第200話 追いかけっこ
「イリス……どうした?」
そう尋ねる直前まで、強烈な魅力を放つ迫力美人に壁際まで追い詰められてその口元に触れんばかりの位置に手をやろうとして、かつその瞳を見つめていたルル。
けれど、客観的にどう見えるにしても、ルルとしては何らやましいところが無い状況である。
いつも通りの声色とテンションで向こう側に立つイリスにそう尋ねた。
何か、うまくは言えない背中を撫でるような不安が体中に走っていても、そうするのが自然だったのだ。
しかし、そう思っていたのはこの場においてはルルだけだったようで、イリスは珍しいくらいの動揺をその表情に映し、叫んだ。
「何をなさっておられるのですか……それに、古代竜バルバラ。お義兄さまから離れてください!」
驚くほどの剣幕である。
ルルはバルバラと顔を見合わせる。
すると、バルバラが、首を傾げてイリスに尋ねた。
「……どうしてですか?」
全く悪気のない、純粋に疑問である、という風な答え方に、イリスは言葉を詰まらせた。
「ど、どうしてって……と、とにかく! 離れてください!」
ただ、慌てつつもそこは絶対に譲れないところらしかった。
今にも襲い掛かりかねない雰囲気で、イリスは言う。
しかし、バルバラもバルバラで譲れない部分があるようである。
彼女はイリスに答えた。
「駄目です! これから私は……ルルからいいことをしてもらうのです! この手で!」
そう言って、がっとルルの手を引っ掴んで自分に近づけようとした。
ただ、まだ成長期途中のルルとバルバラには結構な身長差がある。
腕を予想外に引かれたルルのバランスが少し崩れ、手はバルバラの胸の辺りに着地した。
柔らかい感触が手に触れ、ルルはこれはマナー違反だろうと冷静に手を引こうとするが、バルバラの古代竜としての身体能力は人の姿になっても維持されているようで、物凄い力で押さえられており、全く外れる気がしない。
身体強化すれば外れるだろうが、こんな街中で唐突に魔力を放出しては何事かとフィナルの魔術師たちを恐れさせることになるだろう。
それはあまりいいことではなかった。
どうしたものかとルルが悩んでいる反面、バルバラは全く気にしていないようだった。
それも、当然かもしれない。
彼女の本来の姿は竜なのだし、人の女性がいかなることに羞恥を感じるべきかという事にも疎いのだろうから。
ある意味助かった、と言えるかもしれないが、どうやらそれは気のせいだったと知れたのはその状況にイリスが反応したそのときだった。
「お、おじさま……破廉恥な! そんなことは……してはダメですわ! いいことなんて……私だって……まだ、なのにっ!」
何を錯乱してかそう叫んだイリスは、その瞬間、地面を踏み切ってルルたちとの距離を詰めた。
それは素晴らしい速度であり賞賛に値する加速である。
しかも、動き出す気配もまるで感じさせない、とても高い技量があることを感じさせるものだった。
かろうじてまだ分別は残っているようであり、ルルと同じく大きな魔力の放出を街中で理由なくすべきではないと言う感覚はあるらしい。
純粋な身体能力勝負で突っ込んできた。
それでこれだけのことを可能にしているのだから、古代魔族というのは改めて人族と比べると素の身体能力がかなり高かったのだなとルルはぼんやりと現実逃避染みたことを考えた。
魔力をろくに使えないこの状況で、ルルに出来ることはせいぜいが言葉で二人に色々説明して理解してもらうくらいだが、二人とも頭に血が上っているのは見れば分かる。
バルバラは食欲に目がくらんでおり、イリスは……そんなバルバラの行動のどこかに逆鱗に触れる部分があったようで、さらにルルのバルバラに対する不可抗力にも女性として腹立たしいものを感じたようだ。
止めても止まらないのではないか、これは。
だったら、そう。
黙して状況の推移を見守ろう……。
と、バルバラに手を引っ掴まれたまま考えた。
突っ込んできたイリスはそのまま両手の掌をバルバラとルルの繋がれた手に伸ばしてくる。
別にぶん殴ろうと言う訳ではなく、ルルとバルバラを引き離そうとしているらしい。
もし、イリスの相手がバルバラで無かったのなら、即座に腕を掴まれて二人そろって逆方向にぶん投げられていただろう。
しかし、そこはバルバラも古代竜だった。
イリスの動きをしっかりと確認したうえで、ルルを引きずり回して即座にその場から身を翻す。
「なっ!?」
空振りしたイリスは驚いて目を見開くが、いつまでも油断しているような彼女ではない。
空気の動き、音、それに気配からどこにバルバラが行ったのかをすぐに確認して再度向かってきた。
バルバラはイリスの丁度、上あたりの壁に張り付いてぶら下がっていた。
そこは爬虫類なのかどうなのか、どうやってなのかは分からないが魔術を使わずにくっついている。
ルルはぶらぶらとぶら下げられた状態で、掴まれた腕がうっ血しそうで出来れば離してほしかったが、そんなこと言えるような雰囲気ではなかった。
イリスはバルバラとは違う。
壁にくっつくことなど、普通には出来ない。
仕方なく、僅かに魔力を使って壁を登ってきて、バルバラとの距離を詰めていく。
しかし、そのまま黙ってそこで捕まるのを待っている訳がなく、
「……逃げます!」
そう言ってバルバラはさらに上の方にするすると昇って行った。
イリスが三角跳びの要領で路地裏の二つの向かい合う壁を使って上に登ってきているのに対して、バルバラは垂直な壁をまさにただ走って昇っているような状態である。
「……すごい。爬虫類、すごい」
ルルが虚ろな顔でそんなことを言った。
バルバラの耳には全く入っていないようで、物凄い速さで壁を駆けあがり、屋根の上までやってきてしまった。
バルバラは辺りを見回して、どこに逃げるか考えているようだったが、すぐにイリスも追いついてきた。
「中々やりますね! しかし、これならどうです!」
イリスに気づいたバルバラは振り返って微笑み、そんなことを言った。
これならって何をする気だとルルが尋ねかけると、驚いたことにその背中から二枚の翼が生えてきた。
見るからにそれは竜の翼であるが、人の姿でそんなことが出来るとは予想外である。
イリスも驚いて、
「そんな!?」
と絶望的な表情を浮かべたが、別にルルを放っておいても殺されるわけでも拷問されるわけでもなんでもないのだ。
そんなにショックを受けるようなことだろうか……。
と他人事のように思った。
しかし当人たちは至って真面目な様子で、
「その表情……どうやら翼の無い貴女にはここが限界のようですね! ルルは頂いていきます! そして頂きます!」
とバルバラが勝ち誇ったような表情でイリスに叫んで空に飛びあがった。
こんな状態で空を飛んだら地上から不審な目で見られるだろうに……。
と思ったのだが、丁寧なことに認識阻害の魔術が組まれているのを感じた。
地上を見れば、そこを歩いている人々は空を飛んでいるバルバラとルルにまるで注意を向けていない。
どうやらバルバラも一応、人に脅威を与えないと言う意味で考えるべきことは考えているらしい。
改めて空から見るフィナルは美しく、広大だった。
そしてその向こう側に見えるログスエラ山脈の雄大な光景も素晴らしいものがある。
しかしその主は、食欲に支配された目でルルを見つめながら、ぶつぶつ呟いている。
「ご飯は……どこで食べるとおいしいでしょうか……本当なら山で食べるのが一番なのですが、遠いですし、我慢できませんし、それに、まだ街には用もあることですし……ふむ、あの辺など良さそうですね……」
などと。
それは追いかけっこに勝った者の余裕である。
もはやイリスは追いかけてこられないと確信しての台詞だった。
しかし、
「……貴方の好きにはさせません!」
そう言って、地上から風を切る音と共に何かが突っ込んできたことにルルは気づいた。
欲望に目が眩んでいたバルバラはそれに気づくのが一瞬遅れ、気づいた時にはルルとバルバラの手はその突っ込んできたもの――イリスに掴まれていた。
そしてルルの腕からバルバラの手が剥がされ、ルルの身柄はバルバラからイリスのところに移動する。
弾き飛ばされたバルバラは驚いたように、
「……なっ!? 貴女、空は飛べないのではありませんでしたか!?」
と叫んだ。
それに対し、イリスは、
「確かに、私は貴女のようには飛べませんわ……飛行魔術も使えないことは無いのですが、古代竜に本気を出して飛行されれば追いつくことも難しかったでしょう。しかし、貴女は油断しました。私が飛べないと、勝手に勘違いをしてしまいました。それが、貴女の敗北の理由ですわ」
まるで神託のように荘厳な声で告げるイリス。
何か物凄い勝負に勝ったような雰囲気が出ている。
しかし、ルルの目から見れば、これは一体何なのだろうと首を傾げざるを得ない何かだった。
バルバラは、イリスの宣言に悔しそうに唇を噛み、そしてがっくりとして高度を降ろしていく。
それからどこかの家屋の屋根の上に膝をついて、無念そうに言ったのだった。
「……そうですね。私は確かに油断していました。人が古代竜に追いつけるはずがないと、どこかで驕っていたのかもしれません。だから……私は今日、ご飯にありつけないのですね……残念です」
などと。
結局食い気かと思ったルル。
イリスはバルバラの言葉に頷いて、
「これからはそのことを良く自覚していけばいいだけのことですわ。今日の貴女の敗北は、きっと明日の勝利へと繋がるでしょう。そして、きっといつかご飯に……ご飯?」
なんだかずっとおかしなテンションだったイリス。
しかしついにここで正気に返ったようだった。
バルバラの語った言葉の中で“ご飯”という単語に思い切り引っかかったようである。
首を傾げ、ルルを見つめて、さらに首を傾げて、バルバラを見、その上で少しだけ考えた様子で、バルバラに言いにくそうに尋ねた。
「……つかぬ事をお伺いしますが、ご飯、とは……?」
そこで落ち込みきりだったバルバラがふっと顔を上げ、
「ルルは私のご飯ですよ?」
と言った。
「それはどういう……」
とイリスはルルの顔を見つめて尋ねてきたので、ルルは答える。
「ニーナと同じだよ。バルバラも主食は魔力だ。だからご飯とは俺の魔力のことということだな」
言われてイリスは頷き、
「あ……あぁ、なるほど……そう、だったんですか……ご飯……ということは……先ほどの様子は……その……?」
「腹が減ったから魔力をくれって言うからあげようとしていたんだが……まずかったか?」
ルルが尋ねると、イリスは首を振る。
「いえ……おじさまは魔力が有り余っておられますし、おじさまが問題ないのであれば、私としましても特に文句はなく……」
「そうか。なら良かった。しかし……そう言えばいいことがどうとか言ってたな? あれはどういう意味……」
ルルが頷いて直後、イリスがバルバラに向かって何事か言っていたのを思い出して尋ねようとしたところ、
「い、いえ! 何でもないですわ。どうか忘れてくださいまし! けれど……魔力をあげるとおっしゃるのでしたらあそこまで顔を近づけなくても……」
「腹が減ると耐えきれなくなるらしいからなぁ。俺じゃなくてバルバラに言ってくれ。今日だってお菓子類を死ぬほど美味しそうに食べてただろう。食欲魔人なんだよ、バルバラは」
「そう、なのですか……。よく分かりました。バルバラさん」
深くこくこくと頷いていたイリスは、バルバラにそう話しかける。
ご飯を抜きにされた子供のような表情でルルを見ていたバルバラは、イリスに視線を移して首を傾げた。
「なんでしょう……?」
「魔力が食べたいとおっしゃるのでしたら、これはいかがですか?」
イリスはそう言って、自分の手から魔力を放出する。
ニーナもたまに食べている、イリスの魔力である。
同じ種族であるバルバラなら、きっとまずいとはならないのではないかと思っての事だった。
実際、バルバラはイリスが魔力を出すと同時にばさばさと飛んできて、
「た、食べてもいいのですか!?」
と目を輝かせている。
その剣幕にイリスの方が少し引いていたが、色々と自分の行動を鑑みて踏みとどまったらしい。
「ど、どうぞ……」
そう言って魔力の放出を継続した。
バルバラはイリスの魔力を一口食べ、
「……あ、おいしい……ルルのとはまた違って、こう爽やかなのど越しが……」
などと言っている。
それからしばらくイリスの魔力を食べ続けたバルバラ。
最後の方はほとんどイリスの手にむしゃぶりついていた感じだったが、いつの間にか姿が小竜のものになっていたのでイリスも特に不快そうな様子ではなかった。
ただ、涎がついてどろどろになってしまったので、少し困ってはいたが。