第22話 教会と神官
歩き回って気づけば空は茜色に染まっていた。
オレンジの世界の中でフィナルの市場の住人たちは片づけを始め、各々の家族の待つだろう家庭へと幸せそうな表情を浮かべて帰って行く。
ルルとイリスも、そろそろ帰ろうかと思ったが、その道すがら、一つの教会がふと目に留まった。
「……気になるな」
誰もいなさそうながらんどうの暗闇を入り口に湛える教会の前で、そう、ルルは呟いた。
教会施設を見る機会は今まで少なく、いわゆるちゃんとした教会には入ったことがなかったのだ。
魔王時代であれば、破壊したことも内部を探索したこともあるが、現代の教会はあの時代とは様式も外装も異なる。
そもそも宗教が異なるから当たり前の話だが、だからこそ一度入って見てみたいと思っていた。
「そんなに長居しなければ夕食には間に合うでしょう。おじさまのなさりたいようになさってください。私はお供もしますわ」
イリスはルルの言葉にそう応えた。
ルルはその言葉に甘えて、ゆっくりと教会の中へと入っていく。
人の出入りを制限していないのだろう、開け放たれた扉は固定されていた。
中に一歩入ると、外で騒がしく耳に聞こえていた喧噪も遠ざかり、特に教会に対して信仰心など持ち合わせていないルルをして、なにやら敬虔な気持ちになりそうな気さえしてくる。
内装は、非常に質素で、必要最低限のものしか存在しないようだ。
丈夫そうな長椅子がいくつも並べてあり、教会奥には一段高くなった講壇がある。
基本的には、それだけだ。
けれど、あらかた観察して、ふとルルは自分の目に驚くべきものが入ったことに気づき、唖然として口を開く。
「おじさま……!?」
イリスもルルに同感のようで、同じように一点を見つめて驚きの声を上げた。
その場所とは講壇のさらに奥。
色とりどりのステンドグラスから光りが差し込んでいるところで、普通に見れば何の変哲もないものだった。
そこには、像があった。
灰色の支配する質素な内装とは対照的に、極彩色、というかしっかりと色づけされた立像がそこには存在していたのだ。
それは、人の立像であった。
本来銀髪である筈のその髪は、炎の精霊の加護により染まり、例外的に燃えるような赤髪をしている。そして、その性格を象徴するような、精悍な表情。少しばかり露出の多い上衣から見える腕は細身ながらよく鍛えられていることが分かる。
ぱっと見は少年のようだが、赤く光るその瞳にはどこか悟ったような落ち着いた感情が宿っていて、教会に来る信者を見つめて何かを尋ねるような視線をしていた。
その顔、その表情。そしてその髪の色。
ルルには明確に見覚えがあった。
なぜ、こんなところにいる。
なぜ、こんなところでそんな風に立っているんだ。
聞きたくてたまらなかった。
しかし、聞いても答えてくれないことは分かっていた。
実際にそこにいるわけではない。
ただの立像に過ぎないのだから。
そうして、ルルは絞り出すような声でその立像の名を呼んだのだった。
「……バッカス……」
そう、教会に存在していた立像。
それはかつてのルルの友人、そして魔王の信頼する側近でもあり、そしてイリスの実の父親でもある男その人だった。
◆◇◆◇◆
「落ち着かれましたでしょうか?」
静かな教会の中、長椅子に腰掛けて憔悴したような表情をしているルルに、イリスが優しくそう話しかけた。
本来、イリスの方が取り乱していてもおかしくはないだろうに、彼女は少なくとも外面は冷静に見える。
できた娘だ、とルルは思った。
「あぁ……イリスはどうだ?」
そう聞くと、イリスは首を傾げながら、しかしころころと笑って、
「驚かなかったと言えば嘘になりますが……あの父のことです。なにがあっても不思議ではない、と思っておりますから。おじさまよりは、驚きは薄いのかもしれません……」
バッカスは確かに破天荒な男だった。
義理堅い忠臣であると同時に、あまりよろしくない遊びにルルを誘う悪友でもあったのだから、それは当然といえば当然なのかもしれない。
そんな彼が、教会でなぜかよく分からないが祭られている、というのは意味不明で理解しがたいが……それでも、何かやったのだろうな、と自然に考えられるくらいには、なにをしてもおかしくない男ではあった。
イリスは流石に実の娘だけあって、その点をルルより深く理解しているということなのだろう。
バッカスの血を引いているから、根性も座っているのかもしれないが。
「……むむ。今何か、どこかであまりよろしくない考え事をされたような……?」
イリスがそう言って首を傾げた。
……勘も鋭いようである。
下手なことを考えるのはやめようとルルは思った。
「それにしても、なんでバッカスがあんな像になってるんだろうな?」
だから、ルルは話を変える。
流れとしても特に不自然なところはなかったようで、イリスは自然に話に乗ってくる。
ただしその表情に宿るのは疑問ばかりだ。
「……全く理由が思い浮かびません。確かにある意味愉快な人だったとは思いますが……祭られるような性格はしておりませんでしたわ」
「だよな……」
頷きながら、その正確な論評には涙が出る。
父親だからもう少し敬ってやってもいいんじゃないかな、と友人としては思うが、正しいのは間違いないのだ。
好き勝手に生きている男というのはああいうのを言うのであって、ルルのようにいろいろなものに自ら縛られにいって自由が利かなくなったタイプとは正反対の性格をしていた。
だからこそ、馬があったのかもしれないとは思う。
「戦争のあと、あいつがどうなったかは分からないんだよな」
「えぇ……そうですわね。おそらくはどこかを転戦していたか、生き残っていた魔族をまとめていたかしたのではないかと思いますが……それ以上は」
やはり情報はなにもないらしい。
遺跡で寝ていた以上、それは仕方のないことだとは分かっているが。
「そうすると、全く手がかりはないが……」
そんなことをイリスとしばらく話していると、ふと、教会に誰か入ってくるのが見えた。
振り返って見ると、そこには茶色の旅装を身に纏った女性がそこにいた。
顔はローブに隠れてよく見えない。
腰には剣を帯びていて、しかもその剣は明らかに遣ったことのあるようだ。
旅の剣士か何かだろうか。
そう思ってルルが失礼な視線を送っていると、
「失礼します」
女性はそう口を開き、剣を外して下に置き、旅装を解いた。
すると、その下から出てきたのは純白の神官服だった。
それに流れるような黄金の髪が降りてくる。
目は空のように青く、肌は滑らかであり、端的に言って美人な女性であった。
残念ながらルルとイリスにはそれがどこの宗派のものなのか分からず、何とも言えずにただ突っ立っていると、女性の方から話しかけてくる。
「何か、お困りですか?」
困っていると言えば困っているのだが、目の前の女性に分かることなのかどうか。
ただ、神官服を纏って、この教会に来ている以上は、ここの宗教についてはある程度知っていてもおかしくはない。
そう考えると、この女性に尋ねてみるのも悪くないのではないか、とルルとイリスは思った。
視線でそう会話をし、それからルルが代表して女性に質問する。
「困っていることというか……あの立像が一体誰なのか、気になりまして……」
すると女性は頷き、
「あの方は、使徒バッカス様です。かつて混沌に陥った世界を救った者のうちの一人、我が教えにおいては聖者としてお祭りされている方の一人ですね」
「せっ……聖者ですか?」
あの男とはもっとも遠い位置にあるだろうその単語に、ルルは驚いてどもった。
イリスも同感らしく、
「今ならおへそでお茶を沸かせそうな気がいたしますわ……」
などと言っている。
余談だが、イリスの入れるお茶は中々美味しい。
ただ、それは今はいいだろう。
ルルは質問を続ける。
「混沌に陥った世界を救ったとは一体どういうことでしょうか?」
すると女性は、ええ、と頷き、
「少し長い話になりますが、よろしいでしょうか?」
と行って長椅子を示した。
ルルが席を勧めると、彼女は足下においた剣を手にとって横にかけ、それからゆっくりと語り出した。
それは神話だった。
なにも目新しいことはない、かつての古代魔族と勇者との戦いの話。
勇者たちは魔王を滅ぼし、そして世界に平和をもたらす……。
そういう話だった。
けれど、ルルには首を傾げたい点がいくつも見つけられて、不思議に思った。
その中の一つが、バッカスがなぜか勇者側として語られていることだ。
それに、本来いたはずの人物も一人欠けている。
聖女が出てこなかったのだ。
その点について質問すると、
「……はて、聖女ですか。そのような人物がいたとは残念ながら伝わっておりませんが……どこで聞いたお話でしょうか?」
とかえって尋ねられてしまった。
しかし、いないと言われてしまってはルルとしては何とも言えない。
「いえ、何か他の話と混同してしまったのかもしれません……」
そう言うくらいしかない。
女性はその答えに納得したようで「まぁそういうこともあるでしょうね」と言って頷いたのだった。
そうして女性はその神話をすべて語り終えると、立像の前に立ち、祈りを捧げて教会を後にした。
聞けば、彼女は巡回神官というもので、辺境の村々を回って布教活動をしている特殊な神官らしい。
位も結構高いらしく、第三階位である、と言われた。
いまいちよくわからなかったので首を傾げていると、一番下は二十八階位であり、見習い神官はそこから始めることになる、と言われたのでそれは相当な高位神官なのだなと納得した。
彼女が教会を去ってから、ルルはイリスに言う。
「……どう思った?」
「要領を得ないと言いますか……不思議なお話でしたね。歴史がちゃんと伝わっていないのでしょうか」
「数千年も経てば、それも仕方ないんだろうが……」
そうは言いつつも、ルルはなんだか納得できないものを感じていた。
しかし神官に聞いてその程度のことしか分からなかったのだ。
他に調べようもない以上、気になるがもう、ここでできることはあるまい。
そう判断したルルは、イリスに宿に戻ることを提案した。
外に出ると、闇の帳が降りて、星々が静かに瞬いている。
「おなかが減りましたわね」
イリスがそう言って、笑いかけてきたので、ルルも、
「あぁ、そうだな……バッカスがここにいたら、酒もな、とか言っただろう」
と返した。
あんな像を見てしまったからだろうか。
思い出が刺激されてしまった。
とはいえ、もはや会うことのできない友である。
今日は酒でも飲んで、弔いでもしようか……。
ルルはそんなことを思ったのだった。
◆◇◆◇◆
城塞都市フィナルの壁外で、たき火の炎がぱちぱちと音を立てていた。
その横に腰掛けるのは、一人の女性。
ルルに話しかけた、あの神官である。
『……しかしおもしろそうなガキ二人だったな』
そこには神官の女性以外、誰もいないというのに、屈強そうな野太い男の声が響いた。
「そうね……ただ、もう会うことはないでしょうけど。王都に向かうと言っていたわ。私とは、正反対ね」
女性はその声に全く疑問など感じていない様子で返答する。
『へっ……全くお前も物好きだねぇ。その気になれば、王都にずっといられたってのに、わざわざこんな野宿までして旅を続けてよう。俺だったら、ずっと王都にいるぜ。どうせどこにいたって同じだろう?』
「……だからこそ、よ。私は……探さないとならないもの」
『なにをだよ』
ひひひ、とした笑いと共に、そんな返答がなされたことに、神官の女性はため息をついて返した。
「分かってるくせに、そういうこと言うのやめてくれる? 疲れるわ」
けれど、呆れたようなその声にめげずに、むしろ訴えるように男性の声は続けた。
『……俺には会話くらいしか楽しみがねぇんだから、ちょっとくらいつきあってくれてもいいだろう?』
けれど女性は取り合わない。首を振って、せせら笑った。
「自業自得ね。でも……」
女性は続けた。
「ま、今は暇だからつきあってやってもいいわ……」
『おぉ、ありがてぇ』
そうして、その会話はまるで終わりなどないかのように、どこまでも続いていくのだった。
次の日、夜が明けたその場所には誰もいなかった。
たき火で燃えた後だけが残っている。
おそらく、神官の女性は、目的の場所に旅立ったのだろう。
彼女が向かった場所は、辺境の村々のどこか。
それ以外のことは、誰も知らない。