第116話 終局
ルルは目の前に迫り来るイリスの拳が、自分の張った結界を確実に削っていく様を驚きと感嘆の籠もった瞳で見つめている。
この様子だと、イリスの拳撃の威力をルルは若干高めにとって結界の強度を調整して構築したつもりだったが、その予測すらも残念なことに間違っていたらしいことが分かる。
そして、予想よりも速い速度でイリスの拳が結界を削っていく中、おそらく、自分の張った結界は打ち抜かれるだろうという結論に達した。
そしてそうであるなら、これから何らかの手だてを打つ必要がある、とも感じた。
そうしなければ自分が打ち倒され、イリスが優勝することになるのは目に見えているからだ。
たとえ、イリスに闘技大会での優勝を譲っても問題はないのだが、負けて手加減をしていたと後で言われるのも良くないだろう。
本気で戦ってそう言われたならそれはそれでかまわないが、全力を出さずに本当に手加減してしまうのは問題だ。
したがって、ルルは、イリスの攻撃を避ける手段を本気で探さなければならない。
しかし、いったいどんな方策があるというのだろうか。
絶妙の間に、針に糸を通すような集中力でもって差し込まれたこの一撃である。
ルルにはほぼ打つ手がない、その一瞬を狙っているのだから、当然ルルに出来ることなど普通に考えればあるわけがないのだ。
だから、ルルはイリスの拳が結界を最後まで打ち抜き、そしてルルの体に向かって届いたその瞬間まで、結局何もする事が出来ずに受ける羽目になったのだった。
とてつもなく重く、速いその攻撃は、ルルの体にその強大な魔力に基づいて、いかに強力な身体強化がかかっているとは言え、容易に受けきれるようなものではなかった。
いや、これを受けられる者など、今の世に果たして存在するのだろうか。
そんな風に思ってしまうほど、強力な一撃だったのだ。
実際、ルルはイリスのその一撃を避けることも耐えることも出来ずに、まっすぐに腹部に受けてしまい、吹き飛ばされることになった。
巨大な衝撃とともに、轟音が聞こえ、気づいたときには宙に体が浮いており、どこまでも減速しなさそうな速度でもって自らの体がステージから遠ざかるように吹き飛んでいっていることを理解するや、これは負けたか、と一瞬思ってしまうほどだった。
意識が一瞬遠ざかり、出していた精霊たちもその存在をぼやかせて消えてしまったくらいだ。
けれど。
そこでそのままやられてしまうようならば、ルルは過去、魔王などと呼ばれて恐れられることなど無かっただろう。
いかなる手段を講じ、またいかなる攻撃を加えても倒しようがなさそうな化け物だったからこそ、ルルはかつて、最強の魔王であると言われて人族に恐れられたのだ。
その真価を今こそ見せるべく、ルルは自分の体の位置を宙の上で確かめながら、イリスの位置も把握する。
彼女は未だ、ステージの上に張り付いている。
一撃加えたことに安心したのか、それとも、全力全開の一撃だったために、活動を再開するのに時間がかかっているのか。
すぐには判断しかねたが、拳を打ち抜いてほんの一瞬ぼうっとしたあと、はっとして吹き飛んでいるルルを見、それから地面を蹴ってルルを追いかけ始めたので、攻撃の反動とも言うべき時間だったことがそれで理解できた。
全力をたった一撃に注いだことは、イリスの魔力と集中力に大きな影響を与えたようである。
ルルも、それをしっかり食らったのであるから、とてもではないが無傷、とはいっていない。
けれど、厚い結界と、強力な身体強化の重ねがけにより、その衝撃は大幅に削減されているのもまた事実だった。
似たような攻撃をもう一度叩き込まれれば、いかにルルとは言え、昏倒を免れない。
そんなダメージをルルは確かに負っていた。
けれど、それはあくまでもう一撃食らえばの話であって、先ほどの拳だけでそこまでは至りそうもない。
体の深いところに芯まで通るような痛みを感じるし、骨の一本二本は折れているようである。
しかし動けないわけではない。
ステージから吹き飛ばされ、古族の絶対障壁に近づきながら、ルルは自らの足に魔術をかけてくるりと体勢を整えた。
その結果、吹き飛ばされたルルは、古族の絶対障壁にぴたりと着地して、向かってくるイリスに視線を合わせる。
魔力を込めた拳をルルに向けているイリスは、目を見開いてルルを見つめた。
まさかそんな対応をするとは思っても見なかったらしい。
技術としては、イリスがユーミス戦で使った小型結界を足場とするものに似ているが、重力に逆らうように、まるで壁に立っているかのような形で足を結界につけているルルの姿はコウモリのように奇妙だった。
そのままルルは絶対障壁を駆け上がり、天井部分に逆さまに立ってイリスを見下ろすような形になる。
放っておけば何が起こるのか、イリスはその優れた感知能力で察知したのだろう。
即座に魔力弾をルルに向けるが、先ほどの攻撃で魔力を多く消費したからか、その威力は貧弱で即席の結界を抜けることすらも出来ずにルルの前で霧散する。
しかしそうなることは計算済みだったのだろう、イリスは魔力弾を放つと同時に新たな魔術を構築し始め、結界天井にぶら下がるルルに鋭い視線を向けてきた。
そしてイリスは両方の手のひらを空に向けて、そこに膨大な魔力を集約する。
さらに魔力弾を放つようにも思えるその格好だが、そうではない。
イリスがこれからしようとしているのは、ある意味で最も古代魔族らしく、また魔術師らしい行動であった。
魔力収束砲と呼ばれるそれは、魔術師の技能の中でも最もシンプルで、かつ最も実力が出やすい魔術に他ならない。
その仕組みは単純かつ簡素であり、ただ自らの持つ魔力に方向性を持たせて放つ、ただそれだけだ。
魔力持つ者なら誰でも使えるその技術だが、そこには当然問題もある。
それは、その魔術師の持つ力が如実に現れることであり、一般的にはこれを使うくらいなら他の魔術に魔力をつぎ込んだ方がよほど効率的に魔力を運用できると言われるくらいに効率が悪い代物なのだ。
けれど、古代魔族において、その理屈は異なった。
実のところ、魔力に造詣が深くなるにつれ、この魔力収束砲の魔力の変換効率は徐々にあがっていき、ある一点を超えると他の魔術よりも高い変換効率を叩き出すことが過去、よく知られていた。
しかし、その一点、というのが現代で言うならばシュイやウヴェズド、ユーミスなどのような特別な存在でなければたどり着けないようなところにあるため、現代ではその事実を知っている者はおそらくは少数、もしくはいないであろうというべきものになっている。
それを、イリスは使おうとしているのだ。
ある程度以上の魔力を持つ魔術師にとって、これは有る意味で最大最強の攻撃である。
けれど、イリスはこれを放とうと考えた時点で、理解してしまっていた。
魔力量によってその勝敗が決まるというのであれば、その軍配がどちらにあがるかなど、火を見るより明らかな事実だと言うことを。
当然のことながら、かつてこの技をもっとも強力なレベルで使いこなした者は、魔王ルルスリア=ノルドを除いて他にないのだから。
ただ、それでも完全にあきらめているわけではもちろん無かった。
人族の体を持つが故に、体外に放出できる魔力に限界のあるルルにとって、この魔術の威力も相当下がっているはずだからだ。
はじめからこれを撃つつもりで、延々と体外に自分の魔力を放出し貯め続けていたというのならまだしも、早い試合展開の中で、様々な魔術を放ち、制御していたルルにそんなことまでする暇は無かったはずだ。
だから、勝機はまだ失っていない。
それどころか、ここまでが、イリスの考えていた展開であった。
拳の一撃で決着がつかなかったとき、それは自分の勝機が限りなく薄くなったことを意味するが、それでも相手はルルなのだ。
たとえ、拳がその体に食い込んだとしても、意識を失わない可能性が、それどころか反撃を加えてくる可能性があることを考えなければならなかった。
そのときに出来る対応が、これだった。
拳がダメなら魔力全放出、一切のあまりなく全てを放つ。
ここで決められなかったら、それこそ自分に一切の勝機はなくなるということをイリスは理解していた。
だからこそ。
イリスは自分の手のひらに十分な魔力が収束したことを確認して、それを解放する。
「……お義兄さま、正真正銘、これが最後ですわ!!」
その言葉を言うが早いか、イリスの手のひらから赤く輝く強大な魔力の奔流が解き放たれ、一直線にルルに向かってくる。
その間、ルルは何をしていたかと言えば、イリスと同様だった。
魔力収束砲、それを放つ以外に避ける術は存在しない。
それに、イリスのそれを避けるという以前に、ルルはこれでもってイリスを叩こうと考えていた。
魔力をただ放つ、という性質上、大きな魔力を大量に通しやすい体を持つイリスの方が構築が早く、それがゆえに先に放たれてしまったのでルルは構築を急いだ。
結果として、ルルの魔力収束砲はイリスのそれがルルに届く前に放たれることになった。
十分、とは言い切れないまでも、大きな魔力だ。
イリスのそれとは対局を為すように、深い海のような青色をしたその輝きはまっすぐにイリスの赤の奔流へと突き進んでいき、そして轟音を立てながら衝突する。
収束砲の大きさは、ルルの砲が若干細く、イリスのそれを散らせてはいるものの、押されているのが分かる。
イリスの放った収束砲のルルのそれによって散らされた部分は様々な方向にレーザーのように飛んでいき、古族の絶対障壁に衝撃を与えた。
それを見て、観客たちは恐怖と感動に大きな声を挙げる。
見るからに細く、弱々しく見えるそのレーザーすら、絶対障壁を揺らすほどの力を持っているのだ。
ルルとイリスが放っているあの太い収束砲にはいったいどれほどの威力があるのか、想像もつかなかった。
二本の魔力の奔流は、お互いに均衡を保ちつつも、ルルの方に向かって押されていく。
そして、均衡が崩れる瞬間がやってきた。
それは意外にも押されていたルルではなく、イリスの方に訪れる。
がくり、と突然、イリスが体勢を崩すと、両手のひらから放出されていた魔力がまるで川が枯れるかのごとく小さく弱いものになっていったのだ。
「魔力切れ、ですか……げほっ……」
全力で体を動かして走り抜けたあとのような、強烈な倦怠感がイリスに襲いかかる。
けれども、それでもまだ、イリスは魔力の放出をやめなかった。
徐々に押されていくイリスの収束砲。
イリスは言う。
「まだ、まだ……です……まだ、私は……!」
けれど、それが虚勢であり、限界であるということは本人も分かっていた。
そして、それがルルに伝わらないはずもない。
古代魔族である。
人族よりはずっと丈夫で、魔力の回復も早く、たとえ魔力切れ間近になっても無理矢理ひねり出して魔術を使い続けることは出来なくはない種族だ。
けれど、それにも限界がある。
ルルにはそれがよく分かっていた。
このまま、イリスに収束砲を使い続けさせれば、後々大きな後遺症を負うことにもなりうるということを。
だからルルは今まで向けていた片手に、さらにもう一本手を足して、イリスに向ける。
それを見たイリスが、驚いたように目を見開き、それからふっと笑ってつぶやいた。
「……まだ、本気ではなかったのですか……本当に、まるで底が見えない方……ふふふ……」
イリスの顔色は、これ以上ないと言うほどに青い。
これ以上は無理だ、そう思ったルルは首を振って言う。
「イリス。お前の力は理解した……だから、そろそろ眠れ。それ以上は体に障る……」
しかし、それでもイリスは力を抜かない。
それどころかさらに魔力をつぎ込んで収束砲を強化する。
「私は……まだ!」
魔力は、人族以上に魔族にとっては生命線だ。
全て使い切らせる訳には、いかなかった。
「イリス……俺は謝らないぞ。そこまで言うなら、耐えて見せろ……!!」
」
そう言った瞬間、ルルの両手から、さらに膨大な魔力が吹き出して、イリスに向かって放たれた。
イリスの貧弱な収束砲は一瞬で駆逐されていき、そしてそのままイリスに衝突する。
耳を塞ぎたくなるほどの爆音と、とてもではないが目を開けてはいられない光が闘技場全体を満たした。
それから、会場にいる者全員が、ぱりん、という何かの砕ける音を聞いた。
それが、古族の絶対障壁の壊れた音であると理解できなかった者はいなかった。