第135話 真夜中
誰もいない闘技場。
古代竜の屍体以外には何物も存在していないその場所。
当然のこと、その場に静寂のみがその場には満ちていて、星空が暗闇を見下ろしていた。
しかし、そんな静けさを破る音が聞こえてくる。
不気味な音だ。
何か、有機物を撹拌しているかのような、ぐちゅぐちゅとした音である。
しかし、それに不信を抱く者はこの場にはいなかった。
闘技大会が終わったとはいえ、施設には一応、警備の者がある程度はいる。
けれど、彼らが警戒しているのはあくまで外部からの侵入者であって、内部にあるものではないのだ。
闘技場全体を夜は薄い魔術結界の膜が覆っており、通常の出入り口以外から許可なく中に誰かが侵入すれば、即座に警戒音が鳴り響く。
そういう仕組みになっているものだから、内部の状況については意外なほど無警戒であった。
特に、闘技場の中心的施設――つまりは、闘技場ステージのある空間は、わざわざ入り込む者などいない。
必然、警戒は緩くなる。
今は古代竜の素材があり、ある意味で宝の山と言えるが、その解体は容易でなく、一部を持ち去るにもそれなりの時間がかかる。
さらに、それが譲られる人物は国王のお気に入りとなった冒険者である以上、国を敵に回してまで盗みを行えるような者は中々いなかった。
皆無ではないと言うのが世の中の世知辛さを表しているが、実際にそのような行動に出て、成功させるだろうと思われるような大物の盗賊は今、王都にいると言う話は無い。
したがって、近づいてくる者は二流三流の盗人風情であり、そう言った者たちが闘技場の警備を抜けるわけも無かった。
だから、誰も気づかなかった。
この闘技場の中心において、極めて不思議なことが行われていることに。
なり続ける不気味な音色、ぐちゅぐちゅとした音は徐々に大きくなってきている。
それが聞こえる場所はどこかと言うと、古代竜の屍体であった。
大体、羽の付け根辺りの目立たない場所が微妙に盛り上がり、、まるでそこに何か寄生虫がいるかのようにもぞもぞと動いているように見えた。
――あれは一体なんだ。
ここで起こっていることを観察している者がいれば、そしてその者が何も知らなければきっとそう叫んだことだろう。
古代竜に寄生虫がつくなどという事は少なくとも一般に知られてはいない。
膨大な魔力と生命力を持つその存在に、つける寄生虫など考えることも出来ないからだ。
古代竜の肉体は鱗のみならず、体内も恐ろしいほどの耐久力を持っている。
命を失ったのち、しかるべき処置をすれば食べられるほど柔らかくなるが、生きているときにはとてもではないがそんなことが可能とは思えない固さをしているのだ。
そんな状態の古代竜に寄生できる生き物などいないと思われた。
しかし、実際に、今、古代竜の鱗の下で、何かが蠢いているのだ。
果たして、その正体は――。
それは、しばらくの後、明らかになった。
古代竜の翼の付け根がぼこり、と盛り上がっていき、そして、ぴりぴりと切れ目が入っていくのである。
そして、次の瞬間、
「……きゅいー!」
と言う鳴き声と共に、そこから何かの影が飛び出した。
目をこらしてみれば、それは明らかに小型の竜であった。
古代竜とは似ても似つかず、ある程度の高さの山であれば生息が確認できる小型の竜、小竜とそっくりな容姿である。
一部、角が透き通った青色をしていたり、瞳の色が黄金に近い琥珀色をしているなど、異なってはいる部分はあるものの、個体差とか亜種、と言っていいレベルの違いであり、全体としてはどう見ても小竜であった。
小竜は、ずんぐりむっくりとした体型に、大きな瞳、それから短い手足などが可愛らしさを演出しているため、幼い少女に人気の魔物であり、ペットとして飼うこともあるくらいである。
当然、魔物としては非常に弱く、人を襲うこともない。
せいぜい、空を飛べる程度の、愛玩動物であると言われる生き物である。
竜族らしく、魔術を使える個体もいなくはないのだが、回復・治癒魔術だったり、しょぼい幻惑魔術だったりしか確認されておらず、攻撃魔術には適性がない魔物と言われている。
したがって極めて安全な魔物である筈なのだが、そんな魔物がなぜ、古代竜の体内から出てくるのか。
この現象を見た者がいれば、おそらくはわけが分からない、と頭を抱えることだろう。
けれどこの場にその理屈を説明してくれる者などいるはずもない。
事態は暗闇の中で進んでいく。
古代竜の中から出てきたその小竜らしきものは、辺りを警戒するようにきょろきょろと見回すと、誰もいないことを確信したのかほっと息を吐いた。
それから、
「きゅいっ……きゅいっ……」
と不器用に歩くたびに鳴き声を上げながら、古代竜の体の上を歩き回る。
ぺろぺろ嘗めたり、匂いを嗅いだり、一体何のためにそんなことをしているのかは分からないが、その小竜はそんな作業をしばらく続けた。
そして、やっと気が済んだのか、
「きゅいー!」
と一鳴きして、小竜は空に飛びあがった。
丸々とした体型に、それに見合わない小さな翼である。
空を飛べそうにはとてもではないが思えないのだが、意外にもその小竜は器用に空を舞い、高く飛び上がった。
そして、そのまま闘技場を出ていく――かと思いきや、途中で振り返って地上を見下ろした。
よく観察してみれば、小竜の滞空している場所は、古代竜の屍体の丁度、真上であった。
それから、地上を見ていた小竜が、
「きゅいぃぃぃぃ……」
と集中するように目を瞑り、何かを集める様に体を丸める。
しっぽがぺしぺしと動いていた。
この小竜の様子を竜を研究する学者が見れば、目を見開いて驚いただろう。
古代竜の体から出てきたこともそうだが、その上、こんなことをする小竜など、世界中のどんなところでも確認されてはいない。
一体何をしようとしているのか、是が非でも探究しようとするだろう。
もしかしたら捕獲して解剖しようとするかもしれないし、他に同じような事例がないか、小竜を狩り尽くすかもしれない。
けれど、この場においてはそんなことをするまでもなく、小竜は答えを示した。
小竜が集中してしばらくすると、古代竜の体が光り輝いたのだ。
良く見れば、古代竜の体には不思議な模様が描かれていて、その模様が光り輝いていることが分かる。
そしてさらに思い出してみれば、それは先ほど小竜が嘗めていた部分であることが理解できた。
つまり、先ほどの行動は古代竜の体に魔法陣を描いていたということになる。
知られている小竜にそんな技能など無いはずだ。
それなのに、現実にはこんな奇妙な事態が起きているのだ。
不思議なことこの上なかった。
そして、光り輝いた古代竜の体から、糸のようなものがするすると伸びていき、そして小竜の近くまで辿り着くと、小竜は口を開いてその糸を迎え入れた。
すると糸の太さは増し、荒縄のような太さになる。
そんな光の縄を、小竜は適度なところまで口の中に吸い込み、そして咀嚼し始めた。
丸いシルエットの生き物が、もぐもぐとしている様は可愛らしかったが、一体何を食べているのかを理解できるものは小竜を置いて他にいないだろう。
幸せそうに光の縄を食べる小竜。
その様からは、明らかにその光の縄がその小竜の栄養になっていることが分かるのだが……。
さらに奇妙なことは、小竜がその光の縄を食べると、古代竜の屍体のしっぽ辺りから、徐々に登っていくように鱗の輝きが失われていく。
という事は、つまり小竜は古代竜に宿る何かを食べているということになるのだろう。
つまりこのまま放っておけば、古代竜の素材的な価値はゼロになるのかもしれない。
そして、そんなことを許すわけにはいかない者が、その小竜の背後にいつの間にか立って、声をかけた。
「……おい」
小竜はその声に驚き、振り返る。
「きゅきゅっ!?」
それは極めて気の抜けた高い鳴き声であった。
小竜っぽい見た目をしている以上、それは当然なのかもしれないが、いまいち納得できない、と頭を押さえつつ、小竜の背後をとったその人物――ルルは言った。
「それ以上、あの屍体から魔力を抜き取るのはやめろ。後で素材にするつもりなんだからな」
空中に浮いているため、ルルの身に着けているものがばさばさと風に吹かれて揺れる。
小竜はそんなルルの物言いが許せなかったらしい。
少しばかり声の調子を変えて、唸った。
「ぎゅぎゅー。ぎゅぎゅぎゅ!」
正直言って、ルルは余りそれを恐ろしいとは思わなかった。
と言うか、とてもではないが思えなかったのだが、ただ、小竜が怒っている、ということは理解できた。
だから、ルルは言った。
「分かってるさ……お前は自分の元の体から、魔力を取り戻してるだけだって言うんだろ? ほんと、よく分からない生態をしているよな……古代竜って奴はさ」
ルルは、なぜ自分の目の前にいる小竜が古代竜から光の縄を吸収しているのか、知っていた。
さらに言うなら、さきほど小竜が古代竜の体の中から出てきたところも見ている。
どうして、そんなことが起こったのかも、理由を知っていた。
だからこそ、そんな台詞を小竜に向けて吐いたのだが、当の小竜からすれば極めて奇妙な言葉に聞こえたらしい。
小竜は首を傾げて怒りを和らげた。
そう、ルルの前にいる小竜は明らかに人語を解していた。
「きゅー。きゅきゅきゅ。きゅきゅ?」
「……何言っているのかはいまいちよく分からないが……あれがなくなると明日、多分騒ぎになるからな。出来れば魔力をあそこからとるのは諦めて飛んでって欲しいんだよ。協力はするぞ?」
「きゅ」
ぷい、と別の方向を向いて拒否を示す小竜。
その様子に、単純に頼んでも無理らしい、と理解したルルは、仕方ないとため息を吐きながら、自分の掌から、魔力を出して操り、小竜の口元に運んだ。
その魔力の濃密な存在感を感じ取ったのかどうか、小竜はくんくんと匂いを嗅ぐように魔力に近づく。
それからその大きな瞳で少し、ルルの方を見つめたので、ルルは頷いて言った。
「……いいぞ。食べても」
すると、小竜は、
「きゅ!」
と元気よく返事をして、ルルの魔力に食いついた。
がんがんと口に運んでいき、吸収していくその様はまさにがつがつと食べていると言ってもいい様子で、ルルとしてはなんとなくお腹の物凄く減っている人にスープを出したような気分になり、満足するまで食わせてやろうかと思い、魔力を出し続けた。
それからどれくらい時間が経っただろうか。
はじめからずんぐりむっくりした、お太り気味のように感じられたその体型が、余計にお腹が強調されるような姿になって、やっと満足したらしい小竜は、
「きゅきゅきゅ!」
と、ルルに鳴いて、それからルルの足に体を擦り付けてきた。
「……もういいのか?」
「きゅきゅ」
これはおそらく肯定の返事だろう、と理解したルル。
「じゃあ、元の住処に帰れ。お前がいなくて大変らしいぞ」
と言って、闘技場に張られている結界のうち、上部にあたる部分を気づかれないように慎重に無効化して、小竜にそこから出ていくように促した。
しかし、小竜はそんなルルに首を振って、
「きゅきゅ。きゅきゅきゅ。きゅきゅ」
と言ってから、再度ルルの足に自分の体をこすりつける。
その仕草から、ルルはなんとなく小竜の言いたいことを理解して、確認に尋ねた。
「……俺についてくる気か?」
「きゅ!」
それは今までで、最も元気の溢れる返事であり、肯定以外の何物でもないと思わずにはいられない。
しかもその瞳はきらきらとしていて、断られることなど一切考えてもいない風である。
これは駄目だとルルはため息を吐いて、
「……イリスに相談してみるか……」
と呟き、その一匹と連れ立って闘技場を後にしたのだった。