第140話 水晶
「兄妹お揃いでそんなに凄い魔術師なのは、やっぱりご両親の教育の賜物ですか?」
クレールが市場を歩きながらそんなことを尋ねた。
キキョウはフウカと共に、少し前に通った屋台で焼き菓子を買ってくると言って、フウカと一緒に少し離れている。
イリスは何と答えたものか一瞬迷ったが、言える範囲で事実を言おうと思い、正直に言う。
「お義父さまも、お義母さまもとても優れた人であるのは確かですね。戦う技術については特にお義父さまが王立騎士団の剣術指南役でいらっしゃいますから……。ただ、私が戦い方や魔術を学んだのは、実のお父さまとお母さまになので、そのご質問に対する答えは、はいでもあり、いいえでもある、ということになるでしょうか……」
イリスは特に詳しくは言わなかったし、話している途中に詰まる、ということもなかった。
何でもないことのようにさらりとそう語ったのであるが、クレールは敏感に察したようである。
非常にまずいことを聞いてしまった、というような顔で、
「あ……すみません……」
と言った。
イリスとしては特にクレールの質問で気分を害したという事はない。
両親がもはやこの世界にいないだろうということについて、もちろん思う所がないというわけでもないが、実の両親について語ることに忌避感は無かった。
もういない、会えない人々であると分かっていても、その存在は今もイリスの脳裏にありありと浮かぶからだ。
あの時代を共に生き、駆け抜けた人々の事は、決して忘れられないし、忘れたくもない。
それにイリスにとって、あの時代は、たったの七年前のことに過ぎない。
この七年で、あの時代の空気が、そして共に走った人々の息遣いが色あせたりはしていない。
だからこそ、思い出すのに少しの切なさと胸の痛みを覚えないというわけにもいかないのだが、だからと言って、なかったことにしようとは思わない。
だから、イリスは彼らについて、胸を張って語る。
今の自分を、そしておそらくは――今の時代をすらも、彼らが作ったのだと信じているからだ。
「いいえ……いいのですよ。私にとって、実の両親も、そして義理の両親も、どちらも本当の両親であることに変わりはありませんから。それに話したいと私が思ったから話したのです。むしろ、クレールさんをそんな表情にさせてしまって申し訳ないくらいですわ……私が無神経でした」
イリスはそう言った。
しかしクレールは首を振って言う。
自分が謝らなければならない話で、反対に謝罪されてしまうことになるとは想像もしていなかったのだろう。
それに、本質的にクレールは優しい少女だった。
切なそうな顔をしているイリスに、自分のせいで罪悪感のようなものを感じてほしくは無かった。
「そんなことありません! 私、余計なことを言ってしまったかと思って……イリスさんに辛い話をさせてしまったかと思って、申し訳なくて……。でも、イリスさんは、今の御両親も、実の御両親も大事に思っていらっしゃって……とても、優しいお顔をされています。お嫌でなければ、私に、イリスさんのご家族のお話を聞かせてはもらえないでしょうか……?」
それこそ、場合によっては無神経な踏込み、と言われるようなものかもしれなかった。
けれど、クレールの表情と態度には、そのように感じさせるどのような感情も表現されていなかった。
むしろ、心からイリスを気遣い、そして知人として、何かを語るための相手になることによって、力になろうとする優しさがあった。
そのことをイリスは理解し、これならば、と考えて、話し出そうとした。
息を吸って、思い出そうと。
「……そうですね、お父さまは、とても優れた魔術師であり、戦士でした。そして、お母さまは……そんなお父さまを支える、とても素敵な女性で……」
けれど、そこまで話したとき、クレールが言った。
「……イリスさん。目に……」
「……え?」
言われて触れてみた瞳の下。
そこには水滴が溜まっていて、イリスは自分のことながら、驚く。
「あら……これは……申し訳ないことですわ……」
そう言ったイリスに、クレールの方が謝った。
「いいえ……イリスさんは全然悪くないです……ごめんなさい。本当に無神経だったのは私だったみたいで……」
イリスの予想外の反応に、クレールは酷く落ち込んでしまったようで、それこそ今にも泣きだしそうな様子だった。
本当に、クレールは全く悪くない。
イリスはそう思った。
実際、イリスは自分でも自分の反応に驚いたくらいだ。
クレールに予測できるはず等ない。
それに、こうやって、ふっと涙が湧き出てきたことで、思ったこともある。
今まで何でもないふりをして、現代での生活を過ごしてきたけれど、もしかしたら自分は思っている以上に、誰もいないということにショックを感じているのかもしれないと。
ルルがいなければ、もしかしたら抜け殻のようになっていた可能性すらもあるような気が、今はした。
そのことに気づかせてくれたことに、感謝こそ覚えたが、責める気持ちになどならない。
だからイリスは言った。
「クレールさん……いいのです。私は自分でも……こういう気持ちが自分の中にあることを知りませんでした。そのことに気づかせてくれた貴女を……責めようとは思いません。むしろ、嬉しかったです。こんな気持ちがあることが分かって……なんだか、昔のことが、今でも自分の奥の方に残っているような気がして……遥か過ぎ去ったことだと思っていましたが、私にとってはまだ終わったことではない。そう思わせてくれて、ありがとうございます」
「い、いえ……そんな……ぜんぜん……」
イリスの言葉にぱっと顔を上げたクレールの瞳には涙が流れていた。
イリスはクレールの頭を何故だか無性に撫でたくなってそっとなでると、クレールはイリスの胸に飛び込んで抱きしめてきた。
「……お二人って、そういう関係だったのですかっ!?」
焼き菓子の入った袋を片手に、口にその焼き菓子を放り込みながら、キキョウがそう言いながら戻ってきた。
タイミングが良いのか悪いのか……。
それから、イリスとクレールは、どうしてそんな状況に陥ったのかをキキョウに説明する羽目になったのだった。
◆◇◆◇◆
「――これは」
そう言って目を見開いたイリスが足を止めたのは市場の一角、とある露店の前だった。
「どうしたんですか?」
そう言って首を傾げて尋ねてきたのはクレールである。
イリスは彼女の質問に、露店に並べてある商品の中から一つのものを指さして答える。
「これが気になりまして……」
イリスが示したものに目を向けるクレール。
そこにあったのは何の変哲もない水晶の棒であった。
ちょうど掌に収まりそうな大きさで、透き通って美しいが、特にイリスの興味を引きそうなところは見られない。
首を傾げて、キキョウも尋ねた。
「またどうしてこれを?」
「どうして、と言われると……」
ちらり、と露店の店主を見て、イリスは黙った。
それでクレールもキキョウも何となく察する。
つまりはそれを口にすれば、この水晶の値段が吊り上りかねない価値をイリスは見出したということなのだろう。
それなら、という事でこういうときに最も頼りになる人材であるところのクレールがイリスにひそひそとした声で言う。
「……私が値切ります」
イリスは少し考えるが、クレールが市場での買い物の達人であるという事はルルからも聞いて知っている。
戦場は自分の領分であるが、市場も一種の戦場であるのは違いない。
しかし、専門というものがあり、ここを担当するのは自分でなくクレールの方がいい、とイリスは判断し、頷いた。
「お願いできますでしょうか……? 正直、どうしても欲しいのです……極端に高値でなければ、闘技大会の賞金があります。即金で払えますので……」
クレールはイリスの言葉に頷き、それから店主との交渉に入った。
「すみません、この水晶なんですが……」
髭面の少し胡散臭そうな店主は、その顔に笑みを浮かべて話し始める。
「おっ、お嬢ちゃん。中々お目が高いねェ! この水晶はそんじょそこらの品とはモノが違う……」
そんな風に始まった、二人の攻防であったが、クレールはやはり達人であった。
最初に店主が提示した価格は結構な高値で――とは言ってもその時点で通常の水晶の三倍程度だったからイリスとしてはそれでも良かったのだが――あったが、クレールはそれをまず妥当な値段まで徐々に下げていった。
そこまでならこの市場で普通に行われていることだ。
主婦ならばその程度のことが出来なければならないと言われる技術であり、イリスもそれくらいなら可能だ。
けれどそこからがクレールの真価であった。
話術巧みにその水晶の仕入れ値を探りだし、おそらくはそこからいくらで売れば店主の利益になるかを計算したのだろう。
そのぎりぎりのところまで値段を落としてしまったのである。
「……お嬢ちゃんには負けたよ……まさかこの台詞を現実に言うことになるとは思わなかった。ええい、もってけ泥棒!」
そう言って、店主は水晶を保護材らしきもので包んでクレールに手渡した。
料金はクレールが出そうとしたが、流石にそこまでさせるわけにはいかない。
イリスが懐から財布を出して払った。
「はい、どうぞ。イリスさん」
クレールはそう言って水晶棒の包まれた袋をイリスに手渡した。
イリスはそれをゆっくりと受け取り、クレールに礼を言う。
「本当にありがとうございます。クレールさん。まさかあそこまで安くなるとは思いませんでしたわ。相場の三分の一……」
それは普通に値切ってはありえない値段である。
クレールにしかできない鬼のような技術であった。
しかもそこまで値切らせているのに相手はさほど怒っていなかったし、また来いとまで言わせて気に入られているのだから凄い。
「いいえ……それより、これで、さっき泣かせてしまったお詫びになりましたか?」
どうやらまだクレールとしては引っかかるものがあるらしい。
イリスはもう全く気にしていないので微笑んで言う。
「ええ、十分ですわ。それどころか、私の方が借りが多くなったような気がするほどです」
水晶を包みから取り出しながら、イリスはそう言う。
イリスがそこまで言う水晶。
それがなんなのか気になったのはクレールもキキョウも同じで、だからキキョウが首を傾げて尋ねた。
「それで……その水晶は一体何なんですかっ? 私にはただの水晶にしか見えませんけど」
「私もです。同じ水晶なら市場のいたるところで売ってますよ」
二人に揃ってそう言われたイリスは少し考えて、それから説明を始めるべく口を開こうとした。
しかしそのとき、
「泥棒だ!!」「逃げたぞ!!」「誰か捕まえろー!!」
そんな声が市場に響き渡る。
何が起こったのかと三人で振り返ってみれば、そこにはイリスたちの方に向かって走ってくる一人の男がいた。
その男は何か抱えており、なるほど、市場のどこかからものを盗んできたのだろうと思われた。
イリスはそれを見て、
「……ちょうどいいかもしれません」
と言って右手に水晶を持ったまま、クレールとキキョウの前に出た。
男は徐々に近づいてくる。
「……手は貸した方がいいですか?」
キキョウがそう尋ねると、イリスは首を振った。
なので、キキョウは一歩下がり、クレールを守るような位置取りをする。
そして、とうとう男が目の前にやってきた。
「どけ、どけっ!!」
そう言いながら回りの人々を押しのけていく男。
荷物を持っていない方の手にはよく見ると短刀が握られていて、それなりに危険そうである。
しかしイリスはそんなものの存在など気にもせずに、ゆっくりと男に向かって進み始めた。
「……? なんだ、お前は! どきやがれ!!」
不自然に近づいてくる少女に男は気づき、そんな言葉を叫ぶが、イリスが特に反応もせずに進んでくるのを見て取ると、構えた短刀を握りしめて突っ込んでくる。
良く見れば魔力が込められていて、それなりに戦いの心得はあるらしかった。
そして、イリスと男が交錯する。
それは静かな光景だった。
すっ、とすれ違った二人。
それから少しだけ離れて二人は停止し、そして、男の方がばたりと倒れた。
イリスは特に変わった様子が見られない。
いや……。
少し違う。
イリスの手には先ほどまで握られていなかった、長く美しい剣が握られていた。
それはどう見ても水晶でできていて、先ほど購入したそれであるのは明らかである。
イリスはクレールとキキョウに振り返って言った。
「こういうことですわ」
次の瞬間、二人は、どういうことか言葉で説明してほしい、とイリスに尋ねた。