第209話 思惑
地獄犬は人にとってある意味で悪夢の代名詞だ。
高い身体能力と、強力な魔力をその身に秘めているのは勿論のこと、狼のように狡猾で賢く、人の弱いところを良く知っているからだ。
弱い個体でも村一つは軽々と壊滅させられるし、中でも強力なものとなれば騎士団まるまる一つと真正面から戦えるほどに強い。
ルルはそんな話を父であるパトリックから聞いた記憶があった。
遥か古代、魔族と人族の争いの最中でも、地獄犬は中々に恐れられる存在であったのだから、その実力はさもありなん、という感じである。
ただ、そうは言っても倒せないほどではないし、冒険者であれば上級程度の実力があれば数人で徒党を組み、討伐することも不可能ではないような存在であるはずだった。
けれどどうだろう。
地をかけ、人型やそれが率いる魔物達を倒していくシュゾンの力は、そう言ったレベルには既に無かった。
まさに風に形容するのが適切な速度を見せるその漆黒の影は、敵の一匹一匹を確実に、最低限の傷を与えて絶命させていく。
口から漏れだす蒼い炎は、距離の離れた相手に届き、骨を炭にまで焼き焦がしてしまう。
爪は長く刀剣の輝きにも似て鋭く、牙は槍のように相手の急所を正確に突き、命を奪った。
相手からの攻撃はと言えば、何も出来ずに、接近にすら気づかずに絶命するものもいれば、せめて一矢は報いたいと捨て身で攻撃してくるものもいた。
しかし、そのどれもをシュゾンは歯牙にもかけずに対応していく。
武器を携えた人型が数体で逃げ道を塞ぎ突進して来れば、一体に向かってその口から青い炎の玉を放ち燃やし、一瞬で黒焦げとなった人型の残骸が空気に溶けていく中を突っ切り、残りの人型の背後に回ると、空に浮かぶ人型を見つめて飛び上がり、その背中に着地すると同時にその頭に鋭い牙を突き立てた。
一撃で絶命し、浮力を失ったその人型の背中にシュゾンは長居をせず、次々と空中を飛び回る人型達の背中に飛び移っては叩き落としていく。
ルルの魔力集束砲が放たれたのち、戦い始めたフィナルの騎士・冒険者達。
彼らの地上での戦いにおいて、フィナルの騎士・冒険者たちが最も苦戦し、対応に苦慮しているのは空中を好き勝手に飛び回って攻撃を加えてくる人型達だった。
魔物と比べて速度が速く、大きさもそれほどではないので的としても絞りにくい。
また、魔術を放ってくるために自分たちが飛び上がって攻撃をする、というのも難しく、主に魔術師たちの狙撃に頼るしか方法が無かったからだ。
けれど、シュゾンが率先してそういう者たちを潰して行くので、フィナルの騎士・冒険者たちは相当に戦いが楽になったことを感じた。
目の前にいる空を飛ばぬ人型・魔物達を相手にすればいいからだ。
それでも通常の魔物よりはずっと手強いのは間違いないが、彼らは城砦都市フィナルのものなのである。
他ならぬログスエラ山脈の魔物達からフィナルを守るための戦を繰り返してきた関係から、"負けない"戦いが非常に得意なものが多かった。
それまで空からの攻撃と地上からの攻撃の二者に翻弄されていたフィナルの騎士・冒険者たちは徐々に押し始めたのだ。
そして彼らはそれが、シュゾンが明確に彼らに味方しているからだということを認識した。
いくら、魔物であっても盟約を結んだから安全である、と偉い人から説明されたからと言っても、実際に本当に信用していいものかどうか、ということについては、疑いが一片も心からなくなると言うことはない。
それも当然で、彼らにとって今までの人生で魔物と言う存在は敵であって、味方であることはないものだったからだ。
けれど、こうやって戦っている中で、窮地に陥った時に助けに飛んでくるその黒い影を、敵だと思う事ももう出来ない。
致命傷になりそうな破壊力を持った人型達の攻撃が、自分の目の前で、また仲間の直前でその若干体の小さな地獄犬が散らすのを目にするにつれ、それはもはや確信にまで至っている。
あれは、味方だと。
そう思って戦うことが出来るようになったのだ。
その感覚の形成に、地獄犬の頭の上で、その黒い毛に掴まりながら、「きゅいー!」とまるで馬か何かに乗っているかのような声を上げるずんぐりむっくりとした少しばかり品のいい小竜の功績があった。
その地獄犬を見たとき仏頂面、というか恐ろしげな地獄犬の表情がまず目に入るのだが、その頭の上でにこにことした雰囲気の小竜が、ぺちぺちと額を叩いたりしているのを見て場違いではあるが、和まない者はいなかったということだ。
そしてそんなことをされながらも戦闘それ自体には一切の乱れも無く、冷静に敵を屠っていく地獄犬に、若干の敬意を抱いた者も少なくなかった。
「……さて、そろそろ俺も行くかな」
人族の身体では少しばかり厳しい量の魔力を扱い、魔力集束砲を放ったことによって疲労していた体も回復しつつある。
もう一発、魔力集束砲を放つ、というほどではないが、剣を使った通常の戦闘くらいならこなせる程度にはなっていた。
「お前も? おい、ルル。別に休んでたっていいんだぞ。形勢はほとんど決まりつつある。この調子ならお前が出なくても……」
クロードが戦いに加わる気満々のルルに向かってそう言った。
実際、二人がいる位置からは戦況が全体的に見渡せるが、フィナル側が完全に押している。
確かにこのまま推移すれば間違いなくフィナル側が勝利するに違いなかった。
しかし、ルルはその予測はおそらく危険だろう、と感じていた。
何か、異変を感じ取ったわけではないのだが、このままで終わるというのはあまりにもあっけなさすぎると思ったからだ。
それに、これだけの数がいても、おそらく人型、魔物、共に一部でしかないだろうと言う事は分かっている。
ログスエラ山脈においても暴れまわっているということはバルバラの話からも明らかだからだ。
だから――そう。
フィナル、ログスエラ山脈でこれだけ目立つ行動をしているのは……。
「何か他の目的がある? いや……分からないな」
あくまでも今はそんな気がする、というだけだ。
ただ、どっちにしろ言えることがある。
「クロード。この戦いは早く終わらせた方がいいぞ」
断言するようなルルの言葉に、クロードは微妙な表情になる。
「そりゃ、早く終わった方が良いに決まってるだろう……」
当たり前のことを言っている、と思ったようだった。
だからルルは自分の感じていることを口にした。
「そういうことじゃない。たぶん、こいつらがこんな戦い方をしてるのは何か他に目的があるからだと思うんだよ。だから……」
「おい、そういうことは早く言え!」
クロードが慌ててそう言う。
しかしルルの方はあまり焦っている様子はない。
「って言ってもな。それが分かったからと言って何が出来るわけでもないからな……せいぜい、さっさと戦いを終わらせるように努力するだけだ」
「そうだが……あぁ、もう分かった。行って来い! 気をつけろよ!」
最後にはさじを投げたようにそう言った。
ルルは頷いて地面を蹴る。
そうして、腰に下げた剣を引き抜き、魔物達の方へと飛び込んでいった。
◆◇◆◇◆
バサバサと翼が空気を叩く音が鳴り響き、それは地に降り立った。
そこは、フィナルのログスエラ山脈側――北門とは正反対の王都側の門、つまりは南門の近くであり、現在大量の人型、そして魔物と交戦中の北門側と異なり、静けさが満ちている。
人通りも現在の状況のせいで殆どゼロに等しいが、しかし全くの無音と言う訳ではなく、ごごごご、と言う音がたまに一帯に鳴り響いていた。
「……やれやれ。ゴライアス、すっかり暇そうですね」
元石像魔の人型、グラスは、周りの木々よりもずっと大きな、短角の生えた男を見上げながらそう呟いた。
グラス側に背を向けながら寝転んでいたその巨人の男は、グラスの声に気づき、驚いた様子で起き上がり、グラスを見下ろす。
「……おぉ、グラスじゃねぇか! 助けに来てくれたのか!?」
巨体だからか、その声は酷く大きく、辺りに響く。
わざわざ人に見つからないようにここまで来たと言うのに、その努力を台無しにしかねないその反応にグラスは眉を顰め、忠告する。
「声が大きいですよ! 静かに……」
少し頭の足りていない雰囲気のある巨人の男、ゴライアスであったが、そんなグラスの剣幕に流石に珍しく頭を働かせる気になったのか、何が言いたいのか理解したらしい。
「お、おう……わ、悪かったよ……へへ……た、助けてくれるよな?」
と、先ほどと比べて遥かに小さな声で囁き、少し不安そうな表情でごまかすように微笑んだ。
思いの他、愛嬌のある笑顔であり、顰め面をしていたグラスも少し顔を綻ばせる。
「いえ……分かってくれればいいのです。初めからいるのは私と、貴方、それにアエロの三人だけなのです。いわば兄弟のようなものなのですから……もちろん、助けますよ」
そう言って、グラスはゴライアスにかけられている魔術的縛鎖の観察に入る。
そして、それはどちらかと言えば複雑さよりも強度重視の力技のような構成をしていることがすぐに分かり、解くのは魔術にある程度精通していて、魔力量に余裕があればできなくはない、という結論に至った。
グラスやアエロにかけるならともかく、ゴライアスにかけるならこれ以上ないと言っていいくらい、適切な拘束の仕方である。
ゴライアスは恐るべき巨体、剛力を持っているのは間違いないが、残念なことに魔術については大したものは使えない。
それを分かってかけたとすれば、なるほど、敵も侮れないものだと思った。
けれど、ここにはもう、グラスがいるのである。
グラスは言った。
「では、ゴライアス。今からあなたの拘束を解きますので……もしかしたら痛むかもしれませんが、我慢してください」
グラスの言葉にゴライアスは、
「……あぁ、痛覚を切ればいいんだな?」
と言ったので、グラスは頷く。
それからグラスはゴライアスが痛覚を切ったのを確認して魔術の解除に当たろうとした。
しかし、
「お待ちなさい!」
そんな声が彼らの後ろからかかった。
驚いて振り返ると、そこにはかなりの巨体を持った鯨系海人族のモイツ=ディビク、そしてそれに従うイヴァンとフィナルの騎士・冒険者たちの集団が武器を構えて立っていた。
それに気づくと同時に、グラスは自分が罠にかかったことを理解し、即座にゴライアスの魔術的縛鎖を解こうと魔力を込めたのだが、バチバチとした音と共にグラスの魔力は弾かれてしまう。
「……っ!? これは!」
「……いずれその男を助けに誰かしらやってくるだろう、とは私たちも予想していました。まさか何もしないで転がしておくほど愚かではありませんよ」
モイツがそう言ったが、グラスは話も聞かずに空に飛びあがり逃げ出そうとする。
しかし、そんなグラスの背に、ばちり、と電流が走る感覚がし、焦げ臭いにおいとともに、その飛翔が妨げられた。
驚いて空を見つめてみれば、そこには網目状になった電流が辺りをドーム状に覆っており、これでは空を飛んで逃げ去ることは出来ない。
構成も恐ろしく高度で複雑であった。
「……誰がこのような魔術を……!?」
しかし、そんなグラスの言葉には誰も答えない。
答える理由など無いからだ。
ただ、それでも予想出来ることは、グラスがここに来ることを彼らが予測し、そしてそのための対策を練っていたということだろう。
そうでなければこれほど適切な対処は出来ないはずだ。
グラスが飛び上がったのは一瞬であるし、魔術を構成するほどの暇は与えなかった。
グラスがここに来た時点で、既に魔術は完成していたと考えるほかない。
「忌々しい……」
呟きながらも、グラスはもう逃げる方法は無いことを理解していた。
それに、魔術を解くのに最も単純な方法は、起動させている者を気絶、もしくは殺害することだ。
今グラスに相対しているあの者たちの中に、おそらく魔術を発動させている者がいるはず。
ならばそれを倒せばいいだけだという答えに辿り着き、グラスは目に鋭い光を宿らせる。
「やる気、ですね……みなさん、ご注意を!」
「モイツ様、お下がりを! まずは我々が奴の相手を致します……!」
イヴァンがそう言うと同時に、グラスが滑空してきて突っ込んできた。