第185話 満足
「……ふう。夢のような味でした……」
妖しい吐息を吐きながらてかてかとした肌の色で恍惚とした表情を浮かべつつそんな言葉を口にするバルバラはちょっと危険な程に色っぽい。
何も事情を知らずに彼女のこのような姿を目にしていたら、普通の男なら十中八九誘惑されるのは間違いないだろう。
しかし、ルルは普通とは言えない存在であるし、さらにはなぜ彼女がこんな表情を浮かべて幸せそうにしているのかをよく理解していた。
その上で、彼女にそう言った色気染みた感情を抱けというのは色々と無理があった。
微妙な表情で、満足したと言ったにもかかわらずまだルルの手をぺろぺろ舐めている残念なその女性にルルは言う。
「……満足したなら、聞きたいことがいろいろあるんだ。話を聞いてくれ」
「なんでひょうか? ぺろぺろ」
手まで嘗めるのは魔力の放出をやめた為に、先ほどまで放出していた手の周りに魔力がまとわりついているからだろう。
反対側の手はニーナが同じようにしゃぶっている。
絵面も凄いが、それ以上に涎でべとべとである。
実に心からやめてほしいので、ルルは言う。
「……まず、舐めるのはやめろ。俺の魔力が食いたいならいつでも出してやる。と言うか、そもそも、これ以上食べると太るとか言って魔力の放出を止めたのはお前らだろう?」
言われて、二人はそろってはっとした表情になり、名残惜しそうに、犬がほとんど肉のついてない骨付き肉をがじがじとするようにしゃぶっていたルルの手をゆっくりと置いて、少し下がった。
「……」
ルルは置かれた手のべたべた具合を確認して、ぼそりと呟く。
「……水」
そう唱えると同時に、空中に水滴が形をとって球体になり、そこからじゃばじゃばと水が流れ始めた。
それでもって手をごしごし洗ったルル。
十分にべたべたが取れたのを確認して、さらに唱える。
「……火」
今度は手元に火の玉が浮かび、それに手を近づけて乾かした。
しっかりと乾いたのが分かると、ルルは魔術の発動を止める。
本来なら特に何も唱えずとも使える魔術をわざわざ呪文を唱えて使ったのは、出来る限り効率よく魔術を使い、魔力の放出をさせないためだ。
呪文を唱えずとも、ほとんど魔力のロスを生まないルル。
それでも、僅かに魔術に使用されない魔力は出る。
呪文を唱えれば、その魔力のロスを限りなくゼロに近づけられるため、そうしたのだ。
なぜ、魔力のロスをなくしたかったのか、と言えば、二匹の竜にまた舐められては敵わないからだ。
また、少しばかりの嫌がらせという側面も無くもない。
漏れた魔力をおやつ代わりに食い始めるのが古代竜という種族なのだとルルは認識し始めていた。
さっきやったんだからもうやらん。
というわけである。
そんなルルの意図を理解してか、それとも無意識にか、物欲しそうな顔で魔術を使うルルとその周囲を見ていた二匹の竜だが、さすがに腹はある程度埋まったのだろう。
先ほどのようにどうしても我慢できないという様子は無く、仕方がないといった雰囲気で、ルルに向き直った。
「……それで、聞きたいことでしたか」
真面目な顔でそう言ったバルバラだが、ルルにはもうそこに威厳やら威圧感やらは感じられない。
ただの食いしん坊にしか見えないのである。
それでも、表情を取り繕うのはやめないらしく、外見的にはツンとした様子の物静かな美人に見えるので何となく腹立たしい。
しかし、そこを突っ込むのすら面倒臭い気がした。
ルルは大きくため息をついて、色々なことは脇に置いて話を進めることにする。
「……あぁ。色々あるが、そうだな。そういえば、最初に言ってた、元凶って何の話だ?」
顔を合わせると同時に罵られたのだ。
何が理由だったのか、知っておきたいとルルは思った。
石つぶてを投げられた理由は、不法侵入者だったから、ということで分かった。
しかし、何かの元凶扱いされるような理由に心当たりは無かった。
ルルの言葉にバルバラは、あぁ、そんなことも言ったっけ、というような顔をして、
「既に私の中では誤解が解けたことですが……簡単に言えば、ニーナがここにいつまでも戻ってこなかったことについて、私は貴方に責任があると思っていたのです」
「と言うと?」
「つい先日、報告を受けまして。ニーナが数人の人族と一緒に仲良さげに歩いていた、と。ですから、ニーナが貴方に懐いてしまったがゆえに、ここから出ていき、そして戻ってこなくなったのだと考えてました……完全に誤解だったわけですが。早くニーナに話を聞いておくべきでしたね」
と自嘲するようにバルバラは笑った。
その口調から、ニーナのことを大事に思っているのだな、ということが理解できたので、ルルが話の枕にでもと考えて、
「妹が大切なんだな?」
と言ってみたところ、バルバラは突然饒舌になり始めて、
「ええ! もちろんです。眼の中に入れても痛くないとはこのことでして。ニーナが生まれたときにはとても嬉しかったのを覚えています。初めて、『おねいちゃん』と呼ばれた時など脳に電撃が走ったかの如く衝撃を受けまして……」
それはルルが引くほどの剣幕であり、五分ほど続いて一向に止まる気配がなさそうだと気づいた辺りで、どこかで一旦話を本筋に戻そうと「……あ」とか「……い」とか何か言葉を挟もうとするが、そんな隙間などどこにも存在しなかった。
困り果てて、いつの間にかまたルルの膝の上に戻ってきていたニーナの顔を見るが、その瞳は、「……おねいちゃん、こうなったらもうむり」と言っていた。
「そこをなんとかしてくれ」と視線で伝えると、ニーナは「……わかった……」としぶしぶと言った様子で首を振り、それから口をぱかりと開くと、そこからぼぉ、と火炎を吐いた。
火炎は広がりながらバルバラに向かい、そして彼女の肩から上、全てを飲み込み燃やす。
ルルはそれを見て、
「……お、おい!」
と慌てるが、さすが古代竜と言うべきだろうか。
火炎が収まった後のバルバラの姿は、肩から上が焦げているにも関わらず元気そうで、目をぱちくりさせているだけだった。
火傷すら負っていないようで、ただ単純に煤けているだけのようだ。
髪がぼさぼさになっているが、はっとしたバルバラがぱっぱっと払うと、それだけで滑らかな空色の髪が元通りの流れを取り戻す。
それから、唖然としているルルを見て、少しだけ頬を染めて言った。
「……申し訳ありません。少し、妹のことになると熱くなってしまって……」
と姉馬鹿ぶりを見せつけたことを謝った。
それだけか、火炎をくらってその程度か、とよほど突っ込みたかったが、やはりそんなことをしていては話が進まないのだ。
人生で珍しく他人(?)の非常識ぶりに圧倒されると言う経験をしたルルは、色々な叫び声を飲み込むと言う貴重な経験をも重ねていく。
「……いや。いい。それだけ妹が大事なら、バルバラの俺に対する反応と言うのも理解できる。ともかく、それは分かった。けれど一番聞きたいところはそこじゃなくてだな……」
「はて? 他に何か?」
とバルバラが首を傾げる。
まさかニーナのことだけ話して終わるつもりだったのか。
そう思ったが、そこは強い精神力で流し、ルルは続けた。
「……実は、俺はフィナルの街からやってきたんだが……」
そして、依頼について話した。
ログスエラ山脈で起きている異変、その解決の為にここに来たという事を。
ニーナについては、それに関係していると考えて王都からここに連れてきた、という事情も話す。
全てを聞いたバルバラは頷いて、
「なるほど……。それなら、心当たりがありますよ」
と言った。
ルルは依頼達成の糸口が見つかったらしいことに喜び、さらに尋ねる。
「本当か? 出来ることなら教えてほしいんだが……」
山のことは山の者で解決します、とか言われたらどうしようか、とも考えていたので、教えてくれそうな雰囲気に喜びつつ。
するとバルバラはその表情を険しくして、話し出した。
「構いませんよ。と言っても、話せることはさして多くはありませんが。ただ、それを語るために理解していただく前提知識があります」
「前提知識?」
「ええ。この山を誰が治めているか、ということですよ」
その言葉を聞いて、ルルは首を傾げながらバルバラとニーナを見る。
「あんたら二匹じゃないのか?」
しかし、その言葉に二人とも首を振った。
ニーナが言う。
「私はおねいちゃんからこの山を譲り受けたの。おねいちゃんはお母様から譲り受けたの」
そんな風に。
つまり、もともとこの山を治めていたのは二人の母であるという事だろうか。
レナード王国が建国されたのち、住みついた古代竜と言うのは彼女のことなのか。
そう言ったことを確認がてら尋ねてみれば、二人はそうだ、と頷いた。
バルバラが言う。
「お母様がここを根城にしていたのは大体九百年ほど前から、だと聞いております。その頃はかなり強力で、古代竜といえども容易には御しきれない魔物達が多数いたらしく、治めるのに苦労したらしいですが、数百年の月日を経て、お母様はこの山を落ち着けることに成功されました。それから、静かで住みよくなったこの山をお母様は私に譲られたのです」
「その“お母様”はどこに行ったんだ?」
「そのときは北の地に参られたとお聞きしましたが、今どこにいるかは……ここ八十年ほど会っておりませんので」
その言葉に、ルルは首を傾げる。
八十年も会っていないと言っても、バルバラはニーナが生まれたときに立ち会っていると言っているのだ。
それならもっと……。
と思ったところでバルバラがルルの疑問を理解したのか尋ねる前に言った。
「ニーナはこれで百歳ほどですよ。人族の年齢に換算すれば、見た目通りの七歳ほどになりますが……我々は精神の成熟も遅いので。知識はため込めるのですけど」
それを聞いて、ルルはなんとも言えない気持ちになる。
にぱー、と微笑んでいるニーナ。
明らかに子供の微笑みだが、その年齢は人族として生を受けたルルの人生の数倍である。
長命種族もそれなりにいるとは言え、古代竜はその中でも屈指の寿命の長さのようだ。
百年で七歳、ということは千年単位で生きると言われているのもあながち嘘ではないようだ。
実際に確認した者がいるわけではないので、単なる俗説であると考えられてもいるようだが、事実のようだった。
とは言え、ルルはその衝撃をとりあえず置き、話を続ける。
「じゃあ、バルバラがニーナにこの山を譲ったのはここ百年の間って事か?」
「ええ。六十年くらい前……でしたよね?」
バルバラの質問に、ニーナが頷く。
「うん。たぶん、そのくらいだったの」
やはり、寿命が長いと時間感覚が大雑把になるのか、かなり適当な感覚だった。
しかし、そうなると、それからバルバラはどうしていたのか。
尋ねると、
「私はこの大陸の南の方に新しい根城を作ってそこに住んでいましたよ。人族は確か……“湖底都市”と呼んでいる場所の近くですが」
と言ったので、大体の場所がルルの頭の中に浮かぶ。
当たり前だが彼女達、古代竜には国境など存在しないらしい。
湖底都市はレナードの外だ。
六十年前、古代竜が国境を越えて南に飛んでいく姿を見た者たちは何を思ったのだろうかとふと考えるが、聞きようがないことだ。
特にそのような話が残っているとは聞いたことがないことから、地上から見えないほどの高高度を飛んだのかもしれないが。
「じゃあ、なんで今はここにいる?」
歴史への思いをとりあえず忘れてルルは質問を続ける。
「それは勿論、ニーナがいなくなったからです。たまにですけど、私は以前から定期的にニーナに会いにここに来ていましたから……。それなのに、シュゾンに聞けばニーナはどこかに行ってしまったきり、帰ってこないと言うではありませんか! ですから、どこに行ったのか探すためにここに滞在することにしたのです」
「シュゾンって誰だ?」
「お会いになったのでは? 以前、貴方とニーナが一緒にいるところを見かけたと話していましたよ。こう……片目に切り傷の刻まれた地獄犬ですが」
言われてルルは思い出す。
あの見るからに強そうな地獄犬か、と。
しかし、それだけ探していた割にはさっさと引き上げていったのはなぜか。
気になって尋ねてみれば、
「私は連れ帰って来いと言ったのに、シュゾンはニーナが幸せそうだからこのまま放っておけと。人族の寿命など、どんなに長くても百年そこそこなのだから、そのうち戻ってくるまで待ってはどうかと言うのです! 百年も会えないなんて、認められません!」
と言った。
あの地獄犬が引いていったのは、どうやらニーナのためを思って身を引いた感じだったらしい。
だったら、しっかりと説明してから引けばよかったのに、と思わないでもないが、よくよく考えればルルたちが一緒だったのだ。
近づいてきたら普通なら戦いにしかならない。
平和的に会話を、なんてことはありえないと理解していたのだろう。
「そういうわけで、ニーナが戻ってくるまで、ここは私が治めようかと思っていたのですが……色々と困った事態になりまして」
どうやら、ここからが本題らしい。
ルルは身を前に乗り出して話の続きを待った。