第144話 馬
「……引き出しても?」
ランプレヒト子爵は少しばかりの緊張を声に滲ませながらも、その質問に対して、いいえと言われるとは考えもしていない様子でそうルルたちに尋ねた。
ルルはそんなランプレヒト子爵の表情、それに先ほどの言葉から感じられたルルの器量に対する妙な信頼にどう応えたらいいのか少し悩むが、ここで首を振ったところでさしたる意味はないだろうと結論する。
「構いませんが……他の"馬"はこの鉄格子の向こうの化け物を引き出しても問題は無いのですか?」
辺りを見回して他の"馬"の様子を何気なく確認してみれば、数十秒前に響き渡った恐ろしげな鳴き声に萎縮して怯えている巨大な生き物たちがそこにはいた。
明らかに人よりも強靭で重厚感のある用意をしているというのに、今の彼らの様子はランプレヒト子爵やゲルトよりも遥かに頼りないようですらある。
ルルの言葉、それに仕草を見てルルの言いたいことを正確に理解したランプレヒト子爵は自らの管理下にある動物たちを失望したように見つめ、ゆっくりと首を振ると、
「……まぁ、ルル殿がこれを引き取ってくださるのですから、ほんの刹那の間くらいは彼らも我慢してくれるでしょう。出来るだけ早く御していただけると助かりますな」
と、厭味なのか本気なのか分からないような口調で微笑みながら言い放ってくれた。
ため息を吐いて、勘弁してくれと言いたいような気分に陥るが、あの暗がりの中にいるのは国王からの贈り物なのである。
拒否するわけにも別のものに変えてくれというわけにも行かず、ルルは仕方なく首を縦に振ったのだった。
それを確認したランプレヒト子爵と厩番であろうゲルトはお互いに視線を合わせて頷き合うと、先ほどゲルトが出てくると同時に閉めた鉄格子の扉の鍵を外して開け放つ。
ルルはてっきり、その瞬間に中から何かが物凄い勢いで飛び出してくるのではないかと想像していたが、現実には巨大な生き物が立てる息遣いが徐々に近づいてくる音と、厩舎の地面に敷かれた柔らかい敷き草をみしみしと踏みしめる不気味な音が聞こえてきただけだった。
――何が出てくるだろうか。
何が出てこようとも即座に行動できるように体にある程度の力を入れて待った。
横にいるイリスも同様に気を張って真っ直ぐに鉄格子の開いた扉を見つめている。
のんきにしているのはその場ではリガドラのみであり、周りに沢山いる大きな"馬"たちの怯え具合を見ればある意味、大物なのかもしれないと言えた。
そうして、明らかになったルルたちに与えられるべき"馬"の姿、それは――
◆◇◆◇◆
「……双頭地竜!」
鉄格子からのっしのっしと音を立ててゆっくりと出てきたその生き物。
それは、人が扱えると言われる竜種のうちの一匹である、地竜、そしてその中でも特に珍しく、大きな力を持つと言われる双頭の地竜であった。
翼を持たないゆえに、空を飛ぶことは出来ないが、歩く速度は人や一般的な魔物を遥かに凌ぐものであると言われる。
馬車を引くための"馬"として考えられる限り、最も強力な生き物だが、その強力さゆえに誰でも扱えると言う訳にもいかない、非常に難しい"馬"である。
それに、今ルルたちの目の前にいるのはただの地竜ではない。
首の付け根から少し上った辺りで、首が二つに分かれており、それぞれに意思がある竜頭が二つあるのだ。
しかも、その頭部ですら、普通のものには見えない――
「……何か、魔力を帯びているように見えるのですが、これは……?」
ルルが呻くようにそうランプレヒト子爵とゲルトに尋ねると、子爵は頷いて答えた。
「ええ、良いところに気づかれましたな。これは、普通の双頭地竜ではなく、属性地竜に双頭竜でして……見ての通り、両の頭から別々の息吹を放つことが出来ると言う非常に珍しいものです」
息吹は竜族の代名詞と言ってもいい強力な魔術であるが、それが使用出来る竜族を人はまだ御すことが出来ていない。
しかし、地竜の突然変異種である属性地竜はその唯一の例外である。
育った場所の魔力的な偏りや環境に運よく適合した地竜はごくまれに、特定の属性の息吹を放つことが出来る様になるものがいる。
非常に珍しく、探しても見つかるものではないと言われる程度には見ない生き物で、運良く確保できたとしても、一つの国に5体前後いれば多い方だと言われるような存在だ。
それなのに、その属性地竜の双頭竜である。
大盤振る舞いにも程があると言ってよく、これだけで闘技大会の賞品としては十分だと言えるだろう。
他にも色々貰って申し訳なくなるくらいだが、今はそんなことを考えている場合ではないことに目の前にいる地竜の瞳を見て気づいた。
てらてらと輝く艶のある鱗、鋭く砥いだ剣よりもずっと鋭そうな牙や爪も恐ろしいが、何よりその瞳の力強さは他の生き物の追随を許さない威厳がある。
ランプレヒト子爵は、その迫力に腰砕けになりそうであるが、小竜を愛する人だ。
竜と言うものそのものが好きなようで、その瞳や態度には全く嫌悪の色は見て取れない。
むしろ憧れすら感じる。
滅多に見れないその誇り高い生き物に、彼は触れたくなったのか一歩足を踏み出すが、ぎろりと視線を送られて、少しばかりがっかりとしつつ、慎重に後ずさった。
それからルルを見て、
「……私ではお気に召さないようですな。ルル殿。頼みましたぞ」
そう言って徐々に地竜より距離をとって遠ざかっていく。
彼の横についたゲルトも同様にして地竜から離れていき、そしてルルとイリスの後方へと下がった。
全てを完全にルルたちに任せようという事なのだろう。
ルルがもらうものである。
これから、馬車の引手として活用していく存在である。
ルルが御するのが当然と言えば当然なのだが、いう事を聞かせるところからやれ、というのは少しばかり酷に過ぎないかと国王に文句を言いたいような気分になる。
まぁ、本当に文句を言ったら、彼は事もなげに言うのかもしれないが。
ルルに期待している、と。
王様と言うのは本当に我儘なものだ、とかつての自分の地位を棚に上げつつ考えたルル。
しかし選択肢は一つしかない。
目の前の生き物を支配すること。
それだけだ。
そして、それはかつてのルルが自然に行ってきたことでもある。
ぎらぎらと輝く攻撃的な瞳を見つめ、ルルは双頭竜に言い放つ。
「……さぁ、かかってくるといい」
◆◇◆◇◆
実際に双頭竜がルルの言葉を理解したかどうかは定かではない。
しかしその瞳の輝きは悪い方向へと増し、さらに双頭竜はその巨体を支えている二本の足のうち、一本でもって地面を蹴ると、ルルに向かって突進してきた。
かなりの巨体である。
もし、直撃したならば通常は一瞬で肉塊に変えられてしまうだろうことが簡単に想像できる破壊力がそこには感じられた。
ルルとて、その身体は人族のものであるから、そのまま双頭竜の巨体に挑めばまさにその通りのことが起こることは容易に想像できる。
だから、ルルは自らの体に魔力を籠めて対抗しようとした。
しかし、
「……お義兄さま。ここは私が」
横からそんな声が聞こえてきて、イリスがルルの目の前に立った。
確かにイリスならその身体能力だけでどうにか出来るかもしれないが、この場面において、少女に先頭に立って働いてもらうのはどうなのか、と一瞬首を傾げる。
しかしイリスは誇らしげに言う。
「私が、現在におけるお義兄さまただ一人の側近ですから。お義兄さまの手を煩わせる必要のないものは、私が対応いたしますわ」
てっきりルルに全て任せるつもりなのかと思っていたのだが、そんなつもりはなかったらしい。
そして、そんなことを言われてはルルとしても動くわけにはいかない。
ふんぞり返って見ているかとイリスの後ろでイリスの活躍を見守ることにした。
突進してくる巨体に、最も不安を感じているのはルルでもイリスでもなく、かなり遠くの位置から眺めているランプレヒト子爵とゲルトだった。
振り返ってみてみれば、真っ青一歩手前の顔でルルたちを彼らが見つめていることが分かる。
小さく華奢な体しか持たないイリスが、双頭竜の巨大な質量を誇る突進をどうにかできるとはとても考えられないのだろう。
確かにその大きさのみを比較してみれば、イリスはまさに竜の前の人の子に過ぎず、容易く踏みつぶされる一匹の蟻に過ぎないだろう。
けれど、彼女の真実の姿は遥か古代に人族に恐れられた伝説の種族、古代魔族である。
そのことが真実であることを知っている者にとって、竜とイリスの対峙は、決して結果の明かな賭け事などではなかった。
実際、ルルの髪を強くはためかせるほどの突風を生み出した双頭竜の突進は、しかし、ルルの元まで辿り着くことなく、イリスの両手の平によって二つの頭を押さえられ、完全に停止させられたのである。
それを驚きの視線で見つめるランプレヒト子爵とゲルト。
そしてルルの頭の上に着地して、きゅいきゅいと楽しそうに鳴いているリガドラ。
もしかしたらこの場で起こっていることを正確に認識できているのはリガドラなのかもしれない。
イリスに、自分より遥かに小さな存在に過ぎないものに容易く止められたことが信じられないのか、双頭竜は力を抜かずに頭を前に出して突進を続けるが、イリスはびくともしないでそこに立っている。
「……できればこれで諦めて言う事を聞いていただきたいのですけど、ね!」
そう叫んで、イリスは思い切り双頭竜の巨体を押して、鉄格子の前まで押し下げた。
どう見てもイリスの力の方が双頭竜より上で、それは向こうも理解したらしい。
悔しげな唸り声が聞こえてくる。
しかし、だからと言って、ルルやイリスを食い散らかすことを諦めたという訳でもなさそうだ。
魔力の収束をその両の首の喉元に感じたとき、ルルもイリスも次の瞬間何が起こるのかを敏感に察知し、素早く術式を構成する。
当然のこと、どちらも結界であったが、イリスのものはイリスと双頭竜の間に張られ、ルルのものはランプレヒト子爵とゲルト、それに厩舎の中にいる"馬"たち、さらには厩舎それ自体にも細かく張り巡らされて被害を最小限に抑えるべく配慮された複雑な結界だった。
イリスはそれを見てふっと笑い、
「やはり私ではまだまだお義兄さまの足元にも及ばないのですね……」
と、嬉しそうな、それでいて少しばかり切なそうな声で呟く。
そしてそれと同時に双頭竜の二つの首から、カッ、と光が発せられ、竜巻のような形をした息吹がルルたちに向かって放たれた。
片方は、高温を纏った赤熱の息吹であり、もう片方は鎌鼬をいくつも重ねあわせたが如く鋭い切れ味を誇る疾風の息吹であった。
そしてその二つが合わさることで、火炎竜巻が発生する。
もし結界も何も張らずに放っておけば厩舎はそのまま炎で消し炭にされていた可能性もありそうだが、結界の張っていない鉄格子はその火炎によっても焦げ付きもしていないあたり、そう言った点についても配慮された素材で作られていたのだろう。
そして、双頭竜を出すときは、ルルたちの力に頼ったと言うか、丸投げする気だったというわけだ。
もしルルたちがいなかったらどうやってこれを扱うつもりだったのだろうかと疑問が浮かんでくるが、そのときは特級冒険者を二、三人投げ込めば何とかしてくれるのかもしれない。
ユーミスやグラン、それにシュイやウヴェズドの仕事を期せずして奪ってしまったかもしれないな、と一瞬ルルは考えるが、本人たちが聞けばそれはむしろありがたかったと答える程度には厳しい仕事であった。
そうして双頭竜の息吹を結界でもって防ぎ切ったあと、打つ手を失ったらしい双頭竜はイリスを睨みつつ、動かなくなった。
いや、打つ手を失ったのではなく、力押しをやめただけかもしれない。
竜は、非常に賢い魔物だ。
状況判断も優れた狩人のようにするとよく言われる。
それがこの双頭竜にも当てはまるなら、これくらいで諦めるはずがない。
「長期戦になるのか……」
「の、ようですわ……」
ルルとイリスが二人そろってそう呟き、覚悟したところでルルの頭の上にいた物体が動き出した。
「きゅいー」
そして驚くべきことに、それまで一切の動揺を見せてこなかった双頭竜が、その一鳴きにはっとしたように目を見開いたのだった。