第159話 老婆は語る
「……ついてきて頂けると考えていましたのに、当てが外れてしまいましたわね」
イリスが村に着くと同時にそう言った。
夜にソランジュの家を訪れ、それから数時間、忙しかったのだ。
村についたのは、もはや真夜中で、村人たちは誰も外には出ていない。
宿の明かりだけが灯っていて、中にはまだ人が起きていることが確認できたため、大きな音を立てないように気を付けながら扉を開けると、宿の従業員の少年が目を見開いて二人を見つめた。
「あぁ、あんたたちか! 驚かせるなよ……。盗賊か何かが押し入って来たかと思ったじゃないか」
そう言って。
二人とも、宿を出るときに、宿の女将に少し出てくる旨、告げておいてはいた。
従業員の少年もそれを聞いていただろうが、それでも突然扉が開くと驚くだろう。
それに、二人は宿の正面に来るまで足音一つ立てずに、気配を消していたのだから、余計に怪しかったかもしれない。
それを考えて、ルルは、
「いや、悪いな……。こんな夜中だし、あんまり大きな音を立てても迷惑かと思ったんだ」
「その気遣いはありがたいけど……ここまで気配を感じないと驚くぜ。もし同じことがあったらもう少しうるさく――とは言わないけど、少しくらいは物音を立ててきてくれよ」
と通常とは正反対の注意を受けた。
それから、二人は部屋へと戻っていく。
二人部屋であるから、戻る部屋は同じだ。
一応、衝立が部屋には付属していたが、イリスが別に必要ないと言って部屋の端の方に追いやられている。
いい年の娘なのだから、もっと気を付けた方が……などと親戚のおじさん染みたことを思うが、口に出しても「問題ありません」と言われるのが目に見えているので言わないでおく。
ルルは外套を部屋のコートハンガーにかけると、ベッドに腰掛けてイリスが宿に入る前に口にした話に答えた。
「……ゾエは、俺達みたいに初めからはっきりとした"仲間"に恵まれなかったからな。それだけに、一番長く過ごしたソランジュへの想いは強いものがあるんじゃないか」
ルルは、この時代に、人族の息子として生まれた。
記憶は確かに魔王のそれを持っているが、それでも明確に血のつながりのある両親と言うのが初めからいたのだ。
イリスは、起きてすぐに、ルルと言う仲間に出会った。
しかし、ゾエは違う。
目覚めたとき、そこには誰もいなかったのであり、始めに出会った者は、もしかしたら敵かもしれない人族の子ども。
しかも、少し調べてみれば、自らの種族は滅亡していており、数千年の月日が経っていると判明してしまう。
その状況で、少しでも繋がりを持てた相手に依存するのは当然の事であり、しかも十年の月日を自らの娘として育てた相手だとすれば、尚更だ。
その間、ゾエが何を考えていたかは分からないが、それでも心細く思ったときもあっただろうし、寂しく思ったこともあったことは間違いない。
そういうときに慰めてくれたのが、ソランジュの存在であり、ゾエとソランジュの間に築かれた絆だということも火を見るより明らかだ。
だから、そんなソランジュと離れて、ルルたちと来る、という選択をとれないのは無理からぬことだ。
そう思った。
「考えてみれば……私も、お義兄さまも、運が良かったのですわ。こんなにも広い世界の中で――数千年の月日を隔てて、種族まで異なってしまったのに、出会えたと言うのは……奇跡としか言いようがありません。普通なら、誰も知っている者のいない土地と時代に、ぽつんと取り残されるはずだったのですから……」
そして実際に、取り残されたのが、ゾエと言うわけだ。
「……まぁ、それでもゾエにはソランジュという娘が出来た。それを思えば――ゾエも運のいい方だろう。本当に誰にも出会えなかったら……」
それを考えると、ルルですら体が震える。
結局のところ、魔族と言えど、他人がいなければ生きることは出来ないのだろう。
ルルは改めてそう思って、ベッドに寝転がったのだった。
◆◇◆◇◆
「こちらをどうぞ、母さま……」
ソランジュがゾエの前にソーサーとカップを置き、そこにポットから温かい液体を注いだ。
湯気を立てたその液体がカップを満たしていくにつれ、小屋に広がって言う芳香は懐かしいものだ。
かつて、ゾエがソランジュに教えたハーブティーだ。
いくつか、現代ではあまり使われない薬草も混じっているそのお茶は、教えられなければ現代の誰にも作れない味で、これがソランジュがゾエの娘である証明と言ってもいいかもしれない。
口をつければ、懐かしい香りが鼻腔を満たし、体の奥底にまで温かさが広がっていく。
感じていた体のこわばりが取れていくようで、ゾエはほっとしたように体をリラックスさせた。
そんなゾエを見て、ソランジュは言う。
「母さま……つかぬ事をお伺いしますが」
「……なに?」
ソランジュは少し、逡巡していたが、そこで黙り込まずに、ゆっくりと聞いてきた。
昔だったら、こんな風にしたソランジュは、何も言わずに黙ってしまうのが常だった。
それを、ゾエがなだめすかしながら、少しずつ話を引き出していくのだ。
意外と手のかかる娘だった――。
そう思いながら、あの頃からかなり成長したらしいソランジュの言葉を聞く。
「本当に、よろしかったのですか?」
「……何が……とは言えないわね」
そんなゾエの言葉に、ソランジュは微笑む。
その表情は少しばかり意地の悪いもので、子供の頃のソランジュが浮かべることはなかったものだ。
「分かっておられるのでしたら……私に申し上げることはありませんが……」
「……うん。いいのよ。私は……貴女と暮らしたいの」
「お気持ちはありがたく思います。私も、母さまと暮らしていけるのならばこれに勝る幸せはありません。が……」
「が?」
「こんなことを私が母さまに申し上げるのは、少しばかり滑稽な気もしますが……若者が自分の気持ちに正直にならないのは、あまり健康に良いとは言えないと思いますよ?」
気の毒そうに、はっきりとそう言いきられてゾエは、一瞬、何と返したらいいのか、分からなくなる。
ここまで、ゾエは、ソランジュに何となく昔のままの彼女のつもりで会話している部分があった。
けれど、違うのだと、ここではっきりと分かった。
彼女は、ソランジュは、あのときから数十年の月日を経て、人の世の酸いも甘いも噛み分け、沢山の経験をしたのだろう。
そこには人として、ゾエよりも大きなものが宿っているように思えた。
もう、子供ではないのだな、と心の底から思った。
ソランジュは続ける。
「古代魔族の方々が一体どれほどの寿命をお持ちなのか……それは、現代の人族である私にはわかりません。母さまは、今の私よりもずっと年上でいらっしゃるのかもしれない……けれど、母さまの振る舞いを見ると、思い出すのですよ」
「一体、何を?」
「かつて、私が冒険者として世界を回っていた頃に出会った、若者たちを、です」
それを聞き、ゾエはソランジュが自分が言ったように冒険者になり、しばらくの間、働いていたのだと言っていたことを思い出す。
厳密にいうと、今でも冒険者組合に籍はあるというので、冒険者であるのは間違いないらしいが、年が年であるということを理由に田舎に引っ込んでいるのだと言う話だ。
本来なら果たすべきとされているノルマも、長年の貢献を理由に免除されているため、定期的に働く必要もないらしい。
そんな彼女が言う、冒険者として世界を回っていた頃、というのは、こんな風に村に引っ込む前の話だろう。
今よりずっと若いころ。
彼女は今のゾエを見て、そこで出会った若者たちを思い出すと言う。
なぜ?
首を傾げたゾエに、ソランジュは言う。
「私は長く冒険者をやっておりましたからな。若者の指導を頼まれることも少なくなかったのです。これはそのときの――二十年と少し前の話なのですが……」
◆◇◆◇◆
それはソランジュが四十も少し過ぎたころのことだ。
身体に衰えは感じていたが、魔術師であることが幸いし、仕事の質が変わってもその有用性には少しも疑いを持たれていなかったソランジュ。
そんな彼女に、冒険者組合から一件の依頼が舞い込んだ。
「……ガキの指導?」
長く艶のある黒髪を伸ばした、妖艶な女性――ソランジュは、依頼の内容を告げた冒険者組合職員に眉を顰めながらそう言った。
職員は若い人族で、肩までの髪を一つにまとめた、すっきりとした顔立ちの女性だった。
名前は確か、サンドラ=シュゼルと言ったなとソランジュは考える。
サンドラは言う。
「ええ。その子供は――男爵家のご子息なんだけど……魔術師としての才能があるらしくてね。いい教師がいないかと打診を受けたから、貴女が推薦されたの」
依頼票を手渡されつつ言われたその言葉にソランジュは額の皺を更に濃くする。
ただでさえガキのお守りなど勘弁だと言うのに、男爵家のご子息様と来た。
面倒そうな匂いがぷんぷんするそんな依頼など、死んでもお断りだと瞬間的に思ってソランジュは断りの言葉を言おうとした。
しかし、サンドラはソランジュが口を開く直前に掌をソランジュの正面に向けて、
「断るのは無理よ? これはフィナル冒険者組合長からの指名依頼扱いだから。貴族って聞いたら大体貴女みたいなベテランは断ろうとするからね……」
と先手を打たれてしまった。
ここでそれでも嫌だと言うのは簡単だったが、冒険者組合からの査定は下がり、さらにまかり間違えばランクの格下げすらもありうることを考えれば断りようがない。
ソランジュはため息をついて、仕方なくその依頼を受けることにした。
その際、サンドラに厭味を言うのは忘れなかった。
「……覚えておくんだね」
しかし冒険者から悪態を吐かれるのは職員として慣れっこらしい。
綺麗な微笑みを浮かべて、
「貴方の働きが私のお給料になっているのは、忘れないわ。頑張ってね」
と手を振られてしまった。
全くもってその通りで、強かな職員の女性に敗北を示すように両手を上げて降参を示し、そのまま冒険者組合建物を後にしたソランジュだった。
「……ここかね?」
ソランジュは、冒険者組合から渡された依頼票に記載してあった住所と見比べて、目の前の大きな屋敷がその場所であることを確認し、そう呟いた。
どうやら間違ってはいないらしい。
フィナルにこれだけの館を構えられるという事は、それなりに金は持っている貴族なのだろう。
だったら自分などのような上級下位程度の冒険者にではなく、特級辺りに頼めばいいだろうにと思ったのは言うまでも無い。
しかし、文句を言っても仕方がない。
冒険者組合から推薦された、という話である。
選んだのは男爵家ではなく、冒険者組合であって、怒りをぶつけるべきは冒険者組合に対してであるべきだった。
そして、冒険者組合に所属している身としては、そんなことは出来ない。
結局は諦めて受け入れるしかないなとため息をつき、ソランジュはその館の前に立つ門番の一人に話しかけた。
「すまないが……ここはこの住所で間違っていないかい?」
依頼票を見せながら、門番に話しかけたのは、こうするのが一番手っ取り早いからだ。
住所が間違いないのはソランジュが自ら確認しているから分かっていることだが、口で尋ねるとたいてい冒険者と言うのは貴族から邪険に扱われるから、追い払われかねないのである。
しかし、こうやって依頼であることを示せば、意外なほどすんなりと話を聞いてくれるのだ。
門番も仕事である。
主人がした依頼を引き受けて来た冒険者を邪険にしようものなら、どんな叱責を後で受けるか分からないからだろう。
そこに、組織に所属する者同士の悲哀を感じて、ソランジュは何となく門番に親近感を感じた。
目の前に立って屋敷を見つめていたソランジュを胡散臭そうに見つめていた門番だったが、依頼票を見せたことでその表情は明らかに軟化した。
それどころか、ソランジュに対して、ソランジュが門番に感じているものと同様の感情を抱いたのだろう。
「……冒険者か。旦那さまからのご依頼を受けたのだな……ふむ。依頼票も、正規のもの、印も間違いない。こちらへ……」
と、しっかりとした応対を受けて屋敷の中に案内される。
門から屋敷自体の扉まで遠く、その間に二、三軒の家が建ちそうな程で、金はあるところにはあるものだなとソランジュはどうでもいいことを考えつつ、門番の背中についていく――。