第178話 謝罪
そしてイヴァンは辿り着いたゾエの正面で、槍を抑えていた双剣を引き、そのまま両方をゾエに向かって横薙ぎにする。
おそらくは、これが最高のタイミングだ、とイヴァンは思った。
ゾエは槍を引き戻しても間に合わず、また避けようとするには体を前に出しすぎている。
蹴りを入れられたり、魔術によって防御されることも考えたが、それを行うにも少しばかり時間が足りないだろう。
そう確信しての一撃だった。
けれど、イヴァンがついていなかったのは、相手にそう言った常識はまるで通用しないという事を知らなかったことだ。
イヴァンは次の瞬間、そのことを知った。
双剣の刃がゾエに届く直前、イヴァンは剣に何か大きな抵抗を感じ取った。
ゾエの体に命中したから、という訳ではない。
もっと固く、存在感のある何かに阻まれている。
この感触は盾に剣がぶつかったときの感覚に近い。
そう思った瞬間、イヴァンは自らの攻撃が防御されたことを悟った。
「……一体どうやって……ッ!?」
驚き叫びながら次にすべき対応を考えつつ、ゾエがとったイヴァンの攻撃に対する防御方法を看破しようと見つめると、イヴァンの双剣が停止しているその場所、刃の向こう側に薄い透明な膜のようなものが光っているのが見えた。
僅かな魔力光を帯びて、ガラスとは別の質感を揺らぎをもって表しているそれは、今まで幾度となく見たものだが、それでも今まで見たどんなものよりも薄く、存在感も無く、また強固であることが一目でわかる。
「結界……!」
確信をもって呟かれたその単語に、ゾエは反応する。
「あら、気づいたの? でも残念。もう遅いわ」
「なにをっ……!?」
反論しようとしたその時には、イヴァンが目を向けたその場所にゾエの姿は無かった。
移動したのだ。
思い出してみれば、声の聞こえた方向がおかしかったことに気づき、慌ててそちらを振り返ると、すでに直前にゾエが迫っているのが見えた。
「……!」
何かを言おうとした。
それは、感嘆の言葉だったかもしれないし、また悔恨の台詞だったのかもしれない。
しかし、その瞬間、自分が何を言おうとしたのか、イヴァンが思い出せる機会は来なかった。
ゾエの頭が思い切り振られてイヴァンの頭部に命中し、さらにくらくらとした次の瞬間に意識の向いていない腹部に向かって何か棒状のものを突きこまれたのを感じた。
その一撃の重みにイヴァンは耐えきれず、意識を保つことも出来ずにそのまま崩れおちる。
「あ……ぐ……ほッ……」
言葉にもならない声が出てきて、目の前が暗闇に沈んでいく。
そんなイヴァンを見下ろしつつ、ゾエはぽつりと言った。
「……まぁ、お疲れ様」
彼女自身は全く疲労していない様子で、未だ手加減していることがはっきりと分かる言葉だった。
◆◇◆◇◆
少し、目に光を感じた。
そのことに気づいて、イヴァンはぼんやりとした意識の底から覚醒する。
ゆっくりと目を開くと、そこは冒険者組合横に併設されている酒場の長椅子の上で、周りを見渡してみれば酒盛りをしている冒険者たちなどの荒くれ者や、忙しく働く店員たちの姿が見えた。
そして、
「……目が覚めましたか、イヴァン」
近くからそう声をかけたのは、イヴァンの直属の上司に当たるモイツである。
一瞬、自分がどういう状況に置かれているのか掴み切れなかった頭が、彼の顔を見ると同時にはっきりとしてきて、自分がしたことを思い出した瞬間、モイツに頭を下げていた。
「申し訳なく存じます。モイツ様……」
謝って許されることではないが、だからと言って謝らないわけにもいかない。
この後どんな処分を受けても仕方がないような行動に自分は出たのだと言う自覚がイヴァンにはあった。
だからこそ、実際にモイツにどのようなことを言われようとも黙って受け入れようと思ったのだが、モイツが言ったのは意外な言葉だった。
「全て、ゾエ様がお話してくれましたから分かっていますよ。私は貴方を許します、イヴァン」
驚いてイヴァンはどもりつつ言う。
「しっ、しかし……私は……」
もしかしたら、その瞬間のイヴァンは冒険者組合職員になってから最も焦っていたかもしれない。
とんでもないことをしでかしたとはっきりしているのに、不問に処されようとしているのだから。
けれどモイツは言うのだ。
「確かに貴方のしたことは本来であればかなり問題のある行為ですし、降格処分、場合によっては免職ということもありえないではないことですが……しかし、理由を聞いてみれば、むしろ、貴方は鋭すぎたのでしょうね。ゾエ様に、なにか、違和感を感じたのでしょう? それは……彼女に言わせれば、どうやら当たり前のこと、らしく……正体を知ろうとするのは決して間違い、とは言い切れないと考えたのです。もちろん、方法は褒められたものではありませんが……本人が別に構わない、とおっしゃっているのです。処分するのも……なにか、違うような気がします」
モイツに続いて、同じく近くにいたゾエが言う。
そこでイヴァンは同じテーブルにモイツ、それにルルたち三人と一匹がついていることに気づいた。
あの戦いが終わった後、ここに運ばれたらしいという事がそれでなんとなく分かる。
「そうね、その違和感は、私が思うに当たり前のものよ。普通は気づかないと思うのだけど……たぶん、私みたいなのに貴方は初めて会ったんだと思うのよね」
「……?」
首を傾げるイヴァン。
しかしゾエはそれ以上説明する気はないらしい。
ただ、言葉は続けた。
それはまるで独り言のようで、実際、とくに返答されようと思って言っているわけではないらしい。
「でも、私に気づいて、もっと危ないものに気づかないのはどうなのかしら……? やっぱり、もともとの格とかが違うからかしら……」
なぜか、ゾエの視線はルルとイリス、それにテーブルの下で皿に盛られた食事にばくついている小竜に向けられているが、イヴァンはゾエが彼らについて言っているわけではないだろう、と思った。
確かにルルとイリス、その名前については冒険者組合上層部ではこの間から非常に有名である。
若くして闘技大会に勝利した新進気鋭の冒険者。
非常に実力が高く、その年にして特級を超える実力を持つというのだから。
しかし、である。
実際にゾエと剣を合わせたイヴァンは思ったのだ。
ゾエの実力は、特級がどうとか、冒険者がどうとか、そんな枠の内側に収まるなにかではそもそもない、と。
化け物というのはああいう存在を言うのであり、それと比べれば冒険者組合が定めた枠組みなど、何の意味も無いのだ、と。
だから、そんなゾエが危ない、と言う者がこの場に存在しているなどとはイヴァンには考えることが出来なかった。
「ま、そんな訳で……イヴァン。貴方の処分は無し、もしくは保留、ということになりました。これからも精進しなさい」
モイツがそう言って真っ直ぐにイヴァンを見つめた。
これにいいえと言って辞表でもなんでも提出することは簡単だったが、それをするのはただの責任の放棄に過ぎないと考えるだけの頭はいくら気絶から起きたばかりでもイヴァンには残っていた。
喉から絞り出すように、
「……はい。本当に、申し訳ないことでした」
と深く頭を下げて言ったのだった。
それを見届けて、モイツは少しばかりいつもより険しかったその表情をふっと微笑みに変えて、
「ええ。謝罪は受け取りました。それと、まぁ……余談ですが、私は貴方をそれほど責められないのですよ。どうやら、イヴァン、貴方の方が、昔の私よりずっとしっかりしているようですので」
と言った。
イヴァンはその言葉の意味が分からずに首を傾げるが、モイツは説明を特にせず、ゾエの方を見つめる。
ゾエはその視線に答えるように言った。
「それは、私もそう思うわ。ま、これから頑張ればいいのよ、これから」
イヴァンの肩を軽く叩くその手。
改めて見つめればほっそりとして華奢で、槍をあんな速度と力で振り回せるようにはとてもではないが思えない。
しかし、現実に自分は敗北したのだ。
そのことをしっかりと認識し、最後にイヴァンはゾエに言った。
「ゾエ殿。色々と本当に申し訳ありませんでした。それと、戦って頂き、ありがとうございます。冒険者組合職員としても、戦士としても、今回の事を胸に精進してまいりますので、どうか、お許しください」
「許すって言ってるじゃない。そんな改まって言わなくても……」
「そういう訳には……」
そんなイヴァンにゾエは腕を振って、
「分かった分かった。私は貴方を許します。はい、これでおしまいね」
と言い切る。
流石のイヴァンもこれ以上言うのはむしろ迷惑だと理解したのだろう。
頷いて、
「はい」
と一言だけ言ったのだった。
それから、モイツが立ちあがって、
「では、イヴァン。行きますよ」
と言ったのでイヴァンが首を傾げると、モイツは説明する。
「あぁ……貴方は気絶していたのでしたね。実は先ほどフィナル冒険者組合の職員がやってきて、私と貴方に今日の夜行われる会議に出席してほしいと打診がありました」
「会議ですか?」
「ええ。フィナルが近年稀に見るログスエラ山脈からの魔物の襲撃によって危難に陥っていることは既に私も貴方も知るところです。そのための対策会議が今日の夜――つまりこれから約一時間後に冒険者組合の会議室で開かれるそうなのです」
「それはまた、急な話ですね」
「ええ、どうやら今日、魔物の襲撃があったことが関係しているとのお話だったのですが、聞けば、その魔物を倒したのはこのルル殿たちだと言うではありませんか。イヴァン、貴方が目覚めるまで、そのことについて話していたのですよ」
そう言ってルルの方を見る。
今まで黙っていたルルであるが、モイツの視線に答えて口を開いた。
「今日、私とイリスが遭遇したのは普段のフィナルの様子からするとおかしな類のものだったらしく、フィナル冒険者組合やこの街の領主様が事態を重くとらえて招集したようです。詳細についてはモイツ殿にお伝えしましたので……」
ルルがモイツに殿、を付けて呼んでいるのは様付けは仰々しいからやめてくれと本人から頼まれたためだ。
ルルの身分は一応、貴族であるから、貴族でない大概の人物に対しては呼び捨てでも許されるとこなのだが、モイツについては別だ。
冒険者組合はそれだけ巨大な組織であり、その北方組合長ともなれば、カディスノーラ家程度の下級貴族であれば、むしろモイツの方が上位として扱われる。
だからこその様付けだったのだが、モイツはそれを煩わしく思ったらしい。
ゾエの知り合いである、という点も大きく作用したようで、ゾエがルルのことを重く扱っていることも彼から見れば一目瞭然だったのだろう。
ゾエを上位として扱っている彼としては、そのゾエがさらに上位の者として扱っているルルから様付け、などというのは居心地が悪い、というのもあったようだ。
結果として、殿付け、で落ち着き、言葉遣い自体は敬語で通すことにした。
対等に話してくれても構わない、とも言われたが、今のルルは冒険者組合の初級冒険者である。
組織の中で言ってもその地位の差は物凄いものがあり、敬語を使わずに話すのは流石に問題だと考えたのだ。
イリスもまた、同じような言葉遣いで対応することになった。
とはいえ、イリスは元から誰に対しても丁寧な言葉遣いである。
もしかしたらイリスのモイツに対するそれは、最も砕けた態度かもしれなかった。
ルルの言葉に頷いたイヴァンは、立ち上がったモイツに続いて自分も立ち上がろうとする。
一瞬よろついたので、モイツが支えたが、すぐに立て直した。
その様子を見て、ゾエが、
「……大丈夫? 手加減したんだけど、体に響いたかしら?」
と気遣って声をかけた。
その言葉に、イヴァンは微笑み、
「いえ、しばらく横になっていたようなので、ふらついただけですよ。体に問題はありません。……では、色々ありがとうございました。またお会いしましょう」
と言った。
続いてモイツも、
「まだまだお聞きしたいことがたくさんあったのですが……ルル殿たち三人の関係など……」
と名残惜しそうに言うので、ルルが、
「機会があればお話ししますよ。しかしその際は、契約魔術によって口外をしないことを誓ってもらいますが」
と冗談交じりに言う。
実際のところ、この条件はグランとユーミスに突きつけ、実行させたものであるから冗談どころではなく本気なのだが、普通はこんな言い方をされて本気にとる者などいない。
しかしモイツはなぜかその言葉に嬉しそうに笑って、
「おぉ! それほどの秘密が……! でしたら、いずれお聞きできる日を楽しみにさせてもらいます。……しばらくはフィナルにご滞在される予定ですか?」
そんなことを言うのだ。
だからルルは何とも言えない顔で、
「……魔物問題が片付くまでは、一応いると思いますよ」
とだけ告げておいた。
それからモイツとイヴァンはそのまま外に出ていったので、ルルは言う。
「……あのモイツって海人族、変わり者だな?」
ゾエはそれに微笑みながら答えた。
「初めは色々あったけど、結局五十年前、一番私に力を貸してくれたのがあの子だからね。変わり者なのは昔からよ」