第220話 泥
戦いが始まってみればバルバラの心配よりも、不細工な格好の竜の方が問題だったことが分かった。
竜、というのは基本的に低位のものであっても、それなりの理性が宿っているのが普通だ。
それが人にとって都合のいいものかどうかはともかく、目的に沿って論理的に行動する性質を持つ。
そのため、その目的の外にあるものに対しては意外なほど無関心であり、たとえば目に入るものすべてに攻撃的になったりすることは滅多にない。
けれど、今回のこの竜については違った。
何も見えていない、というか何も考える頭がないかのように、周りにあるものすべてに攻撃的なのだ。
口から火炎を吐き、木々をかみ砕き、また咥えた幹をあらぬ方向に投げ、空を飛んでは突然急降下して自分の体を地面に思い切りぶつけたりする。
「……わたくし達が森を壊す前に、この竜こそがこの森を破壊しつくしてしまうのでは?」
イリスが、竜の放った火炎によって燃え上がった木々を、水の魔術でもって囲み、消化しながらバルバラにそんなことを言った。
さして大きな声ではなかったが、バルバラは人ではなく、古代竜なのである。
その身体能力は人の比ではなく、耳の良さもその気になれば1キロ先の針が地面に落ちる音すら聞き分けられるくらいだ。
もちろん、普段からその聴力を発揮し続けては疲れるので、通常はある程度の限界を自らに課し、選択的に音を聞き分けるようにしているわけだが、今は戦闘中であり、いかなる油断もする気はない。
多少疲れても全開で挑むべきだろうと、限界は外している。
同じ戦場にいるイリスの声が聞こえないはずがなかった。
「そうならないことを願いたいけど……このままでは本当にそうなりそうね。早く決着をつけたいところよ。……あとは耐久力がどれくらいあるのかの問題だけど。私がとりあえずやってみるわ。周りを壊さない程度の、ぎりぎり一杯の攻撃を加えてね!」
そう言って、バルバラが思い切り地面を蹴った。
その容姿は現在は青色の髪の妙齢の美女であるが、しかし中身はなんといっても年を経た古代竜なのである。
踏みしめられた地面は足の形そのままに陥没し、さらに周囲には半球状のクレーターのような凹みが出来た。
バルバラの青色の髪が風になびき、浮いた、と思った瞬間に、彼女の体はすでに不格好な竜の頭上に運ばれていた。
竜はバルバラの存在に気づいてはいない。
よそ見をしている竜に、バルバラは空中で回転しながらかかと落としを加えた。
突然の衝撃に竜は何もできずにその頭部を地面に縫い付ける。
強力な一撃であり、通常の魔物ならそれで百回は命を奪われているような一撃だった。
しかし、この竜に関しては耐久力も並ではないようである。
ダメージはあるようだが、しかし活動に支障をきたすほどでもないらしい。
一撃で倒す、短期決戦で終わらせる、というのは周囲に被害を出来るだけ及ぼさない、という目的の前にはあきらめた方がよさそうだった。
そして、竜は頭上から衝撃が来たことを理解したようで、即座に上を向いて火炎を吹いた。
バルバラの身体能力なら、即座にその場から離脱することもできただろう。
竜である以上、空中において推力を得る方法はいくらでもあるからだ。
しかし、バルバラはそれをせずに、その場にとどまり、そして熱く燃え盛る火炎が自分に迫るのを確認すると同時に、息を深く吸い込んだ。
ぷく、と頬を膨らませたその姿は若い女性にしては少しばかりはしたないような気もするが、そんなことは、次の瞬間に起こった現象の前には些事である。
直後、バルバラは吸い込んだ空気を思い切り火炎に向かって吹いたのだが、その口から吐き出されたのは空気だけではなく、大量の水と氷であった。
「霧氷吐息ですか……。あれは氷竜の中でも限られたものしか吐くことが出来ないものだと聞いていましたが……さすがは古代竜と言ったところでしょうか」
イリスが感心したようにそう言った。
ゾエがそれに頷いて、
「味方でよかったわ。いくら私たちでも……あれを相手にするのはぞっとするもの」
絶対に勝てないとは言わない。
ゾエやイリスだけならともかく、ルルがいる以上、そこについては確信を持てると言っていいのだから。
しかし、個人で相手をするのは厳しいし、負ける可能性が高い。
二人で挑めば勝てる可能性も生まれてくるが、それでもかなりの手傷を負うことだろう。
古代魔族をして、そこまで思わせる存在こそが、古代竜なのである。
だからこその台詞だった。
しかし、今はバルバラは完全な味方だ。
そんな心配はする必要がない。
「ちょうどよく隙もできたし、私、行ってくるわ」
そう言ってゾエが駆けだした。
バルバラが注意をひきつけている間に、竜の足元にたどり着き、ゾエは思い切り槍を振るう。
竜の片足をゾエの槍は正確に切り落とし、竜はバランスを崩しかける。
しかし、この竜もただでは倒れない。
不格好な、しかしそれだけ見れば美しい翼を広げ、ばたついて体勢をもとに戻し、火炎をバルバラからゾエに向けてきた。
いかに古代魔族とはいえ、直撃を受ければダメージを負うのは避けられないような熱量の込められた火炎であったが、しかしそんなゾエの正面にイリスがいつの間にか立っていて、結界を張り、火炎を逸らす。
少しばかり炎が森に燃え移ったため、消火活動も同時にしながらの芸当である。
どちらにも大きな魔力と高い集中力が必要な作業のはずであるが、イリスは涼しげな顔だ。
ゾエにも同じ事が出来るのかと聞かれれば、不可能とは言わないまでも、ここまで軽くすることは出来ないだろう。
「やっぱりお父様譲りなのかしら? いい腕よね」
とゾエが言うと、イリスは珍しく眉をしかめて、
「……あの人に似ている、と言われると微妙な気分になりますわ」
と、年頃の娘を持つ父親が言われたらすごく悲しい気持ちになるような台詞を言う。
しかし、ゾエもこの言い分には納得したらしく、
「あくまで腕の話で、性格のことじゃないわよ……豪快で素敵な方だったけど、女の子じゃ似たくないわよね……」
「その通りですわ。尊敬はしているのですが……」
掛け値なしにイリスが父バッカスを尊敬しているのは本当の話なのだが、それでもこのような奥歯にものの挟まったような物言いになってしまうのはルルを賭けて何度となく戦ったある意味でのライバルのような存在だからだろう。
ルルの近くに行きたい、と駄々をこねては「俺に勝ったらな」と言われて実際に戦い、幾度となく敗北をしているイリスである。
そんな気分になろうというものだ。
自分は側近という立場でずっと好きなだけルルのそばにいたのである。
イリスからしてみればうらやましいことこの上なかった。
実際のところこの認識は大幅に現実と乖離していて、バッカスは側近として激務をこなしており、ルルと馬鹿なことをして遊ぶために傍にいるような時間はイリスが考えるほど好き勝手に取るわけにはいかなかったし、イリスも自分の父がどれだけ責任のある重大な職務をこなしていたか知らないわけではないのだが、いつだって、イリスの中ではそれとこれとは別、となってしまうのである。
恋心のなせる業というべきか、恋はかくのごとく人を盲目にさせるものなのであった。
そんな複雑なイリスの心をゾエはなんとなく理解し、曖昧に笑うと、
「ま、バッカス様も生きておられるみたいなんだし、次に会ったときにでも戦ってみれば? 今のイリスなら……どうなるかわからないと思うのだけど」
と提案する。
実際、イリスの技量はゾエの目から見てもかなり高い。
少なくとも古代魔族とはいえ、一般的な兵士であったゾエとは隔絶したところまで来ているような印象がある。
今のイリスがかつての自分たちの国にいれば、おそらくは九人目の側近になったのではないかと思ってしまうくらいには。
イリスはゾエの提案を聞いてはっとした顔で頷く。
バッカスに会った時のことを、イリスはとりあえずぶんなぐろう、とか洗いざらいいろいろ聞こうとか考えていた割には、純粋に実力勝負の試合をする、という頭はなかったらしく、ここで初めてその可能性に考えが及んだのだ。
なんだかんだ言いつつも、イリスにとってバッカスは超えることのできない高い壁で、尊敬すべき国の重鎮であり、そして何よりも敬愛すべき父親だったということなのだろう。
そんな相手を実力で下そう、などとはそうそう考えないものだ。
だから、ゾエの提案を聞いたイリスは改めてそのことを考え、そして深くうなずいて答える。
「そう……ですわね。それは、面白い提案ですわ。お父様とまともに戦ったことなどついぞありませんでしたが……今なら……」
イリスはいつも本気で戦ってはいたが、バッカスは常に手加減をして、けがをなるべくさせないように戦っていたのだ。
あれをまともな戦いとは呼ぶことが出来ない。
しかし、今のイリスに対してそう言った戦い方をすればいかにバッカスと言えども勝つことは出来ないはずだ。
そう思えるくらいに、イリスは修行を積んできたつもりだった。
「審判は私と陛下がするわよ……ま、そのときを楽しみにしてるわ。じゃあ、私また行くわね……」
そう言って、ゾエは竜の火炎の勢いが弱くなった瞬間をとらえて結界の中から出て、再度竜のもとへ駆け出した。
イリスは森を保護するために結界はそのまま維持し続けた。
火の勢いは強いが、イリスの消火活動と、バルバラの吐息でもってその被害は最小限にとどめられている。
ちまちまと戦っている意味があるようだ。
それに、そろそろ戦いは終わる。
竜の力がどんどん弱まっていることには、三人とも気づいていた。
明らかにあの竜は不完全な代物で、このまま押さえていればいずれ自壊すると言わずともわかるような存在の仕方をしているのだ。
だからこその、この戦い方である。
できることなら、一撃ですべてを終わらせたかったが、周囲の被害を考えた程度の攻撃では竜を倒すことは出来ないらしい、ということはバルバラの蹴りで理解できたからだ。
あれは、一撃で竜を潰すべく放たれた攻撃であったのだが、結果として多少のダメージを与えた程度で終わったのだ。
このまま適度にダメージを与えていき、そしてその崩壊を待つのが一番良い選択であるのは間違いなかった。
それに、そういう方法によったとしてもそれほど長い時間はかからないだろう。
三人はそう確信していた。
実際、竜の体は時間が経つに従い、どんどんと崩れていく。
ゾエによって切り落とされた足からドロドロとした液体に変わっていき、徐々にその現象が体の上の方に上がっていくのだ。
羽毛の生えた美しい翼も、硬そうな角も、何もかもをかみ砕くような鋭い牙も、まるで粘土が水にさらされたかのように泥のごとく変わっていく。
「ぐあぉぉぉ………」
先ほどまで恐ろしい唸りを上げていた竜の声も、情けない叫び声に変わっている。
翼を伸ばし、空を飛ぼうとしても、ぼとり、とその両の翼が地面に落ちた。
崩壊の速度は徐々に加速し、そしてその崩壊が始まった数分後には、もはや竜はその形を保ってはいなかった。
体のすべてが泥へと変わり、泥の水たまりを作っている。
その中に、悲しげな顔をした竜の首だけが未だに意識を保っているように三人を見ながら口をカチカチと開いていた。
しかし、牙ももはやほとんどが溶けてなくなり、その根元の部分だけしか残っていないのである。
何もできないのは明らかだった。
「……哀れなものね。偽物とはいえ……同じ竜として、かわいそうに思うわ」
とバルバラが近寄って言った。
その言葉を理解したのか、どうか。
泥の竜は口を開くのをやめ、そして赤く輝く目を閉じた。
その様子に、バルバラは何かを感じたらしい。
「次は、ちゃんとお仲間として生まれてくるといいわ。そのときは、仲良くしてあげる……じゃあね」
そう言ってバルバラは手のひらを開き、竜の首に向けた。
そして次の瞬間、その手のひらから何か衝撃波のようなものが放たれ、竜の首は跡形もなく消滅したのだった。
バルバラはゾエとイリスに向き直り、
「……二人ともありがとう。お蔭で森にも大して被害を及ぼさないで倒せたわ……。なんだかあんまり後味良くないでしょうけど……」
そんなバルバラに、ゾエが首を振る。
「いいのよ……そもそも、責められるべきはこんなものを作った誰かだわ」
と言い、イリスの頷く。
「その通りです。けれど……いったい誰が。あの少女なのでしょうか……」
イリスがこの場に来るついでに持ってきて、結界に閉じ込めておいた灰色の少女を見ながらそうつぶやいた。
「それはわからないけど……ともかく、まずは街に戻りましょうか。何か目が覚めれば聞き出せるかもしれないし」
ゾエが言ったので、イリスも頷く。
バルバラそんな二人に言った。
「さっき伝えた連絡も忘れずにお願いね……じゃあ、ありがとう。街の人たちには、いずれまた行くとも伝えておいてね」
そうして、ゾエとイリスは街へと向かう。