第198話 別の心配
「……弁解は聞きます」
宿に着くと同時に、そんな言葉がイリスの口から矢が鋭く抉るように放たれた。
その表情を見てみれば全くの虚無がそこにはあり、いったいどういう感情がその胸に渦巻いているのか、それは、それこそ生まれたときからと言ってもいいくらいに長い付き合いになるルルにも分からない。
「……べ、弁解って何の……?」
元魔王にあるまじきことだが、そのとき、ルルは怯えていた。
イリスの背に燃え上がるものが見える。
ゆらゆらと緑色に揺れる粘ついた炎であった。
魔王として、数限りない強敵たちと挑み、戦い、そして最後の一戦を除き、全てに勝利を収めてきたルルである。
しかしながら、今回に限ってはその経験がまるで役に立ちそうな気配が無かった。
ルルの震える返答に、イリスは、
「それはもちろん、リガドラちゃんとあの古代竜について、正確な情報を教えて頂けなかったことについてです。私たちは、おじさまをお守りするために一緒にいるのですよ……? それなのに、この仕打ちはあんまりです……」
と、絞り出すような声で言った。
怒っている、と感じさせると同時に、悔しげで悲しげなように感じられる様子である。
それを見ながら、ゾエは女として、なるほど泣き落しか、とぼんやりと考えるが、それをルルに説明してあげるほど親切ではなかった。
臣下としては事細かにイリスの考えていることを説明して魔王として適切な態度を、とかやるのが正しいとは思っているが、しかし現代におけるゾエとルルとの関係はあくまで旅の仲間である。
もちろん、ルルが危機に陥った時、ルルよりも後に死ぬつもりはさらさらないが、それとこれとは別なのだ。
だから、この場において展開されている、おそらくは“修羅場”のようなものについても、我関せずな態度で傍観することにする。
ルルはイリスの様子に慌てて言った。
「いや、イリス……それは済まなかった。別に黙っていた訳じゃなくて、後で言えばいいと思っていてだな……」
「それが黙っていたと言うのです!」
ルルの言い訳に即座に反応し、イリスには珍しく声を荒げてそんなことを言う。
そんな態度に一番驚いたのは、ルルでもゾエでもなく、イリス自身のようで、言葉を発した後、はっとして、
「……申し訳なく存じます。おじさまに……八つ当たりのような真似をして……」
そう言って深く落ち込んでいく。
ルルとしては、バルバラのことについて言わなかったことは大したことではなかったのだが、イリスにしてみれば大問題だったようだとルルはそこで初めて認識する。
思い返してみれば、昔もこんなことが良くあったような気がする。
言うべきこと、大事なことを伝えずに、部下たちに後になって怒られた。
そんなことが。
それはいつでもルル自身の身を案じてのことで、決して自らの感情を優先して言っている訳ではなかったことを、常にルルは理解していた。
自分には勿体の無い、仲間達だった。
今のイリスも、間違いなく、そうである。
そう思ってルルは言う。
「……イリス。いや、それは八つ当たりじゃないさ……。すまない。俺が悪かった」
素直に頭を下げたルルにイリスは驚き、慌てる。
感情を露わにしていたとは言え、それはルルに非があった、と心底思っていたからという訳ではなかったからだ。
半分以上は、確かにルルを心配してのことだが、かなりの部分を自分の個人的な感情に基づくものであることをイリスは自覚していた。
ただ、それがどういう感情で、なぜそういう気持ちになっているのか、イリスには理解しきれていなかったが。
ただ、少なくとも、ルルが謝るようなことではないのだ。
仮に、ルルに非があるというのなら、それ以上にイリスにも非がある。
そう思った。
だからイリスはルルの肩に手をやり、頭を上げてもらってから、涙混じりの声で言った。
「いえ……いえ! そんなことはありませんわ! 悪いのは……私なのです」
しかし、ルルにはそんなイリスの言葉の意味が分からなかったようだ。
首を傾げて、ルルは言う。
「どうしてイリスが悪いんだ……正確な情報をイリスとゾエに言わないで、心配をかけたんだ。俺が悪いだろう?」
確かに、イリスとしてはそういう文脈で話をしていたから、間違いではない。
間違いではないが、正確なところは違うのだ。
ただ、それを言うことは、どんな意味でも出来なかった。
本当なら言わなければならないということは分かっていた。
そしてその上で、罰を受けなければならないということも。
けれど、イリスはルルの言葉に何も言わずに黙って下を向いてしまう。
ルルもどうしたらいいのか分からなくなり、おろおろとイリスに話しかけるが、イリスは辛そうな表情で下を向いたのままだ。
流石に見かねたのか、ゾエが近づいてきて、口を挟む。
「……見てられないわ。全く。二人とも子供みたい……って子供だったわね」
と微笑みながら。
ルルは過去の年齢を考えれば子供、と言うのはためらわれるが、少なくとも今の外見は確かに子供である。
イリスが少女であることも間違いないだろう。
ゾエは続けた。
「イリス。貴女の気持ちは……難しいわ。それを、今、ルルに理解できるように説明するのは……出来ないわよね」
そんなゾエの言葉に、イリスははっとして顔を上げ、目を見開く。
ゾエはそんなイリスに頷き、さらにルルに振り返って、
「ルル。今回、ルルはバルバラさんのことを私たちに教えてくれなかったけど……」
「あぁ。だから、悪いと思って……」
ルルがゾエの言葉を受けてそう返すと、ゾエは首を振って即座に答える。
「それは殆ど関係ないわ」
「えっ?」
「関係ないのよ……もちろん、私もイリスも、ルルを守りたい、ルルより後に死ぬつもりはないっていつも思ってるけど、それとこれとは全然別の話なのよね。だから、ルルは謝る必要はないわ。これに限っては。ただ……少し、気を遣ってほしいかな、とは思うけれど」
ゾエの言い方に首を傾げるルル。
何を伝えたいのか、分からない。
「それは……どういう意味だ?」
「どういう意味なのか、これからは少し、考えてみてほしいって事よ。これは臣下としてではなく、パーティーメンバーとして言ってるんだからね。頼むわよ?」
と意味深に笑って、ゾエはルルの肩を叩いた。
それからゾエは、
「イリスも……少し落ち着いた方がいいわ。色々な気持ちがあって、整理できないのは分かるけど……それで喧嘩しちゃったら悲しいじゃない」
「そんな……私は喧嘩などしているつもりは……」
イリスは困惑したようにゆるゆると首を振るが、ゾエははっきりと言った。
「いいえ。これは喧嘩ね。もうどうしようもなくただの喧嘩よ」
もっと言えば痴話げんかね、と余程言いたかったゾエであるが、そこのところをはっきりさせるのは二人にとってまだ良くないだろうと思いそこまでは言わないことにした。
それから、
「ま、何にせよ、二人ともこれで雰囲気が悪くなっちゃったら嫌でしょう? ここは……とりあえず、もう終わりにしましょう。たぶん、それが一番いい。だから今日は一旦休んで、明日からはいつも通りに。無理かしら?」
言われて、顔を見合わせるルルとイリス。
無理かと聞かれたら、無理ではない。
二人とも、お互いのことを大切に思っているのは間違いなく、出来ることならいつも通りの雰囲気に戻りたい、と思っている。
だから、二人は神妙な様子で頷き、お互いに、
「……すまなかった」
「いえ、私も……申し訳ありませんでした。明日からは……しっかりしますので」
そう言って、ベッドに入ることにしたのだった。
ちなみに宿についた直後から、ニーナは小竜姿で爆睡中であった。
イリスのベッドに入っていたので、イリスは自分がベッドに入るとき、抱きあげて一緒に眠ることにしたようだった。
二人がそれからしばらくして、眠りに入ったのを見たゾエは、ため息を吐きながらつぶやく。
「……手間がかかる二人よね……」
どういう意味で、なのかはもはや議論の余地のない話である。
こきこきと首と肩を鳴らしてゾエは精神的に疲労した様子で、自分もベッドに入ったのだった。
◆◇◆◇◆
「……きゅっ」
がつ。
「きゅきゅきゅっ」
がつがつがつ。
「きゅー!」
どすん。
「ぐは!」
ルルは、腹部に唐突に感じた重みに驚いて起き上がる。
目を開くと、お腹の上にニーナが乗っかってこちらを見ていた。
なぜだが頭も少し痛み、先ほどからがつがつと鳴っていたのはどうやらニーナに突かれていたかららしいという事が分かる。
横を見れば、起き抜けのイリスの顔が目に入り、どうやらこちらをじっと見つめていたらしく、目が合う。
するとイリスは少し赤くなって、
「……お、おはようございます……」
と挨拶してきた。
その様子はいつも通りで、昨日のぎすぎすした雰囲気は感じられない。
どうやら、大丈夫だったようだ、と安心し、ルルもそれに返事をして起きることにした。
「あぁ。おはよう、イリス」
起き上がって部屋を見てみると、ゾエはいないようで、どこにいったのかとしばらく待っていると、部屋の扉が開き、
「あ、おはよう。二人とも。起きたのね。蟠りは……なさそうね」
と、言って笑った。
手には朝食らしきものの入ったバスケットを持っていて、部屋に備え付けのテーブルにそれを置く。
「朝ごはんもらってきたの。食べましょう。これはリガドラちゃんにだって」
そう言ってもう片方の手に持っていた少し小さめのバスケットをニーナに差し出す。
そこにはパンとお菓子が入っていて、ニーナは嬉しげに尻尾を振りながら飛んでいき、中を漁って食べ始めた。
ルルとイリスもテーブルについて朝食を採ることにする。
黙々と、ではなく適度に雑談しながらの食事で、まさにいつもと変わらない。
昨日の険悪さはどこにも無かった。
そんな中、イリスが勇気を振り絞ったかのような様子で口を開く。
「あの……」
「なんだ?」
ルルが首を傾げると、イリスは言った。
「改めて昨日の事は、本当に申し訳なく存じます。私の身勝手な理屈を押し付けて……おじさまにはおじさまの考えがありますのに……」
「身勝手でもないさ。俺はしっかり説明すべきだったからな。それに、あんなに怒ったのは、他にも理由はあるからなんだろ?」
「それは……そう、なのかもしれません……」
イリスが言いにくそうに頷いた。
「だったら、いいさ。その理由がなんなのか俺には分からないんだが……」
「そのうち分かるわ」
ゾエが口を挟んでそう言ったので、ルルは肩を竦めて、
「ってことらしいし、それまではとりあえず俺を許してくれないか?」
と冗談交じりに言う。
それがイリスには何だか面白かったらしく、ふっと吹き出すように笑い、
「ふふっ……ええ、分かりました。では、許して差し上げますわ。おじさま」
「あぁ。ありがとうな、イリス」
そう言って、完全に蟠りは解けたのだった。
◆◇◆◇◆
食事を終え、三人はフィナルの街に繰り出す。
今日はバルバラたちにフィナルの街を案内する予定だからだ。
特にルル一人で、と指定を受けている訳ではなく、またフィナルの街についてはどちらかと言えばルルよりイリスとゾエの方が詳しい。
ルルは魔法具店や武具店くらいしか分からないので、その意味でも二人の女性の付添は必要であった。
ニーナは連れて行かないときっとバルバラが怒るに違いないと言うことは目に見えていたので、しっかりと連れてきている。
ぱたぱたと先導するように飛んでいるニーナ。
それをぼんやりと見つめていたイリスが、突然、何かに気づいたかのようにはっとしてルルに尋ねてきた。
「……バルバラさんがあのような人の姿を取ることが出来るというのなら、リガドラちゃんも同じことが出来るのですか!?」
言われて、そう言えば言ってなかったなと思い出す。
これも怒られてしまうのか……。
そう不安に思いつつも、ルルは頷いたが、イリスは特に怒ったりはしなかった。
やはり昨日のあれは、言わなかった、と言うこと以外に何か色々と込み入った理由があるらしいとそれで分かる。
イリスは言う。
「それならば、ぜひ、人の姿を見せて頂きたいのですが……」
「そうね、確かに見てみたいわ」
ゾエもイリスの提案に賛同する。
ルルとしては別に構わないのだが、当の本竜(?)の承諾が必要であろう。
ルルはニーナを呼び止めて、頭に載せて尋ねた。
「ニーナ。人の姿になってもらうことは可能か?」
しかし、ニーナは首を振った。
しっかり人の姿になったのは見ていたので、出来ないはずはないのだが。
そう思ってルルは質問を重ねようとしたところ、イリスから突っ込みが入った。
「ニーナ……と言うのは、もしかしてリガドラちゃんの本名ですか!?」
「あぁ、それも言ってなかったな……すまないな。こうして考えると俺は本当に色々説明不足だな。改めるよ」
そう謝るルルに、イリスは、
「いえ、そんな……」
と恐縮するように一歩下がる。
そんな様子にこのまま謝り続けると昨日の繰り返しだと感じたルルは、話を元に戻すことにした。
「そうそう、ニーナな。バルバラがリガドラのことをそう呼んでてさ。リガドラより、ニーナの方がいい名前だろう?」
そうニーナに言うが、ぷい、と首を逸らす。
イリスは、
「リガドラちゃんはリガドラという名前の方が気に入っているのですね……」
ルルは苦笑して頷いた。
「らしいな。ま、でも好きな方で呼べばいいだろうさ。しかし、人の姿になれないのか?」
改めて尋ねると、ニーナはこくこくと頷く。