第167話 異変
「さぁ、お前の故郷だ。山に戻り、荒れた魔物たちをもう一度、鎮めてくれ」
ログスエラ山脈の麓に広がる森林の入口で、ルルはリガドラにそう話しかけて手を離した。
この山は、この土地は、この古代竜の故郷であり、治めるべきところであるはずだからだ。
なんだかんだ言っても、野生の竜、というのは縄張り意識が強く、もともと住んでいた土地まで来たのだから、ここまで来て、戻るのは嫌がるという事もないだろうと思っての事でもあった。
しかし、と言うべきか。
やはり、と言うべきか。
一瞬森を見つめてそちらに飛んでいくようなそぶりを見せたリガドラだが、ふっと振り返ってルルたちを見つめると、
「きゅいーッ! きゅいーッ!」
そんな風に鳴き声を上げて、涙を浮かべながらぱたぱたと戻ってきてしまった。
ルルの胸に顔を擦り付け、くっついて離れない。
ひしっ、と固くルルの服を引っ掴むその様は、まるきり親から離れたくない幼児のようである。
そんな様子を見て、イリスが言った。
「……大体こうなるのではないかと思っていましたから、驚きはありませんが……しかし懐かれたものですわね」
ゾエもそれに続き、言う。
「古代竜と言えば、世界創造の時より続く孤高にして最強の竜族だと言われていたのだけど……このリガドラちゃんの様子を見ていると、どこが? と尋ねたくなるわ……」
二人そろって呆れ顔なのは言うまでもない。
ルルとしても困ってしまう。
別にリガドラを飼い続けることそれ自体は全く構わない。
食費はかからないし、魔物と意思疎通できるリガドラは色々な意味で貴重で役に立っている。
単純に癒しとしてそこにいるだけでもかわいいし、イリスもゾエも気に入っているから問題はまるで存在しない。
しかしだ。
ルルたちにではなく、このログスエラ山脈にとっては大問題と言うほかないだろう。
この森の魔物は、今、大きく荒れているのだから。
このままそんな状態が続き、そしてフィナルに魔物が大挙して押し寄せられると困るのである。
そうなってもここにいる三人は問題なく生き残るだろうが、一応、自らの故国となった国だ。
わざわざ滅亡させたいとは思わない。
できるだけ長く続いてほしいし、このレナードの国王にもそれなりの好感を持っている。
ログスエラ山脈の異変は何としてでも鎮めたいところだった。
「けどこの様子じゃあな……別の方法を探すか?」
ルルがそう呟くと、イリスがそれを受けて首を傾げる。
「別の方法と言いますと……ログスエラ山脈の魔物を一匹残らず皆殺し、とかでしょうか?」
その美しい顔を大して動かしもせずに言ったその物騒な台詞に、ゾエが顔を引き攣らせる。
「……イリス。それは流石に……」
現実に不可能なら冗談だった、でいいのだが、ゾエはともかくルルとイリスの二人組ならそれはおそらく可能なのだ。
もちろん、一匹一匹追いかけて倒していく、となると難しいかもしれないが、もっと単純な力技なら一瞬で終わってしまう可能性がある。
たとえば、山一つ潰すような規模の大規模魔術を放つとか。
ゾエには不可能なことだが、かつての魔王ならそれが可能なことを、ゾエはよく知っていた。
そして、それと似たようなことを魔王側近たちも力を振り絞れば可能だったことも。
今のイリスは、おそらくはかつての魔王側近たちと近い実力を持っている、とゾエは感じていた。
かつても今も、結局は一兵卒か、それを少し抜けた程度のものでしかないゾエにはおよそ不可能に感じることも、彼等なら出来る。
そのことが、かつての彼らを英雄として仰いでいたゾエにはよく理解できるのだ。
だからこその顔を引き攣らせながらの台詞だったわけだが、イリスは即座に、
「ふふ、冗談ですわ、ゾエさん。流石に私もそこまで常識外れではございませんもの……」
と微笑んで言ったので、少し安心する。
しかし果たして本当に冗談だったのだろうか、と言う疑念は少し胸に残る。
ふんわりと笑ったイリスの表情が、何か含んでいるように見えたからだ。
ただ、考えても仕方のないことであるのも分かっていたので、ゾエは首を振り、自分に言い聞かせるように呟く。
「そう……そうよね。いくらなんでも、そこまでじゃないわよね……」
「そうですわ。流石に皆殺し、などと言うのはよろしくありません。貴重な素材が採れる魔物達なのですから、資源確保の観点から三分の一程度は残しておくべきです」
「…………」
何か、少し、違うのではないか。
ふとそう思ったが、賢明なゾエは、それを黙っておくだけの分別を発揮して、本題に話を強引に戻すことにした。
「で、ルルくん。どうするの? リガドラちゃんは山に戻る気はないようだし……とりあえず調査だけでもしておく? もともとのリガドラちゃんの住処とか」
ゾエの質問にルルは少し考えるが、概ねその方針に納得したようで頷く。
「そうだな。もともと、依頼はログスエラ山脈の異変の調査なんだ。どこにどういう異変があるのか、調べておくべきだろう。改善策は……後で考えるか」
そう言って、ルルは歩き出す。
イリスとゾエも、その背中に続いた。
◆◇◆◇◆
「……来るぞ」
森を歩いている途中、ルルがふとそう言った。
その言葉に周囲に気を張ったイリスとゾエ。
それだけで二人とも、ルルの言葉が理解できたようで、武器をいつでも扱えるよう腰から抜いて構える。
イリスが手にしているのは、ルルが闘技大会で得た賞品である魔剣アスカロン
、それを見本に作り出した短剣である。
本当は、魔剣アスカロンをこそイリスに贈ろうとしたのだが、イリスがそれは闘技大会優勝の証なのであるから、ルルが持っておくべきだ、と言って固辞したのだ。
確かにそれはそうなのであるが、もうルルの中ではイリスにあげるつもりでいたものなので、何となくしこりが残り、おかしな表情をしていたのだろう。
イリスが珍しくルルにお願いをしてきたのだ。
では、魔剣の代わりに、短剣を作ってくれませんか、と。
これをルルは二つ返事で受け入れた。
闘技大会が終わってから、こつこつと暇を見つけて作っていたのだが、つい先日、完成したのでイリスに渡していたのだ。
内部機構は基本的に魔剣アスカロンのものに倣って作ったので、性能は刃が短いだけでほとんど変わらない。
切れ味に重きを置き、たとえ竜の鱗であっても、魔力の籠め方次第で切り裂けるほどの性能になっている。
イリスはこれを喜んでもらってくれ、腰に下げているというわけである。
対してゾエは、長槍を構えている。
作りは極めて単純なもので、製作時に特に魔術的な要素の付加されていたわけではないそれは、ゾエの実家――ソランジュの家から持ってきたものだという。
一度目に起きてからずっと使い続けた、村の鍛冶屋に作ってもらった簡素な品であるらしいが、そこに魔族の魔力と技術が加わるとその威力は一級品に匹敵するようだ。
それほど長い間使ってきて、さらにその後、数十年放置されていたにも関わらず、大して錆びもしていないのは、ゾエが十年間それを使い続けたと言う歴史が影響しているだろう。
強い魔力に浸され続けたものは、どんな物質であれ変質する。
強力な戦士が持っていたと言われる武具が、その後、他の誰かの手に渡っても強力な力を発揮するのは、その武具にその者の魔力が染み込んでいるからなのである。
ゾエの使い続けたその槍は、まさにゾエの魔力が染み込んでいて、馴染んでいる。
結果として、ルルが作ったアスカロンレプリカに近い性能を持っており、他に武具を購入する必要もなかったのである。
そして、ルルは当然、魔剣アスカロンを構えている。
三人がしばらく待っていると、森の茂みからがさがさと音がし始め、そして大きな雄叫びと共に、巨大な魔物がその姿を現した。
「……石像魔に、独眼牛か!」
そこにいたのは、両方とも5メートルほどの大きさの魔物で、背中に羽を生やした鉱石質の体を持つ魔物、ガーゴイルと、おおよそ牛の形をしているが、色合いがどす黒い緑色をしていて、かつ、特殊な魔術的権能を持った一つ目の魔物、カトブレパスであった。
どちらも本来なら種族的にもう少し小さいはずなのだが、やはりログスエラ山脈は恐ろしい地域という事なのだろうか。
通常個体の倍以上の大きさを持っているようである。
三人の前に姿を現すと同時に襲い掛かってきた魔物に、ルルたちは落ち着いて対応しようとした。
しかし、
「きゅっきゅー!」
そう鳴いて、リガドラが二体に突っ込んでいく。
戦う気なのか?
いや、今までのことから考えると、あれも知り合いなのかもしれない。
そう思ったルルは、一応様子を見るべく動きを止めて観察に回った。
すると、やはりリガドラは二匹の魔物に話しかけるように鳴き声を上げ始めた。
「きゅきゅきゅ!」
リガドラは、ログスエラ山脈の主のはずである。
であれば、顔も広いはずで、説得に当たれば引かせることもきっと出来るはずだった。
あのアウルベアと同じように。
しかし、
「ぐるらぁぁぁあぁ!!!」
二匹の魔物は、リガドラの言葉(?)には耳を貸そうとはしなかった。
その足を止めずに、そのままガーゴイルとカトブレパスは襲い掛かってきたのだ。
リガドラはたまらず、
「きゅいーッ!!」
と泣き叫びながらルルたちの方へと飛んでくる。
どうやら交渉決裂らしいが、一体どうしてそんなことになったのか分からないルルは、とりあえずリガドラの身柄を確保すべく急いで走ると、しっかりとリガドラを捕まえて、一旦魔物達から距離をとった。
「……すん、すん……」
ルルの胸の中で、鼻をすすっているリガドラ。
その瞳からはぼろぼろと涙が流れている。
「なんだ、ログスエラ山脈の主。交渉は決裂か?」
元気づけようと、少しばかり冗談めかしてそう言ってみるも、リガドラは泣いてばかりである。
余程ショックだったらしい。
なんとも言えずに、ルルはイリスとゾエに目線をやって、二体の魔物を相手するように頼んだ。
それから、リガドラに再度話しかける。
「……あいつらは、倒しても構わないのか?」
知り合いなら、倒すのはやめておいて、気絶させるくらいで済ませるでもルルたちとしては構わない。
一般的な冒険者なら、倒してしまうほうが簡単で安全であるのだから是非もない事柄だが、しかしルルたちは違う。
安全に、倒さずに戦闘を終わらせることが可能なのだった。
だからこその質問で、てっきりルルはリガドラがその質問に首を振ると思った。
しかしリガドラは、ゆっくりとではあるが、こくりと頷いたのである。
驚いてルルは更に尋ねる。
「いいのか? 知り合いじゃないのか?」
すると、リガドラは一瞬、二体の魔物を見つめ、首を振った。
「……知らない奴なのか」
その質問に、リガドラは頷いた。
これをどう捉えるべきか、ルルは少し悩む。
別に嘘と言うことはないだろう。
そんな嘘をつく理由は、リガドラにはないのだから。
しかしそうだとして、なぜログスエラ山脈の主だったはずのリガドラが知らない魔物がここに住んでいるのか、という疑問が生じる。
いくら主だったとしても、大量にいる魔物は把握しきれなかったということだろうか。
村長ならともかく、市長や国王が市民や国民全てを把握していないことを考えれば、それは納得できる話であろう。
けれど、リガドラが知らなくても、向こうがリガドラを知らないと言うのはおかしいのではないか、とも思った。
市民や国民は、市長や国王の名前や顔をなんとなくは認識しているものだからだ。
魔物にそれをそのまま当てはめるのもおかしな話なのかもしれないが、戦うにしても逃げるにしても従うにしても、近くに住んでいるなら知っておかなければならない相手のはずである。
古代竜とは、それくらいに危険な生物であるはずだからだ。
それなのに、リガドラは向こうを知らず、そして向こうもリガドラを認識していなかった。
これはどういうことなのだろう。
しかし、会話の出来ないリガドラにこれ以上に詳しく事情を説明してもらう方法は無い。
幸い、リガドラはあの魔物達を倒していいと言ったのだ。
であれば、この場は倒しておいた方がいいだろう。
そう思って、ルルは戦っている二人に指示を出す。
「ゾエ、イリス! そいつらはリガドラの知り合いじゃないらしい! 問題なく、蹴散らしていいぞ!」
ルルの台詞に頷いた二人は、魔力を高めて、魔物達に向かっていく。
いくらそれなりに強い魔物とは言え、真面目に戦い始めた古代魔族に太刀打ちできるレベルの魔物ではなかったようだ。
数瞬の後、森の木立の中で、二体の魔物は大きな音を立てて倒れていったのだった。