第182話 森の様子
魔物達の牙がリガドラの直前まで迫ったその時、リガドラはその身体に力を入れた。
もはやどうすることも出来ないと覚悟を決めたのだろう。
しかし、意外にも魔物達の爪はリガドラの目の前で停止する。
いや、より正確に言うなら、停止させられた。
「きゅきゅ!?」
リガドラは驚いて声を上げた。
そこにあったのは、魔物達の牙や爪をその身をもって止める、魔物達の姿だったからだ。
相手と比べればかなり小さく見えるその身体に青い炎を立ち上らせる地獄犬はその威圧でもって女頭鳥を停止させ、また、その翼でもって空から強襲をかけて独眼牛を縫い付ける獅子鷹がおり、あらにそれに自分よりも倍ほどもある石像魔の巨体をたった一匹で押し返している梟熊たちもいた。
それは、ルルたちが昨日、森の外で遭遇したリガドラの知り合いと思しき魔物達であり、この状況を鑑みれば彼らがリガドラを助けようとしていることは明らかである。
「……ぐる」
落ち着いた様子で、威厳のありそうな片目に斜めの切り傷が入っている一匹の地獄犬が顎をしゃくると、それに従うように他の魔物達が均衡を破って行動を開始した。
苦戦する様子もなく瞬く間に片付けられていく石像魔たち。
しばらくすると、そこには一匹の生き残りもいなくなっていた。
逃げた魔物もいなくはなかったが、地獄犬たちは追いかけはしなかった。
それから、しばらくすると地獄犬たちはリガドラに近づいてその顔を見た。
どうする気なのか。
昨日と同じように去ってしまうのか。
そう思ったのかは分からないが、リガドラは彼らが動き出す前に、
「きゅい~!」
と鳴いて、魔物達の中でも最も威厳のありそうな、地獄犬の首筋に抱き着いた。
「きゅいっ! きゅいっ!」
と流れる涙と垂れた鼻水を、地獄犬の滑らかな毛並みになすりつけるリガドラ。
地獄犬は少し嫌そうな顔をしていたが、
「……わふ」
とため息を吐くように鳴いてリガドラにされるがまま、何もしなかった。
後ろに控えるようにしている他の魔物達も呆れたような表情をしているが、どちらかと言えば優しい表情を浮かべているようにも見える。
それぞれリガドラに近づいて匂いを嗅いだり、顔を擦り付けたりしているその様子は何か、謝っているようなそんな雰囲気だった。
それからしばらくの間、そのままだったが、リガドラが泣き止むと、隻眼の地獄犬がリガドラに話しかけるように吠える。
「わふ……わふわふ」
「きゅい……きゅい……」
そこには確かに会話が成立しているようであり、魔物には魔物のコミュニケーションがあるらしいことが分かる。
そんな二匹の会話はしばらく続いたが、途中でリガドラが、
「きゅ!? きゅきゅきゅ……」
と一瞬目を見開いて、畳み掛けるように隻眼の地獄犬に詰め寄った。
それに対して地獄犬はゆっくりと首を振り、
「……わふ」
と鳴いてリガドラの肩に手を置いた。
それは何となく、“あきらめろ”と言っているように感じられる様子であった。
実際、リガドラは遠くを見つめるような目を少しの間浮かべていたが、しばらくしてがっくりと肩を落とすと、
「きゅい……」
と諦めたように一鳴きして、地獄犬の背中に乗った。
背中に体重を感じた地獄犬は、
「わふわふ!」
と文句を言うように吠えたが、リガドラがしがみついて離れないので、
「……ふんっ……」
と、仕方ないとでも言うように鼻息を立ててから歩き出す。
森の奥、山の方に向かって進む地獄犬に他の魔物達もぞろぞろとついていき、そして森の中へと消えて行った。
◆◇◆◇◆
「……そうか」
一匹の傷だらけの石像魔がその巨体に似合わない怯えた様子で、眼前の小さな人影に何事かを伝えていた。
5メートルを超える石像魔と比べて、その人影の大きさはせいぜいが1メートル50センチあるかどうか、というくらいであり、体形も非常に華奢で、石像魔が本気になって襲い掛かれば一瞬で肉塊へと変えられそうな印象を受ける。
しかしながら、それでもその石像魔は決してそんなことをしようとはせずに、あくまでも怯えてその人影と接しているのだ。
「ったく、おかしいよな……ここにはもう古代竜はいねぇハズだろ? なのになんでこんなに手こずってんだか……」
言葉遣いは非常に汚いが、声の響きは意外にも美しい。
高く透き通ったその声は明らかに女性のもので、しかも成人女性、というよりは未だ大人になっていない少女のもののようである。
「しかし、その地獄犬共は他の地域なら、主級なんだろうな……。そんな奴らが黙っていう事を聞いてたんだ。もともとのこの山の主の古代竜は余程の力を持ってたんだろうが……まぁ、人でも魔物でもあれだ。死んだら終わりって奴だな。そんな奴でもぶっ殺せるんだ。その手下共なら余計に簡単なことだろ? なぁ、お前もそう思わねぇか」
彼女は、目の前の石像魔の足を軽く叩きながら、にそう尋ねた。
一言一言向けられるたびに、石像魔は震えている。
どうやら相当に彼女の事を石像魔は恐れているらしい。
他の誰かに触れられれば怒り狂って襲い掛かるのが普通だろうが、石像魔は彼女に何をされようともそんな行動に出ようとしないことがその証左だった。
「何とか言えよ……いくら石ころ頭でも少しくらいは考えられるだろ?」
「が、がごご……」
言葉とも鳴き声とも言えぬ声を喉から絞り出す石像魔。
そんな石像魔を見て、彼女は笑い声を上げる。
「なんだ! 出来んじゃんか! その調子で、ここら一帯の魔物どもをぶっ倒してきてもらいてぇな」
「……が……ぐ……」
しかしそんな彼女の頼みの実現性を考えたのか、石像魔の声は落ち込んだようなものになる。
石像魔のその反応に、彼女は少し考えたのか、
「……まぁ、確かに主級相手に体がデカいだけじゃあれだよなぁ……よし、分かった。ちょっと待て」
そう言って、彼女は石像魔の体に触れる。
そこからはふわりと立ち上るように黒色の光が漏れ出し、石像魔の体を包んでいく。
「ががが……!?」
何が起こったのか、石像魔には理解できないようで、怯えるような声を上げるが、彼女が、
「何、大した害はねぇよ……ま、騙されたと思って黙ってろ」
と言ったので、そこから逃げ去りたい気持ちを抑えるようにその翼の羽ばたきを無理やり意思の力で抑え込み、険しい表情でその場にとどまった。
「よし、いい子だ……って言ってもな。そろそろ分からないか? 何か変わってきたろ?」
彼女の言葉に、石像魔は改めて自分の体を見てみた。
すると、そこには今までにない力が湧き出ているのが感じられたのだ。
さらに、5メートルを超えていた筈の巨体は、なぜか徐々に縮んでいっている。
目線が下がってきて、彼女の不敵な微笑みを浮かべるその顔までの距離も短くなっていた。
「がが……?」
つい、石像魔からそんな声が漏れた。
それを見た彼女は笑って、
「気づいたか。じゃ、そろそろ仕上げた……目を瞑ってろ」
そう言った途端、先ほどまでよりもずっと大きな力が石像魔の体の中に流し込まれた。
「がご……!?」
余りの力の奔流に、目の前がまぶしくなり、頭の中に電流が走ったかのようにバチバチとした衝撃が感じられた。
そして、気づいたその時には、先ほどまでとは全く違う感覚が石像魔の体に宿っていた。
目線の位置が低く、彼女と大体同じくらいまで縮んでいるようなのはもちろんだが、それ以上に、体は小さくなったにも関わらず、その力は先ほどまでとは比べ物にならないほど大きいのだ。
「どうだ? 気分は」
彼女がそう言ってにやりと笑ったので、石像魔は改めて自分の体を見つめて、
「……素晴らしい気分です」
と言った。
彼女は、その返答に満足したように頷き、それから、
「まぁ、とりあえず服は着ろ。ほらよ」
と言って衣服をぶん投げてきた。
全身真っ黒なそれを投げられ、石像魔はどうすべきか分からずに首を傾げる。
「……これは、どうすれば?」
「着方が分からねぇのかよ……えぇ……もしかしてコレ、俺が手伝うのか……?」
と彼女は嫌そうな表情を浮かべた。
なぜそんな顔を彼女が浮かべているのか分からなかったが、知らないものを渡されてもどうしようもないのだ。
服も、人がそれを着ていることも石像魔は知っていたが、実際に着ろと言われてもまず、どういう順番で扱えばいいのかがそもそも分からなかった。
「若い娘がこんなこと手伝う事なんて滅多にねーんだ。有難く思えよ」
彼女はそんな風に悪態を吐きながらではあるが、石像魔に服の説明を始め、実際に着せてくれた。
そして、しばらくの後、そこに立っていたのは、一人の青年だった。
背中に翼はなく、肌も少しばかり白いが、一般的な色をしている。
身長は180センチほどであろうか。
髪は石のような輝きの無い灰色をしているが、全体的に見れば美青年に見える。
体は細身ではあるが、良く鍛えられていることが服の上からでも分かり、腕力よりも敏捷性に重きを置いた鍛え方をしているように感じられる。
「中々見栄えがするぜ。それなら人の街に行っても怪しまれねぇだろ。ま、今はとりあえず山の奴らをぶっ殺すことを優先してもらうが……その後は街だ。分かってるな?」
「は。畏まりました」
石像魔だった青年は、そう言って跪く。
「よし……じゃあ、お前の仲間を何匹かここに連れてこい。一人だと色々面倒だろう? 何匹か仲間を作ってやるからよ」
その言葉の意味は、青年にとって明らかで、つまり同じように力を与えてくれるという事だろう。
だから彼女の言葉に青年は深く頷いて、仲間たちを連れてこようと、森に進もうとする。
しかし、その直前で、
「おっと! ちょっと待ちやがれ」
と彼女の制止の声が響いたので青年は振りかえった。
何か、不敬なことでもあっただろうかと不安になる。
しかしそれは取り越し苦労だったようだ。
彼女は、
「この際だ。そうなった以上、名前が無いと不便だからな。俺がお前に名前を与えてやる」
と言ったことでそれが理解できる。
名前、それは人が良く使うもので、また魔物でも力あるもの、知恵あるものが持つ特別なものだった。
それを、自分が持つことになるとは考えたこともなかったことで、青年は嬉しくなって犬のように彼女のもとに駆けよる。
「お、御願い致します!」
そんな青年に、彼女は不思議そうな顔で、
「なんだぁ? そんなに欲しいのか……? まぁいい。お前の名前は……そうだな――グラス、なんてどうだ?」
と言った。
青年はその響きに、
「……グラス。グラスですか。気に入りました! ありがとうございます!」
と喜び、頭を下げる。
彼女は、
「そこまで喜ばれると悪い気がしてくるぜ。適当に決めたんだからな」
「それでも、俺は嬉しいです! あなたのために、死ぬまでこの身をもってお仕えすると誓います!」
そんな風に言うグラスを見て、彼女は、人の姿と力、知恵を得ても、まだこれの精神は幼いままなのだろうと思った。
それと同時に、そんな時期に自分を主としてあがめるように持って行けたのは僥倖であっただろう、とも。
三つ子の魂百までではないが、根付いた意識はいつまでもグラスを縛るだろう。
だから彼女は嗤った。
「そうか? ならよろしく頼むぜ……じゃあ、まず一つ目の仕事だ。お前の友達を連れて来い。別に石像魔じゃなくても構わねぇ。お前と同じ存在にしてやる」
「はっ!」
そうして、グラスはその背に翼を生やして飛んでいく。
その姿を見て、彼女はぽつりとつぶやいた。
「……おい、せっかく作ってやった服が台無しじゃねぇか」
見れば、グラスの背中、翼が生えてきた部分はびりびりに破れてしまっている。
あの姿で人里に下りて行ったらどんな意味においても怪しまれるのは間違いがないだろう。
それを理解して彼女はため息を吐き、それから
「……色々常識を教えてやらなきゃそう言う意味じゃ使えねぇな……ま、だが馬鹿な奴ほどかわいいって言うしな……」
と言って、まんざらでもなく愛しむような顔でグラスを見送ったのだった。