第177話 槍と剣にて伝わる
冒険者組合において、イヴァンの立場は北方組合長補佐である。
それは王都を除く地方都市の組合長よりは上位の権限を持っているということであり、通常であれば組合長にすらなるのは難しい冒険者組合において、かなりの出世をしていると言える。
それは何も権力闘争に長けていたというわけではなく、単純に運が良かったからに過ぎない。
もともと、イヴァンは冒険者組合の職員として冒険者組合に入ったわけではなく、始めは冒険者として登録しており、そして引退するまで、もしくは死ぬまでその立場で頑張っていこうと思っていた。
しかし、人生とは分からないもので、今ではその時には自分がするとも、また出来るとも思えなかった事務方として働いている。
それも、かなりの出世をして。
そのことをたまに不思議に思う事もある。
けれど、こうやって、冒険者たちの管理をする側に立ち、実際に冒険者たちの事を見ていると、むしろ自分の人生など大して珍しくもないものだと分かっている。
冒険者になろう、という者は本当に色々な出自の者がいて、さらに行く先々で様々な出来事に出くわすものだ。
それは時には、いや、常に想像の外側を行っているようなものばかりで、冒険者だった時には分からなかった面白みも見いだせている。
冒険者組合職員が、これほどに働いているとは昔は分からなかったので、そういう新鮮さもあった。
冒険者だった時に思っていた職員に対する印象は、ただ依頼を右から左に流しているだけで、あとは適当に受付している、ただそれだけが仕事なのだが、楽でいいものだとどこかで思っていたからだ。
しかし実際はどうだろう。
荒くれ者ばかりの冒険者同士の諍いの仲裁など日常茶飯事であり、依頼者の理不尽な要求をなんとか依頼の形にまとめ上げるのもまた、職員の仕事であった。
依頼の結果起こる様々なアクシデントの処理や、そのための情報収集も欠かさず、また国際情勢にも常に気を配り、魔物の増減なども常に調査しており、また様々な組織から包括的な依頼を受けていたりもして、それを個々の冒険者に割り振っているのもまた、冒険者組合職員だった。
考えてみれば、そういったことをするものがいなければ組織としてやっていけないのは当然の話で、そうやって改めて認識すること自体が少々頭が足りなかったということになるのだが、実際、過去のイヴァンはそういう人間だったのは否めない。
今でこそ、どこかインテリじみて見えるメガネ姿の細身の男であるイヴァンであるが、昔は今とは正反対の見た目をしていた。
常に剣呑な眼光を浮かべ、辺りに喧嘩を売りながら、肩をいからせつつ大股で歩いているのが常で、誰かに忠告じみたことを言われれば言葉よりも先に拳でもって反論するような、そんな男だったのだ。
当然、ものを考えるよりも人をぶん殴る方が得意で、実際にそれなりの実力はあったために、そんな性格であるにも関わらず尊敬する者もいたくらいだ。
ただ、今にして思えば、それは単純にイヴァンが怖かっただけであり、また依頼も職員によって、依頼者との繊細なやり取りの必要なものは尽く排除されて、イヴァンに回ってくるのはそのほとんどがただ敵を叩き潰すことだけを求められているようなものだった。
それをかつてのイヴァンは自分の実力が認められているからだと勘違いし、また依頼者と細かくやりとりをするような依頼を受けているような冒険者を、ただの軟弱ものであると侮っていたこともある。
本当に、愚かだった。
見る者が見れば、あの頃のイヴァンは見るからに愚か者であり、暴力者であり、そして無意味に鼻の伸びた天狗でしかなかった。
――今は違う。
もちろん、そう、はっきりと言い切る自信はない。
それでも、昔に比べれば、反省する心も、客観的に物事を見つめられる目も、そして小さな問題を根気よく片付けていく堪え性も手に入れた。
ただ、だからと言って、あの頃に身に着けた技術が失われた訳ではないのだ。
かつて、イヴァンは冒険者だった。
腕っぷしだけでどこまでもどこまでも高いところを目指そうとした時期があった。
そして、それが不可能ではないと、そう他人からも評価されるだけの腕を、イヴァンは持っていた。
冒険者として一線を引き、こうやって裏方に回ってからも、決して修練を怠ったことは無い。
冒険者組合職員も、実際に現場に行かなければならないことは少なくない。
力を持っていて損をすることはないし、またそれは必要なものだとイヴァンは考えていた。
だから、あの頃と比べて、腕が落ちたという事は無い。
むしろ、あの頃には無かった思慮、老練さを手にしている。
感覚だけで戦っていたあの頃よりも腕を上げたと言う感覚が確かにあり、事実それは間違ってはいないだろう。
たとえ特級が相手であっても即座に負ける、という事は無いはずだし、またある程度以上は戦えると考えていた。
けれど、今、自分の目の前にいる人物はどうだろう。
槍を構えてこちらを見つめている銀髪赤眼の女性から受ける威圧感は半端なものではなかった。
鋭く殺気を放っている、という感じではないのだ。
むしろゆったりとして、余裕のある態度をしている。
こちらを見つめる目に宿っているのは、殺気と言うよりかは――むしろ、イヴァンに先手を譲ってやるとでも言っているかのようで、そんな態度を取られたことはかつて冒険者だった時も含めて今まで一度も無かった。
イヴァンの双剣は相当な業物であり、名工の手による逸品で、魔力の込められた武具――つまりは魔剣である。
対して向こうの持っている槍は、どこにでも売っているような普通の槍にしか見えない。
装飾も少なく、デザインも今一であり、どこかの鍛冶師が手を抜いて打ったかのような数打ちにしか見えないのだ。
けれど、それでもその槍からは、侮れない力が感じられた。
見た目は大したことないのに、あの槍にはおそらく、自分の双剣と同じくらい、いや、それ以上の力が宿っているように感じられる。
これほどまでに、見た目と内実の異なる敵というのは初めてのことで、酷く頭が混乱した。
結局のところ――イヴァンがわざわざこの人、ゾエに戦いを挑んだのもその辺りに原因があるだろう、とイヴァンは考えた。
ぱっと見、非常に好ましい人物に感じられたのだが、同時に何か恐ろしく得体の知れないものが宿っているような、そんな気がしたのだ。
これは危険なものであると、心のどこかが警鐘を鳴らしていたのだ。
それをイヴァンはモイツの手前、一度は心の奥底に沈めようと努力したのだが、本能の鳴らす音はいつまでも引いてはくれなかった。
言うなれば――何があるのか分からない、深く暗い穴を覗いているかのような感覚と言えばいいのだろうか。
あの闇の向こうには、怪物がいるかもしれないし、また反対に黄金が存在しているかもしれない。
そんな感覚を覚えたのだ。
そして、そんな暗闇の穴は、何か酷く心を刺激する魅力を持っているものだ。
恐れと同時に、未知のものを知りたいと思う好奇心が働き、だからこそ、知りたいと、近づきたいと、足を踏み入れたいと思ってしまう。
イヴァンにとって、ゾエを初めて目にした瞬間は、つまり、そういう感覚が呼び起された瞬間に他ならなかった。
そして、それを解消するための方法は、イヴァンにとって、一つしかなかった。
戦って、全てを明らかにする。
剣が触れあったところだけが、イヴァンにとって暗闇の取り払われる唯一の場所だからだ。
それ以外は、欺瞞か、もしくは自分の知らない何かだと、かつての何も考えない馬鹿だったときと変わらない本能的な確信を、イヴァンは未だに持っていた。
愚かだと思う。
くだらないことだとも。
ただ、こうしなければ、おそらくイヴァンはゾエ、という人物に怯え続けることになるだろうと言う確信があった。
それは、取り払わなければならないものだ。
なぜと言って、いつかそれはイヴァンに彼女の背中を狙わせかねない暗い情動だと言うことも分かっていたからだ。
理解するために、そして疑いを持たないために。
これは、イヴァンにとって、どうしても必要な儀式だった。
そしてイヴァンは、誘い通りに、双剣を握りしめ、地面を思い切り蹴った。
◆◇◆◇◆
魔力による強化はイヴァンには当然、お手のもので、初めから魔力を体に循環させて身体能力を底上げしている。
その強化率はまさに上級だったものに相応しく、地を蹴った直後にゾエの懐まで距離と詰めているところからして明らかだった。
その時には既にその双剣を振り切りかけており、左手で持った剣は横薙ぎに、右手に持っているものは真っ直ぐに突きこんでいてその一撃で逃げ場を封じていることが理解できた。
後退すれば右手の剣に、横に逃げれば横薙ぎの餌食になるだろうことが明らかだからだ。
唯一、斜め右後ろに逃げることが出来るように感じられ、実際にゾエはそのように動いたのだが、やはりそれもまた織り込み済みだったのだろう。
ゾエの動きを感じ取った直後、イヴァンの双剣は軌道を大きく変えてゾエの後退した方向に突きこまれる。
避けるのは難しい、そんな軌道だった。
しかし、ゾエも何も素手で戦っている訳ではないのだ。
槍を持っているし、多少後退したことでその間合いはむしろゾエに都合のいい程度に開いている。
真っ直ぐに向かってくるイヴァンの双剣を巻き込み、上に切り上げると、突きの勢いを未だ殺せていないイヴァンの懐にむしろゾエの方から踏み込んで思い切り蹴りを入れた。
「……ッ!?」
槍が上を向いていたからだろう。
その攻撃はイヴァンにとって予想外だったようで、腹部にもろに入った――かのように見えた。
しかし感触的に、そこまで柔らかいものではなかったことから、外したらしい。
見れば、ゾエが蹴りを入れた部分にはイヴァンの肘が見え、ゾエの蹴りはそこに命中したようだ。
剣を戻しきれないと悟り、体の守りに力を注いだと言うことだろう。
「……へぇ」
感心したように笑うゾエに、しかしイヴァンは何も言えずに闘技場ステージを真ん中から端に向かって吹き飛ぶ。
直撃を防いだ、とは言ってもダメージを軽減しただけだ。
衝撃自体を完全に殺すことは出来なかったようで、蹴りの勢いそのままに吹き飛んでしまったわけである。
そして、そんな隙をゾエが見逃すはずはなく、槍を引き戻したゾエは、吹き飛んだ直後のイヴァンに一撃入れるべく、突きの体勢のまま地面を強く蹴った。
恐るべき速度で疾風のように距離を詰めてくるゾエを見たイヴァン。
けれど、反応しようにも吹き飛ばされている最中では体勢がどうにもならない。
とりあえず地に足を着いた直後、槍をどうにか捌くべく剣を引き戻して着地した直後に槍を捌けるように構えるが、こうなると着地それ自体がうまくいくかどうかが分からなくなってくる。
しかし、諦めるわけにはいかない。
実際に地面が近くなり、地に足が触れる。
案の定、おかしな姿勢で着地しようなどと言う無茶の結果、滑って倒れそうになるが何とか踏ん張って耐えることが出来た。
ほっと一息つきたいところ、すでに目の前には槍が迫っている。
あとほんの少しでもタイミングが合わなければ、おそらくこの時点で負けていただろう。
だが、ギリギリのところで間に合った。
真っ直ぐに突きこまれてくる槍を、イヴァンは双剣でもって受け止め、上に逸らそうとした。
おそらくはイヴァンが吹き飛んだ直後の隙を狙って速度を重視した一撃のはずだ。
それほどに力は入っておらず、受けさえすればなんとでも出来るはずだった。
けれど、意外にもゾエのその槍は重かった。
しっかりと体重をかけているかのごとく、全く軌道がぶれていない。
イヴァンの双剣による上へ向けて力をかけられているにも関わらず、上に逸れていくことが無いのだ。
直前まで槍が迫ってきて、これは無理であると反射的に、僅かに顔を逸らすと、ひゅん、とまさに風のような音色が耳元を通り過ぎていき、槍が風を起こして過ぎ去っていった。
しかも、これで終わりではない、という確信がその瞬間のイヴァンの胸に起こる。
このまま横薙ぎされるか、それとも他の攻撃が飛んでくるかは分からないが、ここで安心すれば次の瞬間には地に伏しているとはっきりと分かった。
だからイヴァンはここで次の攻撃に対応すべく動く――のではなく、むしろ打って出ることにしたのだった。
勇気を振り絞り、槍を伝って、イヴァンはそのままゾエの方へと向かっていく。