第216話 女の戦い
「……さて、もう観念したということでよろしいですか?」
深い森の中でイリスがそう言葉を発すると、彼女が語りかけた方角からくつくつとした不気味な笑い声が聞こえてきた。
「ははは……おまえ、おもしろいこと言うな? 観念だと? そんなことするわけが、ねぇじゃねぇか」
そこにいたのは、灰色の髪をボブカットにした一人の少女である。
もしここに冒険者組合の人間がいれば、あの少女は冒険者組合で大暴れをして、捕虜の少女を殺そうとし、その上でフィナルの街から悠々と逃げていったあの少女である、と叫んでいただろう。
けれど、ここにそんな事情を知る者は一人もいない。
いるのはイリスと、この少女ただ二人であった。
イリスは少女の言葉に首を傾げ、尋ねる。
「はて……他に貴女が止まる理由など、私には思いつきませんが……差し支えなければ教えていただいても?」
「この程度のことが分からないとは、俺の目的をことごとくぶっつぶしてくれた割にフィナルの奴らも案外頭の働きが鈍いらしいな? 期待して損した気分だぜ」
吐き捨てるようにそう言った少女に、イリスは返答する。
「たかがあの程度の魔物と人型を差し向けた程度で何か達成するつもりだったのですの? 随分とおめでたい頭をしてらっしゃるのね。私、久しぶりにおなかの底から笑ってしまいそうですわ」
イリスはそうして本当に微笑んだのだが、明らかにその眼は笑っておらず、むしろ鋭い感情がそこに宿っているように感じられる表情をしている。
ルルが見ればとりあえずその場から少し距離をおくことを考えるような、そんな顔であった。
しかし、相手の少女も負けてはいない。
上品な貴族的な笑みを浮かべるイリスとは異なり、野卑で挑発的な笑顔の彼女は、イリスに返す。
「はっ。人型? なるほど、あいつらをそういう風に呼ぶのか……知識の足りないおまえに教えてやろう。あいつらは"疑似魔族"と言うんだよ。魔物から作り出した、偽物の魔族。よく、覚えておくといい。何せ、おまえの冥土の土産になるんだから、よ?」
そして、彼女の笑顔が消え、空気がピンと張りつめ出す。
やる気だ、とイリスは感じたが、しかしこの少女はどうもいろいろと知っているらしい。
もう少し情報を引き出せるときに引き出しておきたいと、自分も警戒を強めつつ、話を続ける。
「"疑似魔族"、ですか。新しい知識をどうもありがとうございます。私、寡聞にも存じ上げませんでしたわ。しかし……その名称から察するに、古代魔族と何か関係がありまして?」
その質問に、少女は意外そうな顔をして、
「へぇ? 随分といい勘してるじゃねぇか。普通なら、現代の魔族を思い浮かべるもんだと思うんだがな」
と言った。
現代にも、一応、"魔族"と呼ばれる種族はいる。
しかし、それは"古代魔族"とは全く繋がりのない種族であるとされている。
名前だけが似ている、別種族というわけだ。
とはいえ、名前が似ているのだ。
もしかしたら何か古代魔族と関係があるかもしれないとは思うところで、ルル達も一度は会ってみたいと考えているのだが、活動の拠点が別大陸らしいのでそう簡単に会いにもいけずにいるという事情があった。
ただ、名前と存在だけならこの大陸でも一般的に知られているのは間違いない。
そして少女は疑似魔族、と言ったのだから、そちらの魔族の方を思い浮かべるのが普通だと思ったのだろう。
古代魔族など、現代においてはただの夢、伝説の類で、現実に存在するのは現代の魔族の方なのである。
実際、ただ"魔族"と言った場合にはこちらの方が頭に上るのが普通だ。
ただ、ルルやイリス、それにゾエなどはその用語法に未だ慣れていないだけである。
魔族と言えば、古代魔族、自分たちのことだという意識がまず第一にあるのだ。
そういった諸々にイリスは特に触れることなく、適当にはぐらかした返答をする。
「……知り合いに古代魔族フリークが何人かおりまして。私たちの間で"魔族"と言ったら古代魔族を指すのですわ」
「へぇ? また夢のある集団だねぇ。酔狂な阿呆どもともいえなくもないが。ま、そいつはいいか。本題は疑似魔族が古代魔族と関係があるか、って話だったな。そこは何とも言えねぇな。あるようなないような……」
ここに来て、少女もまた話をはぐらかし始めた。
冥土の土産、とか言いながらも重要なことは教える気はないということのようである。
話術でどうにかなりそうな雰囲気でもなく、イリスはここで情報を話し合いで引き出すのをあきらめた。
「そうですか……では、体の方に聞いてみることにします。そうすれば、きっといろいろなことを話してくれそうな気がいたしますので」
「そうか? 俺もそうさせてもらおうかな……あぁ、そういや、おまえ、ここでこんな風に油売っていてもいいのか? おまえの街……フィナルは、今大変なことになっていると思うぞ?」
といやらしい笑みを少女は浮かべる。
何か少女はイリスがフィナルの人間であると勘違いしているらしい。
しかし、別にその勘違いを正す必要もないだろう。
それに、この少女はイリスの事を動揺させようとしてこんなことを言っているようだが、それは残念ながら間違いなのである。
少女の余裕を崩すべく、それを教えてやることにした。
「フィナルが大変なことに? それはもしかして、犠牲魔術のことをおっしゃっているのですか?」
犠牲魔術、という単語が出たことに少女は目を見開き、そして先ほどより余裕なさげに尋ねてくる。
「お前……それを知っているんだな? しかも使われたことまで……」
「ええ、まぁ。私は貴女から見れば物知らずなのかもしれませんが、意外と物知りな面もありますのよ」
「そうかよ……だが、知っているからなんだと言うんだ。あれは、知識があるからと言ってどうにかなるもんじゃねぇ。それに、お前は今、ここにいる。どうにもすることはできないだろう……」
自分に言い聞かせるようにそう言った少女。
けれどイリスは止めにと笑いながら言ってやった。
「ふふふ。何も知らないのですわね、本当に。誰が使ったのかは分かりませんが、あの犠牲魔術、かなりの効果を及ぼしたようですが、すでに鎮圧されましたわよ?」
「な、なにっ!? 馬鹿な。使ってからまだ三十分も経ってないんだぞ! そんなわけが……」
「ふふ……気になるのなら、改めて見に行かれては? まぁ、その前に、私を倒すことが出来たらの話ですけれど、ね」
そうして、イリスが地面を踏み切った。
古代魔族の強力な身体能力と魔力強化による加速である。
少女はその余りの速度に目を瞠った。
少女の目には、イリスが穏やかで自信過剰な冒険者気取りの子供にしか見えていなかったのだが、現実は思いのほか、自分にとって厳しいところにあるとここに至って確信せずにはいられなかった。
イリスの語った話もそうだ。
少女がフィナルを混乱させるべく、そしてあわよくばあの街を破壊すべく使用した犠牲魔術の存在を知っていたばかりか、すでにその危難を避けたのだと豪語する様子は一見ただの虚勢にしか見えなかった。
けれど、その瞳の語るところ、笑み、仕草、イリスの行動すべてに、なぜか強烈な自信と信頼を感じたのだ。
それが一体何に起因するものなのか、初めてイリスに相対した少女には理解することは出来なかったが、それがわかったとき、確かにイリスの語る通り、自分の積み上げてきた多くの資源を犠牲としたあの魔術は真実、鎮圧されてしまったのだろうと理解できてしまった。
そんなことはありえない。
そういう心の声が自分の胸に耳を澄ませればふつふつと聞こえてくるのだが、しかしそれでも少女は今までずっと自分の中にある天使の呼び声とも言うべき素直な感覚に従って行動してきた。
その結果、失敗したと思ったことは少なくないが、それでも後悔をしたことは一度たりともない。
理屈や合理は計画を組み上げ遂行していくためには非常に大事な要素であることは重々承知しているが、それでも最後の一押しは自分の最も強く持っている感情に求める。
それが、少女のやり方だった。
今、そんな少女の心は、非常に大きな警戒音を鳴らし続けている。
目の前の存在は、今ここで排除しなければ後々大きな障害となり、ありとあらゆる場面で自分の邪魔になると、そう教えているのである。
フィナルからこのログスエラ山脈の戦場に辿り着き、程無くしてイリスに見つかった少女であったが、そのときはまだ、さして焦ってはいなかった。
けれど、イリスに追いかけられて時間が経っていくにしたがって、得体の知れない焦燥が自分の背筋を舐めるように這い上がってくるのを感じたのだ。
それを人は恐怖とか嫌な予感とか呼ぶのだと少女は自覚していたが、なぜ自分がこんな若く華奢な娘にそんなものを感じているのかは、ずっと分からなかった。
けれど、今は違う。
この娘は、明らかに脅威であると、はっきりと認識している。
向かってくる速度もさることながら、その動きには少女の逃げ道を的確に塞いでいく経験の裏打ちが感じられた。
どの方向へと足を踏み出しても、確実に自分の動きを潰してくるだろうと言うことが目の前の娘の動きを見るだけで理解できた。
――こいつは一体何なんだ?
深いところでその答えを知りたいと疑問が湧きあがってくる。
こんなものは、自分の計画には存在していなかった。
ログスエラ山脈の古代竜が戻ってきたと言う事を知った時にも計画が失敗へと転がっていることは感じていたが、今はそれ以上だ。
自分が、古代竜よりも危険だと本能的に感じるこの娘は一体――
けれど、そんな疑問に答えなどもらえるはずがないだろう。
直接聞いて、その正体なりなんなりを喋りそうもないのは、先ほどの厭味たらしい問答で既に分かっている。
自分も相当に性格が悪い返答をしたことは理解しているが、向こうも向こうで性悪である。
お互い様、というのは分かっているが、それはつまり同族嫌悪に結びつくのだ。
口調や仕草はまるきり正反対の二人であったが、その心の根のところはもしかしたら似ているかもしれないとお互いに感じていた。
「……くそ。逃げ道が見当たらねぇな。まぁいい。かかってこいや!」
様々な疑問を抱えたまま、しかし少女はそんなものは後にすべきだと振り捨ててどこかから取り出した武器を構えた。
それは神々しい輝きを放つ片手剣である。
それを見たイリスは、
「……聖剣?」
とぽつりと呟き、少女はその一言に笑って、
「……本当に詳しいな、お前。その知識、どこで得たのかそれこそ体に聞いてやるから覚悟しやがれ」
と言って剣を振りかぶる。
「それはこちらの台詞です……」
イリスはそう言ってその拳を少女に向けた。
気づいた時にはイリスは既に少女の懐に入っていて、少女が剣を向ける暇も無くその拳が突きこまれ、少女に命中する。
手ごたえを感じたイリスは、若干口角を上げるも、吹き飛ばされていく少女がその最中で未だ剣でイリスを狙っていたことを理解して驚く。
ざくり、と肩口に痛みを感じたイリスは、驚きながらも微動だにせず、冷静にそれ以上深く切られないように体をずらした。
幸い、その対処がうまくいき、あまりイリスの傷は深くならずに済み、対して少女の方は思い切り吹き飛ばされることになったが、追いかけたイリスが辿り着いたその場所では、少女が既に立って剣を構えてイリスを見つめていた。
「やりますわね……攻撃をまともに当てられるとは思ってもみませんでしたわ」
イリスが現代においてまともに攻撃を喰らったのは数えるほどしかない。
そのため、その言葉は素直な賞賛と、そして忌々しさが混じった攻撃的な台詞だった。
そんな言葉を向けられた少女の方は、やはりはっきりと命中したイリスの拳撃が大きなダメージを与えたようで、
「……その程度の傷でそんなに褒められたらたまったもんじゃないがな……大体その馬鹿力はなんだ、馬鹿力は。お前本当に人族か?」
実際は古代魔族だが、少女から見ればイリスは人族にしか見えないが故の台詞だった。
しかしイリスは特に間違いを正すつもりはない。
「そんなに褒められると困ってしまいますわ。さぁ、まだまだ味わい足りないでしょう? もう一撃、いかがかしら?」
とぎりぎりと握った拳を見せつつイリスが呟く。
すると少女は吐き捨てるように、しかし若干余裕ある笑みを浮かべて、
「もう腹いっぱいなんだよ……それに、お前、そんな余裕、あるのか?」
と尋ねてきた。
イリスは、
「なにを……っ?」
と答えるも、突然、がくりと自分の体から抜けるものがあることをに気づく。
少女はそんなイリスを笑って見つめ、
「よしよし、効いてきたな? 魔力が、感じられないだろう?」
と言って、その持つ剣の切っ先をイリスに向けて、勝ち誇ったような表情をした。