第203話 赤い光
熱病森林に行くにあたって、とりあえず、お腹だけは満たしておかなければと考え、湖底都市の主の魔物から魔力を絞れるだけ搾り取った。
特に何も用事がないなら周囲に浮遊する魔素を自然に取り込んでいるだけで生存は維持できるし、戦うにもさほど問題がないのだが、万全を期すならばある程度は食事によって摂取しておく必要がある。
特に今回は行ったことがない場所に行くのだから、準備は出来るだけしておいた方がいいとバルバラは考えたのである。
そのことを友人に伝えたところ、その通りだと頷いてくれたので、そのための協力も快くしてもらったと言う訳である。
「……ぜぇ……ぜぇ……。お前の腹は一体どうなっているのだ……魔力の大半を持っていきおって……」
普段からあまり肉付きがいいとはとてもではないが言えない容姿をしている友人ではあったが、今はもはや頬がこけていると言っていい程度に疲労の濃い表情をしていた。
なぜか、と言えばそれはバルバラが腹八分目どころかお腹いっぱいになるまで魔力を食べたからである。
バルバラはそんな友人を見て、
「通常の食事を食べた後にはちょっと重いですが、あなたの魔力の味はかなり気に入っていますよ。美味しかったです」
と、にっこりと微笑んでお礼を述べる。
友人は呆れた顔をして、
「……友をこれだけ疲労困憊させてその台詞か……」
とがっくりとしているが、友人同士のじゃれ合いである。
別に本気で厭っているわけではない。
問題はその友人が湖底都市の主であり、あまりに魔力を消耗しすぎると湖底都市の守護もままならなくなる可能性があることだが、バルバラの目から見れば見た目ほど疲れている訳ではないのは明らかだった。
友人が湖底都市を守護するようになってどれだけの月日が流れたか聞いたことがあるが、その年月で蓄えた魔力は通常の魔物の比ではないのだ。
バルバラのお腹を満たしたくらいでその役目に支障をきたすことはありえないと言っていい。
「お礼に、幻の果実、とやらは、あなたの分もとってきてあげますから、許してください。日持ちはするのですか?」
その言葉に、友人はあからさまに嬉しそうな顔をして、
「ほ、本当か? それならばこれだけ疲れた意味もあるというもの……日持ちは、そうさな、採って三日程度は持つと聞いたぞ。採ったばかりもうまいが、しばらく置いて熟したものもまたうまいと聞いた。私は食べれるならどちらでも構わないのでな。美味いお茶を入れてまっておるから、よろしく頼む」
そう言ったのだった。
バルバラは頷き、湖底都市の入口へと向かった。
入口までは、友人も見送ってくれる。
そこには船着き場があり、小さな船が何隻も浮いていた。
それぞれに船頭を務める者が乗っているが、どれも人ではないようだった。
海人族に近い感じもするが、魔物の特徴の方が強い。
さらに、一般的に海人族ならばその瞳には知性や理性が覗くものなのだが、船頭として櫂を持っているその者たちは、どこを見ているのかはっきりとしない目をしていて、頭の働きも酷く鈍そうであった。
容姿としては、まるきり魚に手足が生えた、という感じであり、ヌメヌメとしている。
彼らは、魚人と呼ばれる魔物なのだ。
通常、彼らは人を見れば襲い掛かってくるものなのだが、バルバラにしろ、友人にしろ、この場にいるのは魔物のみである。
いかに頭の働きが鈍いとはいえ、同族は分かるらしく、魔物に襲い掛かってくることは無い。
さらに、友人の魔物はこの湖底都市の主なのだ。
この湖底都市に生息する魚人たちは皆、湖底都市の主たるバルバラの友人に服従しており、細々とした仕事は彼らがやっているのである。
ここの船の船頭も、そんな彼らの仕事の一つだった。
ちなみにであるが、湖底都市内部において、バルバラたちに茶器などを運んでくる、いわば執事・メイドとしての役割も彼らが担っており、何を思ってか友人の魔物は彼らにそのような服を着せて楽しんでいる。
初めて見たときは吹き出さざるを得なかったが、もう慣れてしまったし、何よりやらされている魚人たち自身があまり嫌がっている様子ではなく、むしろ心なしか嬉しそうな表情をしているため、文句を言うのも何か違うだろうと思ってしまい、それ以来、放置している。
仕事ぶりは大層真面目で、文句ひとつ言わずにもくもくとやるべきことをやっているので、何の問題も無いと言うのもある。
知能のそれほど高くないと言われる魚人たちにこれだけのことを仕込んだ友人を褒めるべきか、意外と真面目な魚人たちを褒めるべきか、悩むところである。
「では、行ってきますね」
バルバラが、不格好な帽子を被っている魚人が船頭を務めている小舟に乗り込み、そう言うと、友人の魔物は頷いて、
「気を付けるのだぞ」
と言って手を振った。
それから、船頭の魚人が懐から煙管を取り出して口に咥え、ぷーっと息を吹き込むと、そこから泡のようなものが出てきて、徐々に膨らんでいき、小舟全体を覆っていった。
完全に小舟が覆われると、魚人は櫂をゆっくりと漕ぎ出す。
小舟は始め、水の上をすーっとすべるように進みだしたのだが、徐々に水面から離れていき、空中に漂い出す。
それから、空に向かって浮き上がり出した。
バルバラは、ふと上を見つめるが、そこにあるのは本来の空ではない。
ここは湖底都市。
湖のそこに沈む街なのである。
湖底都市はその巨大な威容を全て、空気の膜で覆っていて、問題なく呼吸が出来るようになっている不思議な街なのだった。
もちろん、その全てはバルバラの友人の魔物の力によって維持されているものである。
そんな街に入るためには湖の中を通って、一旦その外まで浮上しなければならない。
湖底都市を覆う空気と、湖に満たされた水の境目に辿り着くと、小舟はずずず、と水の中に侵入していき、そのまま湖を浮上していく。
魚人が先ほどの煙管状の魔法具を使い、小舟を泡で覆ったのはこのためである。
ゆらゆらと揺れる水の蒼を、しばらくの間、突き進んでいく。
沢山の淡水魚や、極彩色の魔物が泳ぎ回る姿は美しく、心癒されるものを感じた。
――ばしゃん。
と湖上に小舟が顔を出し、それから、ぱちん、と音が鳴って、小舟を覆っていた泡の膜が弾けた。
太陽が中天を少し過ぎたあたりを横切っていて、地上に出たのだと言うことがそれだけで理解できる。
それから、バルバラはここまで連れてきてくれた魚人に、
「ありがとうございました。あの子に、よろしくお願いしますね」
と言って、背中から翼を生やし、空に飛びあがる。
そして、徐々に浮き上がっていくにつれ、眼下に広がる湖、その上に浮かぶ小舟を簡単に覆ってしまえるほど大きな影が形成され始めた。
バルバラが、元の、古代竜としての体に戻ろうとしているためだ。
小舟の上の魚人はそれを恐れず眺めていて、逃げる様子は無い。
それから、完全に元の姿を取り戻したバルバラは、周囲に響き渡る大きな声で吠え、そのまま西に向かって飛び去って行く。
湖に浮かぶ小舟の上では、魚人が、バルバラが飛び去る時に起こした突風で作られた波に揺れながら、ゆっくりと手を振っていたのだった。
◆◇◆◇◆
高空に至ったバルバラは、クリサンセの国境近くに辿り着いた時点で、その気配を徐々に消していく。
別に自分は温厚である、とまで言う気はないが、わざわざ人を混乱に陥れるのは趣味ではないからだ。
だから、空の下から上空を見上げても、決してバルバラの姿を視認することが出来ないように、眩惑の魔術を自らにかけ、隠れたのである。
もちろん、ある程度以上の実力を身につけている魔術師などには気づかれる可能性があるが、そこまでは流石に気にはしない。
自分の姿がしっかりと隠れたことを確認し、バルバラはクリサンセの中に入る。
高度を下げ、地上を視認できるところまで来たが、バルバラの姿に気づいているような者は見えない。
眼下には街道が走っていて、多くの者が歩いているが、ほとんど誰も上空を見ていないし、見てたとしてもバルバラがいるから、という訳ではなく、ただ単純にぼんやりと青空を眺めているだけ、とかその程度だ。
それにしても、とバルバラは下界の光景を見て思う。
魔導帝国とはよく言ったもので、クリサンセの景色は他の国々とは少しばかり違った。
他の国では、街道を行き来しているのは大概が徒歩の人や、馬が引いている馬車や荷車などなのだが、クリサンセは巨大な魔法具が行き来しているのが頻繁に観察できる。
馬車の動力部分が馬ではなく、魔法具で代用されているものや、一般的な成人男性の数倍もの大きさをした鎧騎士のような形をした魔法具――"魔導騎兵"と呼ばれるもの――などが数多く見られるのだ。
確かに自称する通り、かなり魔法技術は進んでいるようで、その国民も豊かな生活を送っているのかもしれないと思われる。
クリサンセの首都であるマージアルカはそんな技術の粋を集めて作られた巨大都市であるとは友人の魔物が語っていたところだが、今のバルバラにとって、そんなことはどうでもいいことであった。
マージアルカのある場所は、クリサンセでも西の方である。
バルバラの目指す熱病森林は東部に存在するのであり、そこまで行く用事などないのだった。
そうして、国境を越えてそれほど時間は経過していなかったが、熱病森林が見えてくる。
街道の通っていない、手つかずの自然がそこにはあった。
木々は湖底都市の周辺の森の木々と比べるとかなり細く、ただしその割には背が高いものが多いようだった。
古代竜の体のまま下りれば、間違いなく何本もの木々を押し倒してしまうと感じる程度に植物たちは密集していて、バルバラは高度を下げて“人化の魔術”を使い、ゆっくりと降り立った。
足をつけた地面は赤茶けた色をしており、水気が多い印象を受けた。
生き物の気配が強く、ありとあらゆる方向から何者とも知れぬ甲高い泣き声が聞こえてくる。
虫も多く飛んでいるが、バルバラにはあまり近づいてこず、それほど鬱陶しい感じはしない。
ただ、人であれば間違いなく刺したりするなど襲い掛かってくるのだろう。
そのことを考えれば、ここが人にとって非常に過ごしにくい環境だと言う友人の言葉の意味が理解できた。
「……私にとっては過ごしやすそうなところですが……」
そんなことをぶつぶつと言いながら、進むことにした。
友人の話によれば、問題の果物はこの森の奥地にあるという。
出来る限り奥地、と呼べそうな辺りに下りたのだが、周囲を見渡してみても問題の果物が生っている様子は無い。
ただ、見覚えのある果物がいくつも生っているのは見えたので、それらをもぎり、むしゃむしゃと食べながら歩いた。
途中、何匹かの魔物が襲い掛かってきたりもしたが、古代竜であるバルバラである。
さして苦労もせず、赤子の手を捻るように倒してしまった。
ただ、同じ魔物として、殺してしまうのは少し気が引けたので、気を失わせる程度に収めておいた。
さらに、森のなかであったが、いくつか人工物と思しき石塊や金属片なども見た。
現在は見える限り全てが森に覆われている熱病森林であるが、もしかしたら遥かな過去には何らかの文明があった時期もあったのかもしれない、と歴史的な感傷を覚えた。
そう言う訳で、熱病森林の探索はバルバラにとって比較的楽しいものであったが、その探索も終わりを迎える。
歩き回ってどれくらい経ったかは分からないが、とうとう、友人が幻の果実、と言っていたものらしきものをバルバラの瞳が捉えたのだ。
それは、非常に高い木の上に生っていた。
ぼんやりしていたら気づかなかったかもしれないが、何とも言えない甘い匂いに、ふと上を見たのが良かった。
そこには一つだけだったが、果実と思しき物体がぶら下がっていたのだ。
それは、濃い紫色をした丸い果物で、上部に葉っぱがついていた。
光沢があって、実に見た目だけでも美味しそうな気がした。
「それでは早速……」
そんなことを言いながら、背中に翼を生やして空に浮遊し始めたバルバラ。
しかし、不幸なことは起こるものである。
刹那、何か、赤く輝く物体が飛んできたかと思うと、バルバラがその果物を取るよりも早く近づき、もぎ取ってどこかに飛んで行ったのである。
「……な!?」
驚愕に口を開くバルバラを後目に、その赤い光は素早く飛んで行く。
数瞬、呆気にとられたのち、バルバラは辺りを見回して、他に似たような木がないか探した。
しかし、見つからないことを理解すると、バルバラは背後に炎を燃やしながら叫んだ。
「……私の、私の果物ー!!!」
そうして、バルバラはその赤い光を追いかけることを決めた。
食べ物の恨みは、何よりも恐ろしいものである。