第214話 連絡
全てがまるで夢だったかのように辺りが完全な無音になったフィナル北門側の戦場。
その中心で、魔法陣とその場の全ての騎士・冒険者達の周囲に張られていた結界が、ぱんっ、と音を立てて空気中に解けて消えていった。
そしてそれと同時に、今まで巌のような存在感で戦場のど真ん中で強大な魔術の嵐を発生させていたルルが、まるで気の抜けた風船のように希薄な気配と共にぐらりと崩れ落ちる。
その様子を戦場の者達は全員が目撃したが、しかしそのほとんどが腰が抜けて立ち上がれず、また腰が抜けていない者にしても、"彼"に果たして触れていいものかどうかと悩んでとっさに駆けつけることができなかった。
しかし、そうではない者も中には居て、そのうちの一人、いや一匹が疾風のような音を立ててルルの後ろにたどり着く。
ぽすり、と軽くふわりとした感触のものに寄りかかったことをルルは失いそうな意識の中で認識し、ふっと見上げると、そこにいたのは少し体躯の小さめな地獄犬、シュゾンであった。
彼女の頭の上では小竜のニーナが心配そうに鳴いていて、ルルは二匹に笑いかけて力なくつぶやく。
「……なに。少しばかり無理をしてしまっただけさ。昔ならこれくらい余裕だったんだが……」
その言葉の意味を理解したのは事情を把握しているニーナだけで、シュゾンの方は正確な意味が分からずに首を傾げていたが、しかしともかくルルが疲労困憊なのは間違いない。
あきれたような顔で、
「人族があれほどの力を振るえばそうなって当然だ……しかも、二度もなどと。古代竜ですらおいそれとは使わないほどの魔力の奔流だったぞ。一体、ルル殿、あなたは何者なのだ……?」
聞いておきながら、答えは特に求めていないらしい。
疑問に思ったのは本当だろうが、ルルの意識がはっきりとしているか確かめたかっただけの雑談のようだった。
それを理解したルルは、
「俺が何者なのかは、正確なところは俺にも分からないけどな……」
と朦朧としつつある意識の中で答える。
実際、自分が何者なのかと聞かれれば、本当のところは分からない、と答えるしかない。
確かに、過去は魔王のルルスリア=ノルドで、今は人族のルル=カディスノーラだという明確な答えはある。
けれど、なぜ自分が一度死んだはずなのに、もう一度生を得て、しかも人族として生きているのか、その意味は分かっていない。
もしかしたら何の意味もなく、ただの巡り合わせで、つまりはルルの過去の努力を見てくれた何者かがくれたボーナスのようなもの、なのかもしれないが、しかし、ルルにはそんな気はしなかった。
何か、意味がある。
そんな気がしてならなかった。
そしてそこまで考えてから、ルルはふっと、自分たちの置かれている状況を思い出す。
「そうだ……魔物達は……残りは、いないな?」
おそらくは大丈夫なはずだが、いつもなら万全のはずの知覚も今は少し乱れている。
自分だけの感覚に頼るのは危険な気がしたがゆえの質問だった。
すると、
「おう、問題ねぇぜ。お疲れだったな、ルル」
とシュゾンではない別の声が上から降ってきた。
誰かと思って見ると、そこに立っていたのはクロードだ。
隣にはオロトスもいて、彼の方はしゃがんでルルの方を見ている。
「正確なところは今、冒険者や騎士達が確認しているが、見た限り周囲に残党は存在しない。ルル、お前の魔術のお陰で全ての敵が葬られた。死傷者も、あれだけの数の敵がいたにも関わらず、きわめて少ない……ルル、本当に助かった。お前がいなければどうなっていたかと思うと……恐ろしい」
と、目に涙を浮かべつつ感謝を述べてくれるオロトスは善良なのだろう。
彼の後ろに彼の護衛をするために冒険者達が何人かいるが、そのうちの数人がルルを見る目はまるきり化け物を見るそれである。
分かっていたとは言え、少しやりすぎたのかもしれない。
オロトスもそんなルルの内心に気づいてか、
「すまないな……お前のやったことは、褒められこそすれ、蔑まれるようなことではないというのに……」
「いえ……自覚しています。少しばかり、やりすぎました。ただ、そう何回もできることではないので、おそれるほどのものではないと後でこの場にいた人たちには伝えておいてくれますか? 流石にあまり忌避するような目で見られるのは趣味ではないので」
と冗談混じりに言ったが、それなりに傷ついているルルであった。
オロトスは胸を張り、任せておけと言ってくれたので、まぁ安心していいだろう。
それから、ルルは気になっていたことをシュゾンに尋ねる。
「ここのことはもう安心だろうが……山の方はどうなっているか分かるか?」
イリスたちが向かったそちらも不安だ。
もし、ルルが最後に相手をしたような者が向こうにもいれば、山の魔物とは言え被害は免れないだろう。
ルルが喚びだしたものが特殊だったから腹に収めても何の問題もなかっただけで、通常の魔物があれを口にすれば、この戦場にいた戦士達のようにダメージを受けるのは確実である。
ルルの言葉にシュゾンは、
「いや、向こうも余裕がないのか、連絡が来ていない。鳥など飛ばせないような状況なのかもしれないな。ルル殿の方で、何か連絡手段があると聞いていたのだが、そちらはどうだ?」
と言われたのでルルは腕輪をあげてシュゾンに見せる。
「これが、一応そうなんだが……」
それを見て驚いたのはオロトスやクロードである。
長距離連絡用の魔法具、というものは現代にも確かに存在していて、各冒険者組合などの施設には備え付けられているものだが、ルルの示したそれは大きさがけた違いに小さかったからだ。
あれほどの小型化は、現代の技術ではまだできていない。
しかし、今この場でそれを追及するのもルルの状態を見れば問題であり、後で尋ねようと思った二人であった。
そんな二人の内心など知らないシュゾンはルルに言う。
「使ってみては?」
「いや、ちょっと今は、魔力を通すと体に激痛が走ってな。こいつは装着者の魔力を使用するタイプの魔法具だから、使えないんだ。経験上、俺はこうなると三日は魔術を使えない」
と恐ろしいことを言う。
「重傷ではないか!」
と言ったシュゾンだったが、ルルは笑って、
「まぁ……確かにそうなんだが、今回のことは仕方ないだろう。ああするより他に手段はなかったからな。それより……別に俺の魔力じゃないとだめってわけじゃないんだ。代わりに使ってみてくれないか? あぁ、念のため言っておくが、相当魔力持って行かれるから気をつけろよ。お前なら……だいたい三分話せば半分もってかれる」
そう言って、ルルは腕輪を外し、シュゾンに差し出す。
シュゾンは、ルルの魔力量に対する言及に顔をひきつらせ、
「恐ろしく効率が悪いな……」
と言ったが、受け取らないわけにもいかない。
こちらの戦いは終わったのだ。
それくらい持って行かれても、死ぬわけではないのだからと自分に言い聞かせ、けれど触れた瞬間に干からびるのではないかと恐怖しつつ受け取ったシュゾンであった。
しかし、受け取っても特になにも起こらなかったので、シュゾンはほっと息を吐く。
「……それで、どうやって使うのだ?」
と尋ねたシュゾンの顔を、ルルは笑って見つめた。
どうやらルルにはシュゾンが怯えていたのが丸わかりだったらしい。
しかしそこに触れないだけのデリカシーはあったようだ。
笑いつつも、しっかりと使い方を説明する。
「魔力を通せばそれでいい。イリスとゾエにしか繋がらないから、特にそれ以外の手順は必要ないんだ。やろうと思えば、いくつかの別のところに繋げられるようなものも作れるんだが……お前が言ったとおり恐ろしく効率の悪い魔法具だからな。できるだけさっさと繋がることを重視して設計したんだ」
ルルの説明にうなずき、シュゾンはおそるおそる、腕輪に魔力を通しはじめた。
最初はそろそろと魔力を吸収されるような感覚で、これなら、とほっとしていたシュゾンであった。
けれど、ある一点を超えると急に、ぐんっ、と体に巻きつけられた紐を思い切り引っ張られるような感覚がして、恐ろしい速度で魔力が吸収されはじめた。
「る、ルル殿!」
怖くなってルルを見たシュゾンであったが、
『……お義兄さま? どうかされましたか』
と聞こえてきた声に頷いてルルはそちらと話し始める。
「あぁ、イリスか。そっちはどうだ? 大丈夫か?」
まるで世間話をはじめるような長閑な様子に、ルルの周りにいたものはなんだか気が抜ける。
ただ、シュゾンだけが目減りする魔力量に恐怖を感じていたが、ルルがシュゾンの目を見て頷いたので、もしものときはどうにかしてくれるのだろうと腹をくくった。
『ええ、特には……。少しばかり量が多いですが、今のところ山の魔物側が押しておりますわ。二人ほど、おかしな者が混じっていて戦場をかき乱している節がありますが……片方をゾエさんが、もう片方を私が追いかけているところです。お義兄さまはいかがですか?』
「こっちはあらかた片づいたぞ。しかし結構危険な奴が現れてな。犠牲魔術を使ってきたからこっちもそれなりの対応をしてやったぞ」
『犠牲魔術!? あの忌まわしい技術が今でも残っているのですか……。しかし、どのような方法で屠られたのですか?』
イリスの中ではたとえ犠牲魔術だろうと何だろうと、ルルが屠ったことに疑問を差し挟む余地はないらしい。
ごく自然な様子でそう言った。
ルルは、
「あぁ……"暴食の鳥"を喚んで食わせた。いやぁ、美味しそうにばくばくいってくれたぞ」
『おじさまっ!? なんてものを……大丈夫だったのですか? 一歩間違えれば、この世に地獄が……。おじさまにそのような心配がないと分かってはいても、肝が冷えます……』
と珍しく怯えたような声を出すイリスである。
「俺もやりたくはなかったんだが、他に思いつかなくてな。仕方ない」
『それほどの敵だったのですか……となると、こちらもあまり油断しては危険、ということですね』
「だろうな。イリスとゾエが追いかけているそいつらはもしかしたら相当やばい奴かもしれないぞ。もし危ないと思ったら一目散に逃げていいぞ。バルバラにもそう伝えておいてくれ」
『ええ、分かりました。それで……お義兄さま』
「なんだ?」
『この連絡魔法具、どうやらそちら側はお義兄さまの魔力で稼働しているわけではないようですが……』
と鋭いことを言われる。
ルルは慌てて、
「な、なにを言ってるんだ……」
『分かりますよ? 少しばかりノイズが入っていますので。その魔法具、私たち用に調整してありますから、他種族が使うと少しばかりノイズが入るのです……ご存じなかったのですね。それにしても……その魔法具が使えないほどに消耗されたということでしょうか……大丈夫なのですか? もしや、魔力を使い果たされたのですか?』
最初の方は少しばかり詰問するような口調だったが、最後にはひどく心配するような声色に変わっていたので、ルルは申し訳なく思う。
「いや……少し疲れたが、問題はない。魔力は今はシュゾンに借りてるんだ。そろそろ無理そうだからこの辺で切るが……無理はするなよ、イリス。ゾエにもそう伝えておいてくれ」
『はて、この通話はゾエさんにも聞こえているはず……』
『大丈夫よ、聞いているわ。二人で話したかったんじゃないかと思ってちょっと気を利かせ……』
『ぞ、ゾエさん! では、お義兄さま! 私たち、さっさと片づけてすぐに戻りますので!』
ぶちっ、と音がなって急に切れた。
その様子に、何ともいえない顔を浮かべているのは、ルル以外の、その場で通話を聞いていた者達である。
特に最後のやりとりはあれすぎて、どう触れていいものか全員が迷っていた。
しかしルルがあっけらかんとその鈍感さを披露し、
「……大丈夫そうだな。ただ、二人が追いかけているという奴らが気になるが……」
と話し始めたので、その場にいる者達は触れないことに決めたようだ。
クロードが、
「あぁ、それは確かにな。ここの戦場にもいた少し強めの人型みたいなのが他にもいるってことかもしれねぇし、油断はできねぇ……」
と言い掛けたところで、
「クロード様! オロトス様!」
と、誰かが北門側から走ってきた。
何か連絡を持ってきたらしく、呼ばれた二人が彼の方に近づいた。