか、ランクが上の方が知っておくべき知識というのはないのだった。
禁域、というのもその類なのだろう、と思われた。
モイツは言った。
「禁域とは、そう言った分類付けのランク外、特級よりもさらに上の危険地帯のことです。足を踏み入れればどうなるかわからない、そんな場所につけられた分類なのですよ」