第196話 お願い
大会議室の中には多くの人が集まっていた。
その面々は誰もがフィナルの重要な一角を占める大人物たちであり、一般人は一人もいない。
それぞれの瞳に宿っている鋭さは、自らの力でこの席上まで登り詰めたのだという自信と矜持が覗いていた。
しかし、そんな彼らをもってしても、ここ最近のフィナルの置かれている状況はそう簡単に飲み込めるようなものではないようである。
誰もが、その表情には読み取りにくいが、多少の不安と焦燥が感じられる。
ログスエラ山脈関連の魔物の情報は、彼らにそれだけの脅威を与えるものだった。
しかも、こんな夜中に人知れず集まることになった原因は、その最たるものだった。
フィナル冒険者組合長オロトス、それに北方組合長モイツと、フィナル領主であるクロードのみが平然とした顔をしているが、それすらも努力して心の裡を隠しているだけに過ぎないことを、本人たちが一番よく理解しているほどである。
ただ、部屋の隅の方に、若い少年少女、それに妙齢の女性が一人、場違いにも立っていて、彼等だけは真実、平然としているようであった。
少年の頭の上には一匹の小竜が乗っかっており、ぐでっとしていて脱力を誘うが、それに注目する者は緊張感あふれるこの場にはいない。
そして、重い雰囲気に呑みこまれそうな大会議室の扉の向こう側から、どたどたと誰かが走ってくる音が聞こえた。
――冒険者組合職員だろう。
そう思ったオロトスは、その誰かが扉を開く前に立ちあがり、扉に近づいた。
がんがん、と叩かれた扉の向こう側から、声が聞こえる。
「お、おいでになりました!」
怯えと焦りの宿っているその声の中に、一体どれほどの者がここにやってきたのかが理解できる彼女の声。
特にどんな人物が訪ねてくる、と詳細は伝えてはいないのだが、ここ大会議室に集っている面々が今か今かと待っている存在であると言うだけで、どれほどの重要人物かという事が分かるのだろう。
オロトスは扉を開き、そんな彼女に声をかける。
「……分かった。では、ここまでお通ししてくれ」
「は、はい! 今すぐに!」
そのままどたどたと階段を駆け下りていく。
二階に応接室があり、今はそこに留めおいているのだろう。
ほどなくして、再度、大会議室の扉が叩かれた。
「……お連れしました」
その声は先ほどまでとはことなり、冷静そうな、ひどく抑えられた声であった。
問題の人物と一緒にいるため、礼儀と言うものを考えての態度なのだろう。
がちゃり、と扉が開き、そしてオロトスはその人物の姿を見た。
◆◇◆◇◆
まず初めに、一人ではなく二人であることが目に入った。
ただ、二人とも、ぱっと見は、特に何の変哲もない、人族に見えた。
どこにでもいる、とまで言うことが出来ないのは、二人の美貌の故であって、若い女性、という意味では特におかしなところはない。
門番からの報告で、護衛と思しき者と二人組だ、とのことだったので、二人いることにも特に驚きは無かった。
「ようこそ、おいで下さいました……私はこのフィナル冒険者組合の長を務めさせていただいております、オロトス、という者です。以後お見知りおきを」
大会議室の中にいる者、全員が彼女たちに注目していることは分かったが、誰も一言も発しないのは、どう行動すべきかまだ判断がつかないからだろう。
少なくとも、誰かが口火を切る必要があり、その役目は自分がすべきものであることを理解していたオロトスは、とりあえず当たり障りのない挨拶から入った。
これに対する反応によって、大まかにではあるが相手の人物像のようなものが見えてくるものである。
そうすれば、今後の話し合いも、少しは円滑になるだろうという考えがあった。
そんなオロトスの言葉に答えたのは、二人組の女性のうち、青い髪と琥珀色の瞳を持つ女性の方だ。
不思議な雰囲気を持っていて、大らかでいながら、じっと見ていると息苦しくなるような威圧感を感じる。
この感覚を、オロトスは知っていた。
「オロトス、ですね。覚えました……今日のお昼に、一度顔は会わせましたね? あのとき、私は今とは似ても似つかない姿でしたが……」
そう言ったとき、分かっていたこととは言え、オロトスは目を見開く。
それから、震えるような声で、
「お、覚えておられましたか……御身の余りの迫力に小さくなってばかりおりましたが……」
オロトスのそんな言葉に、女性は上品に微笑み、言う。
「私に初めて会い、あれほどの距離に近づいた者の中で、貴方の態度は立派なものだったと思いますよ。大抵の者が……申し上げにくいのですが、粗相をされてしまうもので」
そんな言葉を聞き、これは馬鹿にされているのだろうかという気分に陥ったオロトスであるが、実際に自分がした経験を思い返してみれば、その恐ろしさは確かに粗相をしてもおかしくないようなものだった。
少なくとも、あれからしばらくしてあの場に展開していた騎士や冒険者たちの話を聞くと、オロトス達よりもずっと遠くにいたのに粗相をしていた者が少なくない数いたという。
ただ、それでももう少し、堂々とは出来なかったものかと今でも思う所ではあり、オロトスはそのことを正直に述べた。
「粗相は確かに致しませんでしたが……モイツ殿とクロード殿の態度に比べれば、私の態度など、ただ怯えていただけに過ぎませぬ。これからはもっと、精進致したく存じます」
「謙虚な方ですね。今まであまり人と接することはありませんでしたが……貴方のような方がいらっしゃるのでしたら、もう少し早く、街に下りてきてもよかったかもしれません」
その言葉にオロトスはどうこたえるべきか、迷う。
実際に彼女にそう何度もフィナルに来られては街は混乱に陥ってしまうのだが、しかし今、目の前にいるこの姿であればさほど問題は無いだろうと言う気もする。
どっちの姿で来たいと言っているのか判然とはしないため、オロトスは言葉に詰まりかけるが、女性の方がそれを察してくれた。
「もちろん、あまり大きな姿で来ては街の方々も困ってしまうでしょうから……こちらの姿で。先ほど、門番の方に気を遣って頂いて、いくつかおいしいお菓子のお店なども教えて頂いたのです。山も森も楽しいところですが、街は街で色々な楽しみがありそうですね」
オロトスは女性の言葉に、この人が菓子など食べるのだろうかと首を一瞬傾げるが、そんなことはどうでもいいことだ。
とにかく、これだけ話せば、この会議の出席者にもこの女性が少なくとも会話の通じる存在であることは伝わっただろう。
そう思って、オロトスはこれからの話をし始めるべく、女性に席を勧める。
「そう言って頂けると、フィナルの者としても嬉しいですな。もしお暇があれば、明日、街を案内する者をつけましょう。それでは席はご用意しております。こちらへどうぞ――古代竜バルバラ殿」
最後に付け加えられた呼称に、その場の者たちは息を止める。
出席する前に、彼らには他言無用を徹底するように伝えたうえで、今日この場に誰が何のために来るのかを説明していた。
誰もが半信半疑であり、中にはまったくの虚言であると主張する者もいたが、事実は事実なのだ。
オロトスのほとんど必死と言っていい出席の説得にとうとう誰もが折れ始め、そしてこの場にいるというわけである。
だから、彼女が古代竜だと言われても納得できない者もこの場にはいるわけで……。
彼女――バルバラが席に座ったところで、まずその点について出席者の一人、フィナルにおいて最も大店であるアルモグ商会の会頭を務める男、ノリスが叫ぶように言った。
「ちょっと待ってくれ! オロトス殿はその美しい方を古代竜だと信じ切っておられるようだが、果たしてそんなことがあるものなのか?」
そんな風に。
言い方が若干気障と言うか、鼻にかかったような声と共に人の神経を逆なでするような雰囲気なのは、彼の地である。
ただ、付き合ってみれば意外と悪い男ではなく、私生活では妻の尻に敷かれていると言う愛すべき恐妻家なのだが、そんなことはどうでもいいことだ。
彼の言葉は、間違いなくこの場においてまず初めに出るだろうと予想された質問で、むしろ、率直に尋ねてくれたことがありがたかった。
おそらくだが、彼はそれを分かって言っている。
オロトスを見る目に、微笑みが宿っているからだ。
オロトスはそんな彼の気遣いに感謝しつつ、答えようとしたのだが、彼が口を開く前に、バルバラの方が話し始める。
「その点が気になるのでしたら、私としましてはこの場において真の姿をお見せすることもやぶさかではありません。しかし、その場合、この建物と、皆さまのお命に関しましては保証しかねますが……」
と殆ど恫喝に近いような台詞である。
事前に、ルルたちからオロトスは彼女、バルバラが人の世界にはまるで慣れていない、という説明を受けていたが、それは事実であるらしいとここで理解する。
これではせっかく和やかになりかけていた雰囲気が逆戻りしてしまう……と、オロトスが危惧してどうにか雰囲気を元通りにしようと何か言おうとしたところ、無言でバルバラの後ろに控えていた隻眼の女性がゆっくりと口を開いた。
「……バルバラさま。そのような事をされずとも、私が証明になりましょう」
その台詞の意味を、その場の誰もが理解しかねたが、バルバラはそれだけでよく分かったようだ。
頷いて、
「……そうですね。それがいいかもしれません……ではシュゾン。お願いします」
と言った。
何をお願いするのか、一体何をする気なのか。
誰もが訪ねようとしたところで、突然、完全に締め切られているはずの大会議室に風が巻き起こった。
ばさばさとカーテンが揺らされ、出席者たちのかけるテーブルの前に置かれた書類が吹き飛んでいく。
出席者たちは突然起こった風に顔を覆い、また驚きを感じて辺りを見回した。
オロトスも同じで、一体何が起こったのかと観察する。
今は冒険者組合の事務方として働いているとはいえ、元は冒険者だったオロトスである。
多少衰えたとはいえ、このような緊急事態には弱くは無かった。
そんなオロトスの目から見て、風はどうやらシュゾン、と呼ばれた女性を中心に巻き起こっているようである。
彼女の周りに竜巻のような風が吹いており、書類やら何やら比較的軽いものがくるくると巻き取られて回っている。
風の魔術だろうか?
そう思うが、それにしては様子がおかしかった。
何かがオロトスにそう感じさせた。
しかし、なぜそう自分が感じているのかはしばらくの間、オロトスの頭の中で判然としなかったが、ある瞬間、オロトスは気づく。
風の中心にあったはずの女性の影。
それが徐々にぼんやりと輪郭を失っていき、形を変えていくことに。
小さく華奢な女性のものだったその影は、少しずつ黒色の粒子へと変わっていき、膨らむように大きくなっていった。
そして、だんだんとその質感が明らかになっていく。
どう見ても、それは人のものではなく、何か獣の毛皮のそれだった。
真黒くも艶のある美しい毛皮に、知性の宿る真っ赤な瞳。
そして息をするたびに吹き出される青い炎。
その姿に、オロトスは覚えがあった。
そして、オロトス以外にも知っている者がいたらしい。
「ヘ、地獄犬……!?」
がたり、と座っていた椅子を倒して壁側に背中を擦り付けて逃げようとしている者がいた。
その男の言葉に、オロトスは頷く。
確かに、あれは地獄犬である。
しかも、通常のものよりも強力であることも感じられた。
ログスエラ山脈でも奥地に群れがいるとは聞いたことがあるが、非常に強く、賢く、またそのボスの個体は強力で、おいそれと近づくことは出来ないと言われる。
したがってフィナル周辺では滅多に見ることの出来ない存在のはずなのだが、そんな者が冒険者組合の大会議室の中にいるのだ。
この場で暴虐の限りを尽くされればそれだけでフィナル冒険者組合の――ひいてはフィナルという街自体の機能が壊滅に陥ってしまう。
怯えるのも当然の話だった。
けれど、バルバラはそんな地獄犬に近づき、喉を撫でて言うのだ。
「いかがでしょう? みなさん。シュゾンはこのように魔物の姿に変わることが出来ます。私も、同じ――もしこれでもご不満でしたら、今すぐに私も同様のことをしますが?」
柔らかな微笑みだった。
しかし、そんな彼女の言葉に首を縦に振る者などいるはずもない。
全員がすべて信じるから、頼むからそれだけはやめてくれと叫んだのは、それからほどなくの事だった。