第124話 結界
空中からステージ上にいるルルとロメオ、それにアイアスや国王を睥睨する古代竜。
その姿は黒一色であり、艶のある美しく頑丈そうな鱗に、恐ろしく尖った牙と爪を持っていた。
そして、その瞳は黄金色をしていて、きらきらと魔力照明灯に光が反射して夢現のような輝きを宿していた。
けれどよく見てみれば、その瞳の中に美しさではなく狂気が感じ取れた。
黄金色を渡る川のように細い血管が透けて血走っている黒竜の瞳は明らかに尋常な様子ではない。
それをはっきりと確認したとき、ルルは覚悟を決めてその黒竜と相対することにした。
それから、周りの様子が気になっていたので確認してみれば、当然のことながら観客たちは観客席から降りて、まさに蜘蛛の子を散らすように逃げていっているところが確認できた。
ステージ上にいた多くの要人たちもすでに逃走を図っており、それを見てルルは一応の安心を得る。
空中に浮かぶ竜は特に逃げる彼らに興味がないのか、追い立てて攻撃しようとする雰囲気はない。
そういった様子が見られれば、すぐにルル、もしくはイリスがくい止めただろうが、その必要はなかった。
しかし、しばらくしてその理由が知れる。
「……おい、ルル!!」
いつの間にかステージ上から消えていたグランが、観客席の上から叫ぶように言った。
おそらく、彼は観客たちの安全を考えてそちらを守りに走ったのだろう。
その後ろ姿が見えたのを覚えている。
しかし、そんな彼が戻ってきて何かを言おうとしている。
そのことに奇妙なものを覚えてルルは彼の言葉に耳を傾けた。
するとグランは言う。
「闘技場から出れねぇ! 出入り口に結界が張られてやがる!! たぶん絶対障壁だ!」
その言葉に驚いたのは、ルルではなく、ステージ上に未だに残っていた要人の一人、ロットスであった。
彼も本来なら逃げるべきなのだが、黒竜の出現する際の魔力を感じて覚悟を決めたのだろう。
彼の体の中に魔力の渦を感じる。
戦う気なのは間違いなかった。
けれど、そんな彼の耳に古族がこの事態を招いているかのような情報が入ってきたのだ。
目を見開き、それから同じくステージ上にいる国王に向かっていった。
「陛下! 我々古族は……!」
一歩間違えれば、いや、レナード王国国王グリフィズの一存でもって、古族が国際的に大きな非難を受けかねない状況がここに現出していた。
けれど国王はそれを理解した上で、今はそんな場合ではないこと、そしてこの闘技大会の間、古族との交友を得て理解できたことに自らの直感を加味して、古族に疑いなしと判断し、言った。
「わかっておりますぞ、ロットス殿! それよりも、今は対処しなければならない事態がございます。儂はこの通り、守られるだけしか出来ぬ王、邪魔にならないよう、震えて隠れておりますゆえ、ロットス殿はその力を存分に発揮していただきたい!!」
こんな状況の中、冗談まで挟んでそう言い切った国王に、ルルは微笑みが漏れた。
言い方は微妙だが、その言葉にロットスも特に古族を非難するつもりはないという意図を理解したのだろう。
信頼の糸、のようなものが二人の間に結ばれたのが見えるようで、なるほど、この国王は人たらしなのかもしれないとルルは思った。
しかしそれにしても結界である。
あの黒い古代竜をここに呼んだ者は闘技場にいる者すべてを殺し尽くしたいと、そういうつもりなのだということだろう。
闘技大会が開かれ、様々な要人がここには呼ばれており、しかも閉会式であるからそのほとんどがやってきていたのだ。
もしここにいる者、全員を抹殺できれば、レナード王国にも、また周辺諸国にも少なからぬ打撃が与えられることになる。
それによってどのような利益を首謀者は得るのか、ということを考えれば自ずと誰がこれを行ったのかは見えてきそうな気がする。
つまり、この企みの首謀者はレナード王国に敵対する組織や国であるということだ。
これに加えて、ルルはほぼ直感的に聖女の仕業である、と感じているが、そうすると少し理由がわからない部分もある。
レナード王国とアルカ聖国は別に敵対している訳ではない。
表向き、と言うか一般国民に周知されている情報からすれば、友好的な関係にあるはずだ。
それなのにこんなことをする目的がルルには見えなかった。
とは言え、そんなことをあまり長く考えているのも問題のようである。
空中に浮かぶ古代竜の喉元に魔力が集約されていくのを感じたからだ。
それを理解したルルは、とりあえず観客席にいるグランに手を振って話を理解したことを示し、
「グランは観客たちを頼む! 俺たちはこいつをどうにかするから!」
と叫んだ。
その言葉に目を剥いたのは流麗な美貌を持つ騎士ロメオと、それとは対照的な大男、アイアスである。
彼らとしては国王を守りつつ、どこか安全な場所に逃げるつもりだったのかも知れない。
今までここにいたのは、他の客たちが向かう方向に古代竜が向かうことを期待したのだろう。
また、ルルに事態の収拾を頼んだことから、どちらか片方は残るつもりだったのかも知れないが、あくまでそれは決死の覚悟であって、倒すつもりではなかったように見えた。
それを裏付けるように、二人の近衛騎士のうち、黒髪と無精ひげの男、アイアスがルルに乱暴に言う。
「おい、お前ルルとか言ったな!?」
ルルはその言葉に応える。
「はい……なんでしょう?」
その雰囲気に余りにもやる気が見えなかったのか、アイアスは少し訝しそうな目でルルを見ながら、続けた。
「……お前、あれを倒す気なのか?」
アイアスの見上げる空には、今にも喉から息吹を放ってきそうな黒竜が浮いている。
少し時間がかかっているようだが、あれはいわゆる溜めであって、手加減しようとか遊んでやろうとか思っているわけではなさそうだ。
あえて言うなら、骨も残らず消し飛ばしてやろう、という意志を感じる。
ルルは古代竜の息吹を警戒しながら応える。
「もちろん。貴方も先ほどお聞きになったでしょう? 闘技場には結界が張られていて逃げられない、と。あれを倒す以外に生き残る道がないことは明らかです」
「いや、しかし! 古族や特級冒険者の力で破壊することくらいは出来るんじゃねぇのか!?」
それは確かに不可能ではないかも知れないが……。
ルルはそう思ったが、応えたのはルルではなくロットスだった。
「出来ぬとは申し上げませんが、古族がその技術でもって結界を停止するためには結界を張っている装置の場所がわからなければなりませぬ。このような場所に……古代竜など呼び出すような周到な計画を立てている者が我らの装置を悪用しているのであれば、その場所をすぐにわかるようなところにするはずがないでしょう」
「では、特級冒険者や、俺たちが一点に力を集めて攻撃すれば……!」
アイアスは名案のようにそういったが、それにもロットスは首を振った。
「闘技大会中は装置の完全な崩壊を恐れて強度を本来のものよりも弱めて使用しておりましたからな。ルル殿とイリス殿の戦いにより、大規模な改修が必要なレベルで壊れましたが、三十分、いや、一時間程度に限って使用するならば、本来の強度よりも強い絶対障壁が張ることが出来ないわけではありませぬ。古族しか使用できぬはずの絶対障壁ですが、それをどのようにしてか活用されている以上、そういった特殊な改造もしている可能性があります……そうなると、おそらく破壊は難しいはず」
と、まるで希望の無いようなことを言う。
推測のように言っているが、おそらく確信があって言っているのだろう。
それが、なぜ古族しか使えないはずの絶対障壁を扱えるのか、という疑問に対する理由なのか、それとも絶対障壁の強度についてなのかはわからないが、ここで質問しても仕方がない。
空を見れば、魔力の集積は終わりつつある。
古代竜の顎が、ぱかりと開かれてその喉の奥から青い光が覗いた。
「……来ます!」
ルルはそう言って、未だ闘技場ステージ上に残っている者たちに警戒を促した。
しかし彼らに出来ることは少ない。
せいぜいが渾身の魔力を込めて障壁を張るくらいが精一杯で、あとは近くにいる要人の肉の盾になることを覚悟するくらいが関の山だった。
感心すべきことに、レナード王国の近衛騎士たちは、ロメオとアイアスを始め、国王や要人たちの前に立ち、古代竜が吐き出してくるだろう息吹を仮に障壁で防御しきれなくとも、自らが盾になる覚悟を決めてその場に立っているようだった。
他の国や団体の護衛や騎士たちも、似たような様子だったが、数人は逃げ出す者もいたことを見ればなかなか立派な行為である。
それに感心したから、という訳ではないが、ルルは即座に巨大な障壁を編み始め、その場にいる全員を守るべく空中の古代竜と地上の者たちのちょうど間あたりに恐ろしく厚い結界を築いた。
瞬間的に構築されていく厚い氷のようなその壁に、地上の者たちは目を見開いてルルを見つめている。
一応、イリスとの試合で見せた技量のうちの一つなのだが、守るべき対象があのときと違って自分一人ではなく、ステージ上にいる者全員であるために大きさが数十倍になっているので、驚愕したのだろう。
さらにルルは観客席までそれを広げようとした。
なぜなら、古代竜の息吹やその他の攻撃でもって、闘技場建物自体が崩壊させられ、その下にいるだろう観客たちに被害を被らせるわけにはいかないと考えたからだ。
けれど、ルルと同じように考えた者がいたらしい。
すでに観客席側には巨大な結界が張り巡らされていて、何の問題もなさそうな様子だったのでルルは結界を伸張させるのをやめる。
誰がそんな結界を張ったのか、と言えばこれは自明である。
ルルに近い強度で、またルルに近い速度でこのようなものを張れるのは、この場には一人しかいない。
「……イリス、どのくらい持つ!?」
ルルがそういうと、イリスは不適な笑みを浮かべていった。
「一日だって余裕ですわ! お義兄様は思うさま、戦ってくださいまし!」
その言葉の意味は、他の誰にわからずとも、ルルには自明であった。
イリスの張った、おそらくは闘技大会中に張られていた絶対障壁よりも高い強度を持つだろう結界は、古代竜の息吹を防ぐだろうが、それ以上に戦闘の余波というものを闘技場建物に伝えずに済むということを意味する。
古代竜の巨大な口から、イリスが返事をしたとともに吐き出された青い炎は、ルルの結界とイリスの結界を溶かし、また削るように巨大な轟音と衝撃を伝えてきたが、ルル、イリス、どちらの張っている結界もびくともせずに、地上の闘技場ステージにいる者たちを完全に守りきっている。
「……あの二人、とんでもないな……」
ロメオが呻くように隣に立つアイアスに言う。
アイアスもまた、直前まで来ているのに、一向にこちら側には熱気も何も伝えてこない古代竜の青い炎を珍しそうに見つめつつ、眉をしかめる。
「あぁ、カディスノーラ卿の息子はまるで人ではないみてぇだぜ……だが、今日この場にいてくれたことはありがてぇ。いなければ俺たちは……死んでたぜ」
恐れる気持ちが全くないわけではない。
古代竜の息吹と言えば、ありとあらゆるものを焼き尽くすあらがえない災厄の別名に他なら無い。
それを個人の力で防ぎきる存在など、聞いたこともない。
けれど、彼らが善良で、人のために助力を惜しまないような、そんな人間であることはこの場での行動で理解できた。
要人だけを守るならともかく、少なくとも二人は観客も含め、この場にいる全員を守る気でいるのは明らかだ。
そのすべてが善意からの行動だ、と解釈するのは問題かも知れないが、非常事態に見ることの出来る人の本性を見抜くことにかけて、ロメオもアイアスも自分の眼力にそれなりの自信を持っていた。
それから、古代竜の息吹の勢いが弱くなっていったところで、ルルは結界を外し、叫ぶ。
「イリス……今から、撃つぞ! 耐えろ!」
何を、とはイリスは尋ねなかった。空に敵がいる。
通常の攻撃ではちまちまとして時間がかかるかもしれない。
そして、今の人族の体のルルにとって、最大最強の攻撃と言えば……。
イリスは言われて即座に結界に持てる限りの魔力を注ぎ、強化し始める。
そして、それを確認したルルの体に魔力が集約し始めるのを感じ、イリスは勝利を確信した。