第210話 解放
向かってくるグラスの手を見ればそこには長い爪が伸びている。
爪は灰色がかっていて、石や岩のような色合いをしており、強度は実際に触れてみなければ分からなそうだった。
イヴァンは双剣を引き抜き、向かってくるグラスの爪に対応する。
恐ろしい速度、それに腕力であったが、以前、ゾエと戦った経験がここで役に立った。
彼女と比べればまだ戦える相手であるとその一合だけで理解できたからだ。
グラスの力を双剣で流し、方向を変えてやると、グラスの爪は近くにあった木に向かって振り切られた。
力いっぱい振り抜かれたグラスの爪の破壊力はやはり相当なもので、かなりの太さの樹木を二、三本まとめて切り倒してしまう。
「……まさに、化け物ですね……」
イヴァンが呟くと、
「ゾエ様に比べれば、可愛いものです」
と笑って言われた。
それは間違いなく事実だったので、イヴァンも頷く。
ただ、だからと言って他の騎士や冒険者たちがどれだけ対応できるのかは分からない。
イヴァンはこれで上級下位クラスの実力を持っている。
あれから修練を重ねたことを思えば、上級上位程度には至っているかもしれない。
しかし、フィナルにいる冒険者は大抵が中級程度、いても上級下位程度が限界だった。
そんな彼らに、あれを相手にしろ、と言っても難しいのは火を見るより明らかな事実である。
そのことは、イヴァンもモイツも理解していた。
もしかしたら、ここで命を失うかもしれない、ということも。
「冒険者時代に心躍る戦い、というのは何度かありましたが……それでもゾエ殿との戦いの前には霞みます。これからの戦いも同じく、楽しめそうですよ……!」
自分を鼓舞するために少し嘯いてみただけだが、口にしてみれば思いのほか自分の心情を正確に表しているような気もした。
あのグラス、と呼ばれる者は強い。
それこそ滅多に見られないほどに。
そのような戦いを出来る機会は、得ようと思っても得られないものだ。
戦士にとって、これほど幸せなことは無いだろうと、そう思ったのだ。
「書類仕事に塗れて随分丸くなったと評価していたのですが……イヴァン、貴方の心は冒険者だった頃より少しも変わっていないのですね。今はそのことを嬉しく思います。存分に戦ってください。補助は、しましょう」
そう言って、モイツは魔術を発動させた。
他人の身体能力を一時的に上昇させることの出来る補助魔術である。
他人の身体に干渉するために難易度は高いものだが、モイツにはその技術があった。
「ありがとうございます……では、行きます!」
話しているうち、体勢を整え新たにグラスが向かってくるのが見えたイヴァンは、再度、その攻撃をいなすべく構えた。
先ほどよりもはっきりと動きが見える。
自らの身体の動きも滑らかに、かつ力強くなり、確かに補助魔術が効いていることが分かった。
「……さっさと死ぬがいい!」
グラスが直前まで来て、口をぱかりと開きながらそう叫んだ。
両手の爪がイヴァンを正確に捉えて向かってくる中、グラスの叫び声よりも爪に意識を割いたイヴァンは、グラスがなぜ不自然に口を開いたのかを理解するのが遅れた。
ぴかり、と口の奥が光り、そこから何かが吐き出されようとしている。
そのことに気づいた時には、既にイヴァンの双剣はグラスの爪を叩き落すべく両側に開いていた。
完全に無防備になったイヴァンは、回避しようと体を捻ろうとするが、それも難しそうだと瞬時に悟る。
一体いかなる攻撃なのか分からない以上、当たるべきではないのだが、打つ手がない。
そう思った瞬間、グラスの横合いから火球が飛んできて、彼の顔の側面に命中した。
その衝撃でグラスの顔はイヴァンから逸らされ、その口から放たれた何かは人のいない方向へと飛んでいく。
すると、巨大な爆発音とともに炎が上がり、周りの木々よりもずっと高く火柱を作った。
イヴァンはグラスの気の逸れたその瞬間を狙って爪の軌道を変え、さらに懐深くに入って切りつける。
驚いたことに、グラスの身体は見かけ以上に固く、あまり深い傷を与えることは出来なかったが、しかし出血をさせる程度の傷は刻めた。
「ぐあぁぁッ!!」
と、グラスは獣のような声を上げ、イヴァンから距離をとる。
その様子に驚いたのはグラスではなく、むしろイヴァンの方だった。
「……痛覚を断てるのではなかったのですか?」
つい疑問が口に出て尋ねる格好になったのだが、意外にもグラスはその質問に素直に答えた。
痛みに耐えるような表情で、彼は、
「断てる……断てるが、それをすると動きが鈍くなるのでな。戦闘時にはあまり向いていないのだよ」
と尊大な口調で意外な事実を言った。
つまり彼らの痛覚を断てる、という能力はどちらかと言えば感覚が全般的に鈍くなるということなのかもしれない。
そしてそうであるなら、彼の申告通り、戦いの最中に扱うにはあまり向いていない能力なのだろう。
僅かな力の入れ具合、場合によっては痛みすらも戦闘の有利な構築のためには必要な情報なのだから。
それを自ら断つのは戦いの場においては自殺行為以外の何物でもなく、だから、戦闘中において彼らと自分たちの感覚にそれほど違いは無いのかもしれないと感じた。
「だとすれば……余計に勝機はありそうです。命は助けてやりますので、さっさと降参してはいかがです?」
イヴァンがそう言えば、
「は。世迷言を言うな……それはこちらの台詞だ。そうだな……まずは先ほどこの私に一撃くれた奴から屠ってやろう」
グラスはそう言って辺りを見回す。
そして目に留まったのは、一人の少女だった。
確か名前は――そう、サラだ。
「サラ! 逃げなさい!」
イヴァンは瞬間的にそう言った。
あの若さにしては比較的腕のいい魔術師であることは分かっているが、あくまでも魔術師としての実力が高いと言うだけである。
近接戦闘においてグラスに比肩できるような力を持っているとは思えなかった。
言われたサラの方は、びくり、として一瞬挙動が止まったが、事態を理解したらしくすぐにグラスから遠ざかろうとした。
しかし、グラスの機動力は高い。
高空まで上がることは雷撃網の結界のお陰で出来なくはなっているが、空が飛べなくなったわけではないのだ。
翼をはためかせ、風のようにその場から消失すると、次の瞬間にはサラの目の前にいた。
そして。
「――ここに来たのが運の尽きだったなぁ。まだ北門側ならばお前のような者にも命を長らえる機会はあったかもしれないが、私はお前らを一人たりとも見逃すつもりはないぞ!」
グラスは厭らしい笑みを浮かべながら勝ち誇るようにそう言って、ゆっくりとその爪を掲げた。
あの爪でもって、サラの命を絶つ気なのだろう。
そんなことはさせないと、イヴァンも、それにモイツもその場に駆けつけようとするが、いかんせん距離が離れてしまっている。
「くそ!」
そんなことを叫んでいる間にも、グラスの爪はゆっくりと降ろされていく。
わざとなのかもしれない。
サラでも視認できるような、しかし避けるのは難しいと言う絶妙な速度で進む鋭い爪。
このままでは、サラが……。
その場にいた誰もがそう思った。
そして、爪はサラに向かって降されたように見えた。
樹木を切り倒すほどの威力のある斬撃である。
魔術師でしかないサラに命中すれば、一撃でその命は散らされるようなものだった。
けれど、現実にそうなることはなかった。
グラスの爪が振り降ろされたそのとき、サラは恐怖のあまり目を瞑ったが、直後、その爪が何かにぶつかるような音がしたのでゆっくりと目を開く。
するとそこには、重い鎧を纏ったブラスコが立っていた。
彼が、グラスの爪をしっかりと持っている両手剣で弾き、サラを救ったのだ。
本来ならグラスの速度になどとてもではないがついていけないブラスコであるが、グラスが極端にゆっくりと爪を振り降ろしたので対応できたのである。
「……ッ! 一体、どこから!?」
グラスはそのブラスコの出現が余りにも意外だったようで、目を見開いていた。
しかしすぐに正気に戻り、再度攻撃を加えようとして来る。
だが、それは叶わずに終わる。
追いついてきたイヴァンがグラスに向かってその双剣を振るったからだ。
二度もその誇りを汚したからか、グラスの方はサラとブラスコを執拗に狙おうとして来るが、イヴァンはそうはさせない。
徐々に二人から距離を離していく。
他の騎士・冒険者たちもサラとブラスコを案じてその周囲に陣取った。
それを見たグラスは、
「どこまでも忌々しい……! しかし、それもここまでだ! ゴライアス!!」
そう言ってグラスが振り返ると、短角の巨人ゴライアスが、ギリギリと魔術的縛鎖を軋ませていた。
それを見て、モイツが呟く。
「……まずいですね、解けかけています。イヴァン! グラスを!」
モイツの言葉の意味を理解できないイヴァンではなかった。
いくら力技で外そうとしても、最後には魔術に精通しているものが手を加えなければ外れないのがあの縛鎖だ。
おそらくゴライアスはその馬鹿力にものを言わせてあそこまで魔術的縛鎖の強度を落としたのだろうが、最後の一押しはグラスの力がいるハズ。
つまり、グラスを先に潰してしまえば、ゴライアスはどうにかなる、とそういう意味だと。
しかし、そんなことはグラスも分かっている。
しかも機動力はグラスの方がずっと上だった。
グラスはイヴァンを近づける前に、ゴライアスに接近すると、その魔術的縛鎖の中心点を魔力で穿ち、破壊してしまった。
縛られていた虜囚がその縛りを解き放たれたらどうなるか。
その答えは自明である。
パキン、と空気に解けるようにして魔力の鎖が消えた直後、短角の巨人が立ち上がり、そして吠えた。
「うおおおおおお!!!!」
びりびりと辺りが揺れ、空気が振動する。
どすん、どすん、と足跡が鳴り響き、彼が完全な自由を手にしたことを教えていた。
グラスはゴライアスのその様子を見て、イヴァンに勝ち誇ったような表情を向ける。
「これで、私たちの勝ちだ……ゴライアス! 北門へ!」
ゴライアスの肩に乗り、風の魔術をモイツ、イヴァンたちに放ってきたグラス。
それを避け、防御している間に彼らとの距離はどんどん離れていく。
しかし、雷撃網の結界が彼らの前には立ちふさがるはずだ。
そう簡単には……。
そう思っていると、グラスが何か呪文を唱え、その直後、ゴライアスの身体が風の属性を示す緑色の魔力光に包まれた。
そして、雷撃網の前に辿り着くと、その拳を握りしめ、思い切り振り抜いたのである。
ゴライアスの拳が雷撃網に衝突し、バリバリと音を立てるが、ゴライアスは怯まない。
それどころか、さらに体重をかけ、雷撃網を歪ませていく。
半球状に展開されているそれの一部が、ぼこりと盛り上がっていき、そして最後にはそれが限界に達したように引き延ばされ、ぶちり、と切れて一部に穴が開いてしまった。
ゴライアスは同じように拳を何度となく雷撃網に叩き込み、そして彼自身が通れるほどの巨大な穴を形成してしまう。
イヴァンたちは止めようと近づこうとするが、グラスの風の魔術の前に近づくことすらままならない。
それからゴライアスが雷撃網の外に出ると、グラスが、
「では、さらばだ! お前たちは自分の仲間達が蹂躙される様を、そこから見ているがいい!」
そう言ったと同時に走り出した。
巨体だけあって、その速度はとてもではないが人に追いつけるようなものではない。
イヴァンたち全員が悔しそうな表情で追いかけても、徐々に距離は広がっていき、そしてゴライアス達は北門の方角へと消えて行った。
幸いだったのは、彼らが街を踏みつぶしていかなかったことだろうか。
おそらく、街にも、グラスの飛翔を防ぐために形成されたような雷撃網が全体を覆うように形成されていることに気づいたのだろう。
破壊する手間より、ただ回り道をして抜けた方が早いという結論に至ったようである。
完全にゴライアス達の姿が見えなくなったのを確認して、イヴァンが口を開く。
「……これで良かったのですか?」
その言葉に答えたのはモイツだ。
「ええ……オロトス殿からの指示ですので。あの巨人と人型については北門に回ってもルル殿が対応してくれることでしょう。街に踏み込むかどうかは一種の賭けでしたが、やはりあの雷撃網のお陰でしょうね。うまくいきました……」
「ここまでは確かにそうですが……問題はこの後です。大丈夫なのでしょうか……」
イヴァンが不安そうに尋ねるが、モイツは微笑みながら言った。
「ルル殿がいるのです。大丈夫でしょう」
あまりにも軽い断言に聞こえるが、しかしモイツがここまで楽観視していることなど見たことがない。
それだけ信頼しているのだろうと考え、イヴァンは自分の中にある不安は無視することにした。