第213話 古い魔法
「……遅かったか」
目の前に屹立する物体を見てそうつぶやいたのはルルである。
そこにあったのは先ほどまでゴライアスだった物体だ。
いや、未だある意味では"原型"を保ってはいるがもはやそれをゴライアスだと呼ぶことは出来ないだろう。
短角に一つ目がその特徴であった巨人ゴライアスだったが、今の彼はもはやそんなものではない。
どろどろとした赤黒い何かに包まれた人型の何かであり、内側から鼓動するようなテンポでどくりどくりと拍動のごとく輝きを放っている。
しかも、彼に向かって、戦場のありとあらゆる位置から粘性のある紐状の物体が伸びてきていて、それはゴライアスだったものにくっついては吸収されていくのだ。
その根本をたどれば、それぞれがこの戦場にいる人型たちにつながっているのが見え、ゴライアスに彼らから伸びる紐がくっつくと、時間が経過するに連れて徐々に体積が小さくなり、最後には跡形もなく消えてしまった。
「すべての人型が、融けてくっついている……?」
つぶやいたルルだけではなく、戦場の誰もがその光景を見てそう考えた。
なにが起こっているのか正確には理解しかねるが、何らかの魔術によってこの状況が作り出されていることは明白である。
このまま放っておいても事態が好転しないことは誰の目にも明らかだった。
だからだろう。
戦場にいる冒険者たちが率先してその根本を断つべく、存在を吸収される途中の人型に向かって剣を振り上げた。
少なくとも倒せばその現象は一部とは言え止まるのではないか、という至極簡単な理屈に基づく行動であり、赤黒い巨人に直接向かっていくよりかはよほど可能性のありそうな方法であったのは間違いない。
しかし、ことはそう簡単なものではなく、事態は彼らの望まない方向へと進んだ。
剣を振りかぶり、そしてその剣が人型にぶつかった瞬間に人型達は、ぱんっ、と破裂したのだ。
それだけならまだ、想像通りだったかもしれない。
けれど、破裂した人型の破片はその後、どろどろとした液体に変化して地面を這い回りはじめ、そしてそれに触れた者たちの肌を溶かし、また腐らせたのである。
「うあぁぁぁぁ!!」
と言った叫び声が、そこら中に響いた。
傷ついた者たちの周りに即座に治癒術師たちが集まり、回復魔術をかけていくが、
「き、効かない……!?」
あまり効き目がないらしく、せいぜいが進行を遅らせる程度の効果しか及ぼさない。
そのことが判明した瞬間、戦場は地獄と化した。
「くそっ……最後の最後になんてことしてくれるんだ……!」
ルルがそう叫ぶも、どうにもならない。
そんなことをいいながらも、そこら中を這い回る人型の破片から逃げる者たちに結界を張っていくが、それだけでは彼らの身を守ることは出来ても事態を収束することはできないのだ。
「あいつをつぶすしかないか……」
そもそもがそれしかないのは明らかだった。
あまり目立ちたくない、というのもあって、ゴライアスの方は冒険者や騎士たちに任せたかったのだが、これ以上はそんなことも言っていられない。
幸い、体も回復しつつある。
もう一撃くらいなら魔術大砲を一発放つことも出来るだろう。
そして、決断してからは早かった。
ルルは拡声魔術を展開し、戦場全体に聞こえるように叫ぶ。
「全員、今すぐ伏せろぉぉぉぉ!」
それと同時に魔術を編み始めた。
複雑な魔法陣がルルの周囲に展開されていく。
平面的ではない、立体的な、しかも二重三重にルルを包み込むような形に構成されていくそれが恐ろしい力を秘めていることを、戦場の魔術師たちは察知し、怯えながら地面に伏す。
あれは、危険だ。
あれに近づけばただでは済まない。
理屈ではなく本能でそれを理解した彼らはかなり優秀であると言えるのかもしれない。
そこまでの魔力感知能力のない、身体強化のみに魔術を使用する戦士たちは慌てて伏せはじめた仲間の魔術師たちに首を傾げ、むしろルルの周囲に展開されるそれを芸術的な美しさのあるものとして感嘆していたくらいだ。
しかし、そんな風に呆ける彼らの衣服をひっつかんで魔術師たちが伏せるように叫ぶあまりの必死さに首を傾げながら慌てて地面に伏せた。
それからのことは、彼らの記憶に終生残る出来事だったと言っていいだろう。
魔術師たちも、怯えつつもルルの放つ魔術に対する興味は隠せないようで、ほとんど地面に顔をすり付けるような低さまで体を伏せつつも、目だけはルルの方を向いて瞳を血走らせながら目に焼き付けるべく瞬きもせずにルルのそれを見つめた。
魔法陣の構成一つ見逃さないつもりでのことだった。
しかし、魔法陣の作りそれ自体もさることながら、魔力の通し方や、そもそも使用されている魔力量のあまりに膨大なこと、さらにはルルの魔力の扱いの巧みさがばりばりと火花と雷撃を迸らせるルルの周囲の空間から察せられ、あれを再現することは不可能だと気づくことになる。
ただ、それでも魔術師として見ておきたいという本能は止めることは出来なかった。
その場の魔術師たちは、ルルの詠唱をはっきりと聴いた。
「『古き契約に従い、我が前にあるものすべてを食い尽くせ……暴食の鳥』」
その詠唱に、魔術師たちは驚く。
それは古き魔術の一つ、古式契約魔術と呼ばれるものだったからだ。
古式契約魔術、それは遙か古代、人が今よりもずっと強大な力を持っていたときに、異界の存在と、種族そのものを結びつけて、必要なときに力を借りることを約したと言われる失われた魔術の一つである。
一般的な魔物や精霊との個々の契約魔術とは根本から異なるそれは、使用するには莫大な魔力と、種族固有の魔力が必要であると言われる。
人族であれば、禁じられてはいるものの、力とやり方さえ知っていれば誰もが使うことが出来ると言われる死霊魔術などが代表的で、この場合、古代に人族と死霊との契約を結んだ誰かがいた、ということになる。
しかし今、ルルが使おうとしている魔術はいったい何なのだろう。
死霊魔術ではない。
ほかのいくつか存在する人族固有の古式契約魔術とも違う。
喚ぼうとしているものを見れば、わかるかもしれないが……。
そう思って見ていると、ルルの周囲の魔法陣に変化が生じた。
水面に波紋が広がるように、ルルの魔法陣それぞれが揺らぎ、そしてそこから次の瞬間、大量の浮遊物体が飛び出してきたのだ。
「あれは……鳥?」
誰かがそうつぶやいた。
高い音を立てながら、ルルの魔法陣から飛び出してきたそれは、全身漆黒の鳥である。
しかしながら、その大きさは一匹一匹が人の背丈ほどもあって、巨大である。
それが大量にわき出して、戦場に広がっていくのだ。
いくら地面に伏せていると言っても、恐ろしかったのは言うまでもない。
戦場の上空すべてを覆い尽くしていくその鳥は、空を一旦曇り空のように真っ黒に染め上げる。
そして、時が止まったかのごとく、空に絵の具で塗りつぶしたような艶のない黒を出現させた。
それを見上げた戦場の者たちは全員、肌が粟立つような感覚を覚えた。
何か、見てはいけないものを見ているような感情に陥ったのだ。
大量の黒の中に、赤く輝く光が見えた。
あれは目だと、誰もが確信を持った。
そしてその赤い目は、戦場全体を舐めるように見つめる。
そこにあるすべてを見ていることは、その場にいる誰もがわかった。
ひどく気持ち悪いのだ。
何か、ざらざらとした感触を持つ舌に舐められているような、生理的な嫌悪が肌に走ったのだ。
「なんだ……なんなんだこれは……あの少年は本当に……本当に我々の……」
……味方なのか?
そこまで言葉が出掛かったものも少なくなかった。
しかし、それを言ってはならないことは、少し考えればわかることだ。
彼がいなければ、おそらくフィナルの戦士たちは今よりもずっと劣勢に立ち、厳しい戦いを強いられることになっていただろうから。
それに、自分の周囲を見ればわかる。
戦場にいるフィナルの戦士たち全員の周囲にいつの間にか結界が張られているのだ。
おそらくは、あの少年の仕業だろうと魔術師たちは理解していた。
いったい、どれほどの力を持っているのか。
これだけの数の結界を同時展開する技量もさることながら、これをやりながらあれだけの魔術を構築し、維持し続けている集中力。
許されることなら、あれは化け物であると大声でののしりたくなるくらいに、魔術師たちの頭の中は沸騰していたと言っていい。
しかしだ。
それでも口に出せないのは、ただルルに対して彼らが恩人に対する感謝の気持ちを感じていたからというだけではない。
ただ恐ろしかったのだ。
それを言ってしまったときに、あの少年の力が自分たちに向けられるのではないか、と思ってしまったからだ。
そうなったときに、いったい誰が彼を止められるというのだろう。
自分が?
いや、そんなことは不可能だ。
そんなことをするくらいなら、鬼人の群の中に裸一貫で飛び込んでいった方がまだ生存確率が高そうな気がする。
それに、死に様もきっとましだろう。
あの少年に敵対すれば、死ですらも何か恐ろしい暗闇に汚されそうな気が、今はしてしまうのだ。
だから、冒険者も騎士も、その場で出来ることは一つしかなかった。
「……神よ……」
そう、いるかどうかもわからない、不可視の存在に心の底から祈るくらいしか、出来なかった。
その願いが通じたのかどうか。
ルルの現出させた無数の漆黒巨大鳥たちは高空からの観察を終え、降下をはじめた。
どうか自分たちには襲いかかりませんようにと願った者たちには触れることもなく、むしろ、彼らの周りをずるずると気色悪く這い回る人型たちの破片たちに飛びかかっていく。
フィナルの戦士たちが触れれば即座に溶解し、また腐食していったその存在であったが、漆黒鳥たちにはまるで関係がないようで、長く暗い色をした嘴を開き、その中の赤を見せた次の瞬間にはその腹の中へと補食されていった。
その光景を見た者たちは誰もが悪食にもほどがあるだろうと顔をしかめたが、しかしその漆黒鳥たちが何の痛痒も覚えないで人型の破片を処理できているというのは冷静に考えれば素晴らしいことであるのは間違いない。
時間が経つに連れ、徐々に減っていく、人型の破片たち。
そして改めて見上げてみれば、人型の破片たちが集約しようとしていた赤黒い巨人も、何百羽、何千羽という漆黒鳥達にとりつかれ、暴れてどうにか逃れようとしている有様である。
すべての漆黒鳥達が少しずつ巨人の一部をぶちりぶちりと食いちぎっていき、その体積を徐々に減らしていくのだ。
そして巨人はだんだんと小さくなっていき、またその足は自分自身の体重を支えきれないほどに傷ついて、バランスを崩し倒れていく。
巨人の周囲で伏せていた者があわやつぶされる、とその様子を見ていた者は気が気でなかったが、ルルの気遣いは完璧だったようで、巨人の下敷きになるような位置にいた者は結界ごと遠くに運ばれていった。
それからはすべてが嘘のような速度で片づいていく。
漆黒鳥たちが群がった巨人はしばらくの後、跡形もなく食い尽くされ、また戦場全体に広がっていた人型の破片達も跡形もなく彼らの腹に収まった。
残るは彼らに融解させられ、また腐食させられた無惨な地表だけである。
それを確認したルルは、
「……終わった、な……」
と冷や汗を垂らしながらうなずき、それから紐を引っ張るような仕草で手を引いた。
すると、辺りに広がっていた漆黒鳥たちが吸い込まれるようにしてルルの周囲に展開された半球状の魔法陣に吸収されていく。
漆黒鳥達はむしろ、魔法陣の中には帰りたくないようで、反対の方向に向かって飛び去ろうと羽を動かしているが、ルルの力の強制力には敵わないようでどんどんと吸い込まれていった。
それを見て血の気が引いたのは、古式契約魔術について詳しい魔術師達である。
それによって契約できる相手は基本的に限界はないが、現世に呼び出すことは出来てもその後のことについてはなにも保証されていないと言われているからだ。
つまり、ルルの制御からあの漆黒鳥達が抜けてしまった場合、あれは消えることなく現世にさまよい、ありとあらゆるものをその腹に納め続けただろうということになってしまうのである。
まさかそんなことは……と慌てて心の中で否定した彼らであったが、しかし漆黒鳥達の最後の一匹がその嘴にくわえていたものがなぜか、はっきりと目に焼き付いてしまったのでその否定はうまくいかなかった。
ルルの魔法陣に消える直前にその漆黒鳥がくわえていたもの。
それは、戦場に落ちて、放置されていた人族の腕だったのだから。