第193話 現実
「よくよく説明を受けた今でも半信半疑なのだが……本当なのか?」
怪訝そうな顔で、フィナル冒険者組合組合長であるオロトスが、空を見つめながら隣に立っているゾエにぽつりとそう、呟いた。
前方を見れば、そこにはフィナル正門の前にずらりと並ぶフィナルの騎士、冒険者達の姿がひしめき合っている。
更に先を見つめると、ログスエラ山脈麓の森まで続く街道と平坦な草原が広がっており、騎士や冒険者たちが陣形を築いて構えていても、まだまだ十分に余裕があるほどに広大な景色が広がっていた。
その上、その騎士や冒険者たちの格好を観察してみれば、誰もが万全の装備に身を包んでおり、またその装備や、周囲の確認に余念がない様子は、今にも開戦間近の軍勢を見るような思いがする。
――実際、戦争の方がずっと気が楽なのかもしれない。
ゾエは、緊張に満ち満ちた騎士や冒険者たちの様子を見ながら、ふとそんなことを思った。
何せ、これだけの戦力を一所に集めなければならないことなど、そうそうないことである。
さらに地方都市とは言え、かなりの規模と歴史を誇るフィナルの冒険者組合長、領主、それに北方組合長が連名で指示を出したのだ。
しかもその内容は常軌を逸した、いや、とてもではないが信じることの出来ないようなもので、騎士も冒険者も、始めてそれを聞いた時、冗談を言っているものかと考えて笑ったくらいだ。
しかし、詳しい説明を聞き、また実際に事態がそれを事実として動いていく中で、騎士と冒険者たちにもそれが真実であると徐々に理解が進んでいった。
結果として、その緊張は今、最高潮に達している。
ここに展開している者の殆どが、騎士と冒険者とを問わず、ちらちらと空を見つめ、自身の武具を確かめ、不安そうにしている。
オロトスもそんな者たちの例にもれず、不安でたまらずにゾエに聞いたのだろう。
モイツとクロードは妙に泰然としており、そのことが余計にオロトスにプレッシャーをかけているのかもしれない。
だからゾエはふっと笑って言う。
「本当よ。正直、私も叫びだしたい気分になるところではあるのだけど……」
その言葉は、オロトスには意外だったようで、彼は目を見開いてゾエに尋ねた。
「モイツ様とクロード様と同様、ゾエ、お前も堂々としておるから余裕があるものと思っていたのだが……?」
確かに、ゾエには余裕があると言えばあるだろう。
ルルがすることだ。
たとえどんなことがあったとしても、“ルルだから”で納得できる心をゾエは持っている。
これはかつての魔王臣下に共通する心であり、そうではない者たちに理解できるところではないだろう。
モイツとクロードは元々の器の大きさ、それに若いころに近くに自分の常識を超えていく者がいた経験があるからこそ、柔軟に様々なところが受け入れられているのだと思われた。
しかしそうは言っても、この二人はよく観察してみれば冷や汗、のようなものが僅かに流れていることが確認できる。
人前だから慌てる姿を見せるわけにはいかない、というのが一番大きいのだろう。
実際は気が気でない、と言うのが事実だ。
ゾエも、その意味では似たようなところがある。
魔王陛下だから、という事で納得できることだが、ルルが魔王陛下ではないと仮定して考えた場合に、彼のしていることはまさにゾエの常識の範囲外である。
古代竜。
かつて竜騎士であったゾエが、幾度も憧れた最強の竜族であるのに、ルルの前にはただの愛玩動物であるという事実は、竜騎士として、納得がいかないものがある。
強く気高く賢く、何者にも屈しないと言われていたその存在が、ルルの魔力の前に膝を軽く折るのだ。
流石は魔王陛下、と臣下として思うと同時に、最強の竜ならもっと堂々としてろと言いたくならないではないのだ。
だからこそ、叫びたい気分だ、ということなのだが、オロトスはこれから起こることにゾエもまた、多少の怯えを感じているらしいと捉えたようである。
ゾエはその勘違いについて訂正すべきかどうか考えるが、オロトスが仲間を見つけたような瞳をしているため、そのままにしておこうかと思う。
「……余裕なんてないわ。モイツ様とクロード様も、沢山人がいるから頑張っているだけでしょうし」
と言った。
その言葉にオロトスは頷き、
「……これから起こることは歴史上初めての事だ。それを思えば……誰もがそうであっておかしくはない、そういうことなのだな……」
と自分に言い聞かせるように言ったのだった。
◆◇◆◇◆
それは唐突にやってきた。
いや、正確に言うなら、そのように感じられた、というべきだろうか。
晴天の鮮やかな空をふっと何かが遮り、辺りが暗闇に包まれたのだ。
ずっと、誰もが緊張して空を見つめていたのだが、その瞬間を察知できたものはいなかった。
そして、ばさりばさりと風が地面を叩きつけ始め、驚き、慌てつつも逃げずにその場にとどまり続けた者たちは、その瞬間を目撃する。
目の前の平原の上に、巨大な影が舞い降りる。
ずずん、と巨大な足で掴んでいたその物体をまず降ろしたその存在は、次に少し離れた位置にゆっくりと舞い降り、その巨体からは考えられないほど優雅に地面に足をつけて、座った。
その一部始終を見ていた者たちの驚愕と言ったら、今まで生きてきた中で一番であると紛れも無く言えるものであったのは間違いない。
その存在の事は知っていた。
名前も、恐ろしさも、強さも、容姿も。
フィナルに住む者なら、物心ついた時から耳にタコが出来るくらいに聞かされ、最も畏れ、そしてある意味で敬い、伝説の体現者として憧れる、そんな存在なのだから。
しかし、実際に目にした者などほとんどいないのだ。
ログスエラ山脈山頂に籠り、余程の事が無ければ出てこないと言われ、また実際にその姿が現された時は、瑞兆であるとも、凶兆であるとも言われるくらいだ。
人生で一度くらいは、と思いつつも、やはり見れずに死ぬのだろうと、そんな風にフィナルの住人達が感じているもの。
それが、今、目の前にいる。
見れば見るほど、優美であり、また精強そうでもあり、深い知恵と知識を持つ、人を超えた何かのように思えた。
その前足の一振りで、一体どれほどの生命を刈り取ることが出来るのか、想像も出来ないし、その息がいかにして街を破壊せしめるのか考えることも恐ろしかった。
「……古代竜。嘘ではなかったのか……!」
ゾエの隣で、オロトスがガクガクと震えながらそう言った。
別に、信じていなかった、というほどではなかったのだろう。
ただ、いくら真実だと言われても、実際に目にするまで信じ切れないものというのはある。
それこそが、目の前にいる古代竜であるということだ。
かく言うゾエも、これほどはっきりと古代竜の姿を見たのは、実のところ初めてだった。
巨大な竜族、と言うのは少なくとも過去において騎竜にしている上司がいなかったわけではないので見慣れているのだが、古代竜はそんなゾエですら見ることの難しい生き物の一つだった。
これほど近くで、しかもゆっくりと観察できるというのは、竜騎士としてとても貴重で、喜ばしい経験であるのは間違いなく、冷静な顔をしていながら、人知れず心が踊っているくらいである。
ただ、この場において、そんな個人的感情を優先するわけにはいかず、まずはあの古代竜と意思疎通できることを示さなければならない。
ゾエとイリスは、そのためにルルよりも先にフィナルに帰ってきたのだから。
そのため、ゾエは同じくオロトスの横に控えていたイリスに言った。
「じゃ、行きましょうか。イリス」
「え、ええ……そうですわね」
ゾエの言葉に、なぜかイリスは少し首を傾げている。
不思議に思ってゾエは尋ねる。
「……どうしたの? イリスは……見たことあるんでしょう? リガドラちゃんの古代竜姿」
「ええ。見たことあるどころか、拳を交えたことが……しかし、おかしいのです」
「何が?」
尋ねるゾエに、イリスもよく分かっていないように首を傾げるが、しかし確信を持った表情で言った。
「なんでしょう? こう……うまく言えないのですが、あれは……リガドラちゃんの古代竜姿とは違います。なんだか妙に洗練されていると言うか……綺麗すぎると言うか。私が王都の闘技場で見たのは、もっと小さく、もっとかわいらしかったような……」
その言葉に、ゾエは呆れたように言った。
「リガドラちゃんの小竜姿があんまりにも可愛いから混同しちゃってるんじゃないの?」
イリスはその言葉に少しの間、顎に人差し指を添えて、眉を寄せていたが、ゾエの言う通りかもしれない、と言う結論に至ったのだろう。
「そう、ですわね……そうかもしれません。考え過ぎだったのかも……」
と気になる台詞を言って古代竜の元へ歩き出した。
ゾエもそれを追いかける。
二人だけで言っても仕方がないので、
「じゃあ、三人とも、行けるかしら?」
と後ろにいるモイツ、クロード、オロトスに声をかけた。
モイツは穏やかに頷き、クロードは笑って返事をし、オロトスは恐る恐る、と言った様子でゆっくりと首を縦に振った。
三者三様であるが、覚悟は決まっているらしい。
それを確認したゾエは、そして気負いのない様子でさくさくと歩き出したのだった。
◆◇◆◇◆
前面に陣を築いている騎士と冒険者たちがゾエとイリス、それにモイツたち三人に道を開けていく。
意識的に、と言うよりは殆ど無意識に近いような様子である。
事前に、古代竜がこの場にやってくる、と聞かされて展開しており、何かあれば捨て身で戦う覚悟でいたのだが、現実に目にしてしまうとそんな覚悟も吹き飛んだようだ。
あれには勝てない、と本能的に感じ取ったのかもしれない。
そしてそうなると、残るは対話による解決である。
もともと、古代竜がフィナルまで来るのは、森で捕獲された巨人の運搬、それにフィナルの責任者たちと対話したいからだ、と聞いていた騎士・冒険者達としては、そこに最後の望みを託すような気分だという訳だ。
実際はまったく敵対的な存在ではない、とゾエとイリスは分かっているが、他の者たちにとっては生きた心地のしない時間であろう。
近づいていくと、手前に古代竜の運んできた巨人が転がっている。
これだけでも恐ろしいと言うのに、その向こう側にはそんな巨人の圧力が問題にならないほどの威圧感のある生命体がいるのだ。
感じられる魔力も信じられないほど大きく、濃密で、生き物としての格の違いを知らされるような想いがしているのだ。
「……そんなに怖がらなくても……って無理よね」
ゾエが独り言のようにそう言うと、先を進んでいるイリスが笑った。
「少し強い、程度の魔物ならともかく、流石に格が違います。それは難しい相談ですわ……」
二人には雑談をする余裕があるわけだが、モイツ達三人にはないらしい。
近づくたびに歩く速度は遅くなっていくが、進まないわけにはいかないことを知っているために意地でも足を止めないと言う気概が感じられる。
立派な態度であり、なるほど、確かに三人ともそれぞれの組織の代表となるだけのことはあるなと感じさせられる。
そうして、しばらくすると、とうとう古代竜の前に辿り着く。
「改めてみると、大きいわね……大赤竜よりも大きいわ」
とゾエが言った。
大赤竜とは、古代竜を除く既存の竜の中でも巨大だとされているもので、その大きさは50メートルを超える。
しかし、目の前の古代竜はそれよりも大きいのだ。
ゾエとしては感嘆のため息しか出てこない。
このような竜をかつて、騎竜に出来ていたら、あの戦争でももっと活躍できたのかもしれない、と今さらながらに後悔の念が湧きあがるが、そんなことは考えても仕方ないことだと首を振る。
どうやっても、騎竜になど出来る存在ではない、と目の前にして分かってしまったからだ。
これは、確かに話で聞いた通りの、誇り高く誰にも屈しない、竜のなかの竜だ、と。
「……では、準備はよろしいでしょうか?」
イリスが振り返って、三人の重鎮たちに尋ねる。
それは、会話を初めてもいいか、という意味だった。
モイツ達は、その言葉にゆっくりと首を振って、頷いたのだった。